第十八話 熊谷
「名前」って、不思議なものですよね。
ただ呼ぶだけなら、ほんの一言。
それなのに、たった一つの名前を見ただけで、急に気になってしまったり、昔の記憶がよみがえったりすることがあります。
今回の翔平も、ある名前をきっかけに、少しだけ足を止めることになります。
その名前が何を意味するのか。
そして、翔平が感じた違和感は何なのか。
ぜひ、最後まで読んで確かめてみてください。
俺は反射的に手を引いた。
怖かった。
熊が怖いんじゃない。
——自分の身体が。
視線を逸らした先で、熊の耳についた札が目に入った。
黄色い札。
家畜につけるものに似ている。
そこに、黒い文字が刻まれていた。
——熊谷。
「……熊谷?」
名前を口にした瞬間、鼻の奥に妙な匂いが入り込んできた。
血。
獣。
生肉。
匂いを嗅いだだけで、口の中に唾液が溜まった。
「——」
慌てて口を閉じる。
何だ。
今、俺は——。
熊から目を逸らした。
それでも、札の名前が頭から離れない。
昨日の箱。
その底に刻まれていた名前。
そして今、目の前にいる熊。
なぜ熊の耳に、あいつの名前がある?
「……違う」
何が違うのかは分からない。
ただ、これ以上見ていたくなかった。
見ていると、何かが口の中まで上がってきそうだった。
俺たちは熊を外へ運び、診療所の中へ戻った。
「熊は仕留めた!」
猟師の一人が廊下へ向かって叫ぶ。
「誰かいるなら返事をしてくれ!」
別の男も声を上げた。
しばらくして、廊下の奥から職員が一人、恐る恐る姿を現した。
「ありがとうございます……助かりました」
か細い声だった。
俺は周囲を見渡した。
だが——妻と瓜の姿がない。
胸の奥が大きく脈打った。
熊のことも、あの札のことも、一瞬で頭から消えた。
「——俺の妻と瓜は?」
自分でも驚くほど、声が硬くなっていた。
職員が答える。
「先生なら、他の患者さんの様子を見に行かれました。私は、ここで待機するようにと——」
最後まで聞かず、俺は廊下の奥へ駆け出した。
息が苦しい。
胸が痛い。
それでも足は止まらなかった。
部屋を一つずつ確認する。
誰もいない。
次の部屋へ向かう。
廊下の奥から——。
かすかに、話し声が聞こえた。
今回は、翔平の前に少し気になる「名前」が登場しました。
名前を見ただけなのに、どうしてこんなに引っかかるんでしょうね。
人って、普段は何気なく見たり聞いたりしているものの中に、意外とたくさんの情報を受け取っているのかもしれません。
そして今回のお話は、最後にもう一つ気になることが残りました。
翔平が探している二人は、いったいどこにいるのでしょうか。
次のお話では、その先へ進んでいきます。
ここまで読んでくださった方は、ぜひ続きも覗いてみてください。




