第十七話 空腹
目の前で起きていることよりも、ふと感じた匂いの方が気になる。
そんなことがあったら、自分でも少し怖くなるかもしれません。
翔平の感覚は、これまでとは明らかに違うものになりつつあります。
診療所へ着いた。
さっきまで村人たちの声が聞こえていたはずなのに、中へ入ると誰の気配もない。
「——誰もいないのか?」
入口の扉を開く。
ギィィ——。
軋む音だけが、長い廊下に響いた。
「先生!」
誰かが叫んだ。
返事はない。
「おーい!」
やはり、何も返ってこなかった。
さっきまで人がいたはずなのに、診療所だけが村から切り離されたようだった。
「手分けして探そう」
男の一人が言うと、村人たちは廊下へ散っていった。
俺も病室を一つずつ覗いていく。
一つ目。
誰もいない。
二つ目。
誰もいない。
三つ目。
——いた。
誰も声を出さなかった。
「——グルル……」
病室の奥から、低い唸り声が聞こえた。
熊が静かに息をしている。
銃口が一斉に胸へ向いた。
猟師の一人が前へ出る。
迷いなく銃を構えた。
——パンッ。
乾いた音が病室に響く。
熊の身体がびくりと震え、やがて力を失った。
誰かが小さく息を吐いた。
村人たちと熊を担ぎ上げた。
重い。
そう思った。
けれど、腕に伝わる重さが不思議と心地よかった。
冷たい毛に触れる。
硬い皮膚。
指先が、毛の感触を確かめるように動いた。
「……?」
手を止めようとした。
けれど、指先は毛から離れなかった。
硬い毛が指の間を擦る。
その感触に——覚えがあった。
「……なんだ?」
こんなものを触ったことがあるはずがない。
なのに、指先だけが何かを知っている。
毛の流れに沿って、指を動かす。
一度。
もう一度。
触れるたび、妙な安心感が広がっていく。
「……やめろ」
ようやく手を引いた。
それでも、指先には熊の毛の感触が残っていた。
その感触を思い出した瞬間——。
「——グゥ……」
腹の奥から音がした。
俺は腹を押さえた。
「……腹が、減ってるのか?」
さっきまで、そんなことは考えていなかった。
それなのに、目の前の熊から目を離せない。
鼻の奥に、血と獣の匂いが残っている。
俺は、その匂いを追うように息を吸った。
今回は、翔平の「感覚」に大きな変化が現れました。
特に、匂いに対する反応は、これまでの記憶の違和感とは違う種類のものです。
なぜ身体がそんなに反応をするのか。
その理由は、まだ翔平にも分かっていません。




