11 見たことのない席札
拍手が、波のように引いていく。
その引き際を待っていたように、ギルバートが、客を席へと促していく。私も、夫人の席へ。
卓の上には、私の字が並んでいた。一枚ずつ、霜の花のリボンが結ばれて、それぞれの方の皿の前に。
ギルバートとミナに指示して、用意していた礼状のカードを席札へ転用させた。今宵の晩餐会は、案内係がお客さまを席まで導く段取りだったから、急な席次の変更で彼らが迷わぬよう、措置が必要だったのだ。けれども、席札に文を添えたものなど、前例がない。少なくとも私は知らないし、王宮でも、みたことがない。前例のないことを、私は、卓いっぱいに並べてしまった。
算段は、ある。大丈夫なはず――と、思っている。けれど。
前例がないということは、これを無作法と見る方がいらしても、ちっとも、おかしくない、ということでもある。
直す手は、もう、ない。
私は、膝の上で、手を重ねた。息を、ひとつ、整える。
最初のリボンが、ほどかれた。
つづいて、あちらでも。こちらでも。ざわめきが、さざ波のように、卓を渡っていく。「あら」「これは」「どなたの、趣向かしら」――。声の色は、わるくない。けれど、まだ、定まらない。どちらへも、転びうる。
「席札に、お文を添えるなど」
ひとりの、年配のご婦人だった。ただ、ふと、口をついて出た、というふうに言葉が紡がれる。
「こういうのは……正式の作法に、適うものなのかしら」
しん、と。
卓に、細い糸が張った。
来た、と思った。いちばん、恐れていた問い。それが、いちばん出てほしくなかったときに、出てしまった。誰かが、頷いてしまえば。たったひとり、眉をひそめてみせれば。この糸は、たぶん、ぴんと張りつめて――。
「なんだね」
低い声が、響いた。
ヴェルダン侯爵だった。狩りを好む、年嵩の侯爵さま。格式と礼節には、どなたよりお厳しいことで知られた、あのお方。
侯爵さまは、開いたカードを手にしたまま、ふと、黙っていらした。
そこに書いてあるのは、お名前と――先だっての遠駆けの首尾を問う、一行。
カードへ落とされた目は動かない。
卓のあちこちで、ほどかれていたリボンの音が、止まったような気がした。
やがて侯爵さまは、低く唸られた。
「うぅむ…」
胸の奥に、ひやりとしたものが落ちる。
「これは……困ったな」
侯爵さまは、隣のお客さまへ、ご自分のカードをお見せになった。
「実に、よい趣向だ。……いや、それより聞いてくれるか。先だっての遠駆けがな」
問われてもいないのに、遠駆けの首尾を語りはじめてしまわれた。
満面の、ご機嫌で。
私の肩から、ひとつ、力が、抜けた。
無作法とは、受け取られなかった。
あのヴェルダン侯爵さまが、よい、とおっしゃったのだもの。礼節に人一倍お厳しいその方が認めたものを、もう、どなたも、作法を盾に、眉をひそめたりは、なさらない。
それを契機に、戸惑いは、潮が変わるように、称賛へなびいていった。私はそっと胸をなでおろした。
「まあ、わたくしのカードにも」
「お訊ねしようと思っていたことが、書いてあるわ」
「このリボン、なんてかわいらしい」
卓が、生き返っていく。
ヴェルダン侯爵さまの、高らかな笑い声。温室をお持ちの伯爵夫人が、隣のお客さまと、カードを見せ合っていらっしゃる気配。ほどいたリボンの、霜の花の刺繍に目を留める方もいる。これは、どこの手仕事かしら、と。
私は、壁際のギルバートへ、そっと目をやった。視線だけで、足りた。ギルバートが、お客さまのそばへ寄り、霜花刺しのいわれを語りはじめる。領地の刺繍で。冬の特産で。
やがて。
卓の喧騒が、ふっと遠のく一瞬があった。
その向こうに、私は見た。
人前の、お得意でない、若い子爵の奥方さま。今日も、どなたとも、ひとこともお話しになれずにいる。卓の隅で、ただ、お行儀よく。
けれど、その手が。
開いたカードを、引き寄せていた。
――どなたとも、お話しになれなかったとしても。この一文だけは、届くように。少しだけ長めに。
あの、一通だった。
奥方さまは、それを、声もなく胸元へ引き寄せて。それから、ほんの少しだけ目元を伏せられた。
届いた。
私は、そっと息を吐いた。
……間に合って、よかった。
差し出口を、きいてしまったかもしれない。
けれど、それを悔いる気はない。
私は、その気持ちを、心の帳面にそっとしまった。
そうしているうちにも、称賛は卓を巡って流れていく。「さすが、公爵家」「どなたの、お心配りかしら」――そうして、その問いの行き着く先は、決まっていた。
「まあ。ありがとう存じます」
令嬢だった。
ぱっと、花が咲くように、お笑いになる。
「わたくし、夫人に請われて、今宵の晩餐会のお手伝いを。皆さまに、心地よくお過ごしいただきたくて、精一杯、心を尽くしましたの」
その、半歩うしろに。家政婦頭が、満足げに控えていた。お仕えする方が褒められるのを、ご自分のことのように。
まあ、いいわ。手柄というものは、欲しい方のところへ流れていけばいい。私は、べつだん、要らないもの。
卓が温まったのなら、今夜の商いは、それで繁盛。売り手の名は、品書きに要らない。おいしくお召し上がりいただけたなら、料理人はそれで、ね。
と、そこで。
心の帳面が、別の頁を勝手にめくった。
最初の皿が、まだ、来ていない。
これだけ、座が温まって。お話も弾んで。それなのに、卓の上は、まだ、白いまま。グラスと、私の席札の、ほかには、何も。
厨房で、何かが、止まっている。
夜は、これからだ。次の火種は、もう、卓の上でくすぶり始めている。




