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10 奥方さまの即興曲

公爵視点です

お仕着せ姿の小さな娘が、妻に両手で、何かを差し出している。

折りたたまれた紙のようなもの。妻がそれを受け取って、開き、目を走らせる。


娘と、二言、三言。それから妻は、半歩こちらへ寄った。もとより、俺の隣にいた人だ。その半歩で、声の届く距離が変わっただけ。


「ギルバート」


妻は、俺ではなく、まず家令に声を落とした。


「ご案内、あと少しだけ、お待たせできて?」


ギルバートが、俺を見た。裁可を求める目だった。

俺は、頷いた。

それが、この夜、俺にできた、最初のまともな仕事だった。


「ミナ」


妻が、小さな娘を呼ぶ。


「私の部屋から、文箱を。机の上よ。走ってちょうだい。……廊下に出てからね」


娘が、深く頷いて、しずしずと扉を出ていき、直後、廊下を駆ける足音が遠ざかった。


それから妻は、あの折りたたまれていた紙を広げて家令に渡した。低い声で、二言、三言。白い指が、紙の上の、いくつかの箇所だけを、こつ、こつ、と叩いていく。


三つ。四つ。……五つ。それきり、指は、止まった。


ギルバートが、叩かれた紙と、妻の顔を見比べる。それから、今夜いちばん深く、頭を下げた。


「……承りました」


家令が身を起こしたときには、もう、給仕がふたり、音もなく側に控えていた。短い口頭の指示。さきほどの紙を渡された給仕たちが食堂へ消える。何が始まったのか、俺には、まだ分からない。


それから妻は、何かを思い出したように、家令へ目を向けた。


「このお屋敷には、音楽室がございましたね」


「はい」


「今すぐ、一曲お願いできる方は?」


ギルバートが、ほんの一瞬だけ俺を見た。

嫌な予感がする。


「旦那さまは、若いころ、よく」


「ギルバート」


思わず、声が低くなった。

昔の話だ。爵位を継いでからは、楽器に触れる暇など、ほとんどなかった。人前で弾くなど、なおさら。


妻が、俺を見て言った。


「公爵さまには、いちばん大きなお役目をお願いいたします」


「……俺に、何をしろと」


「席が整うまでの時間を稼いでいただきたいのです」


妻は、俺の従者を、目で側へ呼んだ。耳元で、何かを短く。従者が、驚いたように俺を見て、もう一度妻を見て、慌ただしく応接の間を出ていった。


ほどなく、従者が戻ってきた。細長い、布の包みを、捧げ持って。


その形には、見覚えがあった。

妻が包みを受け取り、布の端をほどく。

かつて愛用していたバイオリン。飴色の、見慣れた肌。


「……なぜ」


「皆さまのお時間を数分いただくには、音楽がいちばん自然ですもの」


妻は、こともなげに言った。


「何か一曲お願いできませんか?」


「急に言われて、弾けるものではない」


「では、今いちばん、手が覚えていそうな曲は何でしょうか?」


当然のことのように、訊いてくる。断る言葉を探していたはずの口が、


「……『冬夜の踊り』なら」


と、答えていた。古い舞踏曲だ。子供の時分に、最初に覚えた。

妻が、微笑んだ。


「ようございます。では、それを。伴奏は、わたくしが」


言うなり、応接の間の隅へ歩いて、ピアノの蓋を開けた。






バイオリンに顎を当てる。弦に、弓を乗せる。


客が、こちらを見ている。全員が。ざわめきが、好奇の色に変わって、俺に刺さる。喉がひりつく。社交辞令の一つも言えん男が、何をしようというのか。俺が客なら、そう思う。


ピアノが、先に鳴った。


低く、短い、前触れの和音。ひとつ。まるで、こちらの呼吸を数えてくれているように。


俺は腹をくくって、弓を引いた。


ひどい出だしだった、と思う。指が強張っている。音が固い。爵位を継いでから、まともに一曲弾いたことが、どれほどあっただろう。


だが、ピアノは、俺の固い音を咎めなかった。こちらの遅れるとゆっくりと合わせ、早すぎるところは落ち着いて待ち、固いところは固いままに、下から支えてくる。


二巡り目から、指が、少しずつ思い出した。


『冬夜の踊り』は、中盤以降に速くなる。速くなるほど、不思議と指が楽になる、そういう曲だ。子どものころ、この曲だけは、終わるのが惜しくて何度も弾いた。そんなことまで、妙にはっきり思い出す。


ピアノが、煽る。バイオリンが、応える。気づけば、客のざわめきが、消えていた。グラスを置く音。衣擦れ。扇の止まる気配。誰かの、ほう、という吐息。


俺は、客の顔を、見た。


老侯爵が、膝で拍子を取っている。若い奥方が、口元を両手で覆って、目を輝かせている。


驚いた。


俺は、弾きながら、少し楽しいと思っていた。


視界の端で、夜が作り直されていく。食堂に出入りする、給仕の流れ。箱を抱えた、ミナの小さな背中。扉の内で、静かに動き続ける、ギルバートの気配。妻はピアノの前で、ただ鍵盤に目を伏せて、何ひとつ指図していないように見える。そう見えるのに、この夜のすべてが、いま、あの人の手の中で回っている。


最後の一巡り。ピアノが、わずかに、緩めた。終わりをこちらに委ねる形に。


俺は、弓を長く引き切った。


一拍の、静寂。


それから、拍手が来た。波のように。


弓を下ろした、ちょうど、そのとき。


食堂の扉が、左右から、音もなく開かれた。


整いました、というギルバートの声より先に、客の誰かが、あら、と声を上げた。


白い卓の上。皿の前に、ひとつずつ。小さな、霜の花のリボンを結ばれた、見たことのないものが、並んでいた。


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