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09 前室にて

エルナ、公爵、エルナの順に視点が変わります。

支度を終えた鏡の前で、ミナが息を呑んだ。


「……お、お似合いです……っ」


王妃さまの見立てに、間違いなどあるはずがない。深い色の絹は、灯りを受けるたび、静かに表情を変える。華奢な骨格に合わせて仕立てられた一着は、私の頼りないところを上手に隠し、似合うところだけを拾い上げてくれていた。美しいかどうかは分からない。けれど、少なくとも、ちぐはぐではない。公爵夫人としての体面は、どうにか保てている。そのことだけを、鏡の中で確かめた。


髪は、結い上げた。仕上げに、と伸ばしたその手が止まる。


しまい込んだ宝石の箱は、戸棚の奥。出さない。あれは、出せない。けれど、結い上げた髪に何もないのでは、女主人の装いとして格好がつかない。


机の隅で、飴色が、光っている。


……これは、髪のための道具。櫛は髪に挿すもの。そういうものでしょう。

言い訳をひとつ呑み込んで。私は、あの鼈甲の櫛を結い上げた髪に挿した。


ミナが、また息を呑んだ。今度は、何も言わなかった。






応接の間に、賓客が流れ込んでくる。


迎えるのは、公爵夫妻。この家の万事が誰の采配であろうと、客をお迎えする扉の前に立つのは、当主と、その妻。今夜ばかりは、誰にも、ここから私をどかせない。


「ようこそ、お越しくださいました」


腰は、落とさない。会釈と微笑み。お名前と、お顔と、近況。頭の中の帳面を、一頁ずつめくっていく。


遠方からお越しの男爵ご夫妻には、道中の峠道の具合を。近ごろ初孫がお生まれになった伯爵には、祝いの言葉をひとつ。海沿いに領地をお持ちの子爵さまには、今年の港の賑わいを。新しい詩集をお出しになった夫人には、装丁の趣向を。まあ、そこまで、と扇の陰で笑みがこぼれる。少し手持ち無沙汰にしていらした若い騎士夫人には、その詩集の話の輪へ、そっと、言葉の端を結んで。


私の手の届く半径だけは、つつがなく回っている。


ふと、視線を感じた。隣の、公爵さま。その目が、また、私の髪のあたりへ戻っている。お客さまに礼を返し、言葉を交わし、いったんは前を向かれるのに、気づけばまた。


……結いが、緩んだかしら。それとも、櫛の挿しどころが、おかしかった?

確かめる術もないまま、次のお客さまが見えた。






回っていないのは、半径の外だった。


着席のご案内が、いつまでも来ない。

厨房が、遅れている。給仕の出入りのせわしなさで分かる。盆を持たない給仕が、早足で、同じ扉を三度くぐった。


手持ち無沙汰のお客さまの輪が、少しずつほどけ始める。グラスが空く。話の継ぎ穂が切れる。ざわめきの質が変わっていく。


部屋の向こうでは、公爵さまが客の輪に囲まれていた。問われて、答える。短く。また、問われて、答える。短く。悪気のない無口が、お客の目には、威圧と映る。間が凍っていく。誰か、あの輪に聞き上手を——


その手前では、ロゼリアさまが、華やぎの中心にいた。扇が揺れるたび、若い客の笑い声が立つ。お美しいこと。心からそう思う。そして、あの位置からは、給仕の早足も、空いたグラスも、何ひとつ見えていない。





◆ ◆ ◆


ギルバートが、側へ来た。招待客を席に案内してよいかの確認だ。是、と返しかけた俺に、家令は一枚の紙を差し出した。


「その前に、ひとつ。……席次に、ございます」


声が、固い。


「本来であれば、卓を整える前に、私が検めるべきもの。なれど、こたびは奥向きにて整えるとのことで、写しがこの手に参りましたのは、ただいま。……差し出がましくは存じますが、この配りは、いささか」


紙に、目を落として、血の気が引いた。


なんだこの席は。あの家とあの家を隣に? 正気か。誰がこれを。

奥向き。妻が? ありえない。あの人の仕事に、こんな穴はない。


……まさか。「陰ながら」と言った、あれか。


「私の、不徳のいたすところに、ございます」


ギルバートが、頭を下げる。違う。おまえのせいではない。検めようのなかった者に、何の咎がある。だが、それを言葉にしている場合でもない。案内を出せば、客は座る。座れば、この紙のとおりに夜が進む。どうする。考えろ。考えろ。喉の奥だけが、からからに乾いていく。


気がつけば、目が妻を探していた。

すがるつもりは、なかった。ただ、勝手に。



◆ ◆ ◆


ギルバートが、客の合間を縫って、公爵さまのお側へ、滑るように寄った。それを見た私も公爵さまの隣へさりげなく移動する。


あの実直な家令の声に、苦いものが、混じっている。その手から、一枚の紙が公爵さまへ、差し出された。


公爵さまの目が、紙に落ちる。

つられて、私の目も落ちた。


席次表。


読むつもりは、なかったのよ。けれど、宛名と席順というものは、私の目には、楽譜のように飛び込んでくる。逆さからでも、読めてしまう。


——三年前から仲違いなさっている二つの家が、隣り合わせ。


——序列にことのほか、うるさい老侯爵さまの席が、一段低い。


——お話の過ぎる方々ばかりの卓に、あの子爵の奥方さまが、ぽつんと、ひとり。ほかにも……


楽譜が、ぜんぶ、不協和音でできている。どうしてこんなことに。


手順書にしたためた席次のいくつかが、変えられたようね。

誰の差配かは——考えない。いまは、そこじゃない。


この配りのまま皆さまが座れば、この夜は、お料理が冷めるよりも早く冷える。せっかくお越しくださった方々が、誰ひとり、心地よく帰れない。三時間、逃げ場のない椅子の上で。そして、公爵家の名には、今夜かぎりでない傷がつく。


頭の中で、帳面が勝手に開く。要るものを数えていく。


席を直す手と時間。そして、その時間のあいだ、お客さまの目と心を、よそへお預けしておく、何か。


足りない。何もかも、足りない。それでも、指を折るのは、止まらなかった。


そのとき、視線を感じた。


公爵さまが、こちらを、見ていた。


視線が、合う。


公爵さまは、逸らさなかった。いえ。逸らせずに、いらした。いつもの凍ったようなお顔のずっと奥のほうで、何かが、途方に暮れている。


雨の日に、置いていかれた、大きな犬。


……なんて。失礼にも、ほどがあるのに。胸の、妙なところが、きゅう、と小さく鳴って、時が止まった。


「エルナさま」


耳慣れた声が聞こえて、時が動いた。

ミナだった。折りたたまれた紙を、両手で差し出してくる。


「これを……」


開くと、見覚えのある、自分の字。


その上に、見覚えのない線が何本も引かれていた。消された行の脇、余白に、別の手が書き足されている。席の並び。皿の数。


丁寧に伸ばされているけれど、刻まれた皺は細かく無数にある。どこかに捨て置かれていたものを、ミナがこっそり拾ってくれたのだと、すぐに分かった。


いつかの、手順書。


「……あの。いまじゃ、ない方が、よかったでしょうか」


いいえ、ミナ。


——いまが、いちばん、いいのよ。


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