第十一話 疑い
変わらない日常。
変わらない会話。
いつもの家。
いつもの妻。
何も変わっていないはずなのに、翔平の中には小さな違和感が残り続けていた。
一晩経っても、箱の底に刻まれた名前が頭から離れなかった。
妻に聞けばいい。
それだけのことなのに、妻を疑うのが怖かった。
もし、何かを知っていて、俺に隠しているとしたら。
そう考えるだけで、胸が苦しくなる。
店を閉める前に、いつもの椅子を見た。
誰も座っていない。
——熊谷は、今日も来なかった。
あいつが最後に店へ来たのは、いつだっただろう。
店で新聞を広げ、「コーヒー一杯くれ」と言う姿が浮かぶ。
いつもの声。
誰かが困っていれば放っておけない男だった。
——少なくとも、俺の記憶では。
けれど、いつの記憶なのか思い出せない。
店の脇に置かれた回収箱へ目を向ける。
その底には、熊谷の名前が刻まれている。
「……」
妻に見せるつもりだった。
なのに、忘れていたことにすら気づかなかった。
「……おかしいだろ」
呟いて、家へ入った。
「おかえりなさい」
玄関の灯りが廊下を照らしていた。
「ただいま」
「今日は遅かったね」
「店で少し長話してた」
「また世間話?」
「半分以上な」
妻が笑う。
いつもの会話。いつもの声。
それなのに、落ち着かなかった。
居間では、妻が鍋をかき混ぜていた。
その背中を見て、少しだけ肩の力が抜ける。
「……よかった」
「何が?」
「いや。何でもない」
妻は不思議そうに俺を見た。
「今日、診療所に泊まることになったから」
「……またか」
口にした瞬間、引っかかった。
妻は、いつから診療所に泊まるようになった?
いつから俺は、それを「また」と思うようになった?
「そうか」
椅子に腰を下ろす。
「頑張れよ」
妻が顔を覗き込んだ。
「最近、ちゃんと寝てる?」
「——なんだ、急に」
「顔色、悪いから」
額に触れた指先は、ひんやりとしていた。
「熱はなさそうね」
「大丈夫だよ」
「本当に?」
「本当だ」
妻は少し笑った。
「昔から、無理するんだから」
「そうだったか?」
妻は答えず、ただ俺を見ていた。
雨の日には傘を差し出し、冬には寒くないかと気にかけてくれた。
——本当に、それだけだっただろうか。
「……なあ」
「ん?」
回収箱。熊谷。
聞かなければならない。
あいつは、本当に俺の知っている熊谷だったのか。
誰かのために動く男だったはずだ。
なのに、箱にはあいつの名前が刻まれている。
なぜだ。
何をした。
何を隠していた。
なのに——。
「……いや、何でもない」
妻が首を傾げる。
「そう?」
「ああ」
妻は笑った。
俺も笑った。
いつもと同じ。
——なのに、その「いつも」が急に怖くなった。
妻を疑えばいい。
回収箱のことを聞けばいい。
そう分かっているのに、翔平はその言葉を口にすることができなかった。
信じてきた十七年間。
その「いつも」が崩れることの方が、何より怖かった。




