08 晩餐会まであと三日
前半公爵視点、後半エルナ視点です。
朝食の席で、それとなく、妻の髪を見た。
飾りは、ない。耳にも、胸にも、指にも。贈った品は、ひとつも身についていなかった。
そうか、と思った。知らず期待していたのか、思いのほか落胆している自分がいる。匙が、皿の上で、二度ほど行き場を失った。
気に入らなかったか? どんな服にも合わせられるように、さまざまな種類を選んだのだが。いや、選びすぎか? いや。そもそも、ああいうきらきらしたものに、はなから興味がないのかもしれない。思えば、いつも彼女の装いは上質で美しいが派手さはない。
そこまで考えて、匙を置いた。違う。興味の話ではない。渡し方を間違えたのだ、俺が。文も添えず、使いに運ばせて、山と積んで。あれでは贈り物ではなく、納品だ。つつましい彼女のことだ。恐れ多いと、かえって萎縮した可能性もある。
せめて、晩餐会で。
女主人として、客の前に立つ夜だ。装いに、飾りのひとつも要る夜だ。あの中のどれかが、もし、ひとつでも。
……いや。着けてくれと言える筋ではない。贈っただけだ。選ぶのは、あのひとだ。
それでも、と思ってしまう。もし、あの櫛が、あの髪にあったなら。
俺は、その先を考えるのをやめて冷めかけた茶を飲んだ。向かいの妻は、今朝もよそゆきの顔で静かに匙を動かしている。
◆ ◆ ◆
晩餐会まで、あと三日。
廊下を歩けば、軋みは、いやでも耳に入ってくる。
花が届くのは当日の朝か、前の日の夕方か。聞いた相手によって、返事が違う。談話室の燭台は磨くのか、取り替えるのか。誰も知らない。荷を抱えた下男が、行っては、戻ってくる。同じ廊下を、何度も。
「奥さま、あの……っ」
呼び止められた。先日の、卓布の娘だ。今度は、花瓶のことだという。大広間の花瓶は、銀のと、白磁のと、どちらを出せばいいのか。家政婦頭さまは、ロゼリアさまのお部屋から、お出にならなくて——と、娘は声をひそめた。
卓の高さと、灯りの色を、頭に並べる。
——白磁ね。銀は灯りを撥ねて、お料理より先に、自分が光るもの。
「白磁になさい。銀は、よく磨いて、しまっておいて」
「はいっ」
ぱっと顔を明るくして、駆けていく。……ただ、駆け出す前に、一度だけ、私の顔と、廊下の奥とを、見比べていった。
それを見送って、少しだけ可笑しくなる。このごろ、よく呼び止められること。家政婦頭さまが、それだけお忙しいのね。聞かれれば、答える。聞かれないことは、言わない。それで、いい。
ただ、気づいてしまった。
聞かれるのは、布。花。灯り。蝋燭の数。みんな、目に見えるものばかり。晩餐の出来をほんとうに決める、目に見えないほう。どなたを、どなたの隣にお通しするか。人の配りについては、誰も、何も、聞きに来ない。
胸の奥が、すうすうする。
いえ。手順書には席次も記してある。釘も刺した。「存じ上げております」と、あの方は仰った。なら、信じましょう。ロゼリアさまは、この家のことも、社交界のことも、私よりよほど長く、ご存じのはずだもの。悪い予感なんて、はずれるためにあるのよ。
……大丈夫、よね?
ひとつ、胸を撫でて、おさめる。人さまの領分を、よそから案じるのは、おしまい。いまの私に、できることを。
部屋に戻って、新しいカードの束を机に置いた。厚手の上等な紙を、二つに折った掌ほどのカード。
礼状である。お越しくださったお客さまへ、催しの翌朝にお届けする、お礼のカード。表には、家紋の空押しと宛名だけ。言葉は、開いた中に。お礼というものは、表に書き散らすものではなく、開いてくださった、その方だけのものだから。準備から離れた妻にも、誰に咎められることなく、できる仕事。王妃さまのお側にいたころは、夜会の翌朝までに、何十枚と仕上げたものだ。
お招きした顔ぶれは、頭に入っている。
一枚ずつ、その方の顔を思い浮かべる。一枚ずつ、その方だけの一言を添える。
狩りのお話がお好きな、老侯爵さまには、先だっての遠駆けの首尾を伺う形に。温室を新しくなさったばかりの伯爵夫人には、冬の薔薇の咲き具合に触れて。人前がお得意でない、若い子爵の奥方さまには——もし当日、どなたともお話しになれなかったとしても、この一文だけは届くように。少し、長めに。
ペンは、澱みなく進む。
机の隅では、櫛の飴色と、しおりの銀の花が、かすかに光っている。目に入るたび、ペンの先が、ほんの一拍、迷う。迷って、また、進む。
扉が、控えめに鳴った。ギルバートだ。手にした小箱を、机の端に、そっと置く。
「工房より、まずは見本が届きましてございます。ご入用の品は、晩餐会の前日までには、必ず」
小箱の中には、細いリボンが幾筋も。銀の枝に霜の花。あの霜花刺しだ。幅は指二本ほど。けれど、刺し目の細やかさは、廊下のタペストリーに少しもひけを取らない。
あら。
書き上げたばかりのカードを、一枚、手に取る。リボンを、ゆるく結んでみた。家紋の空押しの上に、霜の花がひと枝。ほどけば、手仕事はその方の手元に残る。
——御土産の先触れということにしましょう。翌朝のお礼に、領地の手仕事をひと筋ずつ。
我ながら、悪くない。一枚結ぶごとに、少しだけ楽しくなってくるのだから、現金なものだこと。
書き上がったカードをひとつずつリボンで留めて、揃えて、文箱に納めた。晩餐会の翌朝、いちばんに出せるように。
ふと、思う。この家から出す礼状は、これが最後になるのかもしれない。
だったら、なおさら。一枚も、手は抜けないわね。
そうして。
見えないところは、誰の手も入らないまま。
晩餐会の日となった。




