05 行かせたくない
公爵視点です
書類を検めるふりをして、俺は、さっきの光景を、頭から追い出せずにいた。
回廊で見た、妻の横顔。
テオの軽口に、声を立てて笑っていた。俺の前では、一度も、見せたことのない顔で。
その当のテオが、いま、目の前にいる。外交部からの届け物を置いて、帰りぎわ、思い出したように、口を開いた。
「そういえば、閣下。奥方に、妙な頼まれごとをしましてね」
「……何だ」
「王宮に、宮仕えの口はないか、それとなく探してほしい、と」
は?
ペンを持つ手が止まる。
「……宮仕え?」
「ええ。驚いたでしょう。公爵夫人が、ですよ。私もてっきり、公爵夫人として王妃さまのお側にでも戻られるおつもりかと思えば、そうじゃない。ただの、勤め口を、と」
テオは、にやりと笑って、俺の顔を覗き込む。
「閣下。いったい、何をやらかしたんです」
「……やらかして、などいない」
「またまた。奥方が、こっそり逃げ道を探すほどですよ。よっぽど、その無愛想を、貫き通したんでしょう」
「黙れ」
「はは。図星ですか」
俺が睨むと、テオは、おどけて両手を上げて、それ以上は、追ってこなかった。
テオが帰り、執務室には、俺ひとりが残された。
さっき聞いた軽口が、棘になって、胸に刺さっている。
やらかした、か。
思いは、いつまで経っても、伝えられない。ロゼリアには終わりを告げた。それなのに、その終わりを屋敷の者にも妻にも、まだ示せずにいる。だが、妻は嫉妬の素振りひとつ、見せてくれない。俺以外の男には、あんなに無防備に笑うくせに、俺の前では、隙のない微笑みばかり。そのうえ、今度は、外へ働きに出る算段だという。俺にではなく、よりにもよって、テオを頼って。
……テオめ。
詮無い八つ当たりだと、分かっている。分かっていても、腹の底が、ざらついて、仕方がない。
いや。待て。
そもそも、働く? なぜだ。この家の、どこに、不自由がある。
ここにいるのが、そんなに、嫌なのか? やはりこの結婚が……
そこまで考えて、ふと、思い出した。
先日、あの人は、申し出てきた。何か、お役に立てることがあれば、と。書き物でも、書類の整理でも、何でも、と。
あれは。もしかして。
退屈、なのか?
毎日、客間で、することもなく。あの、誰より目端の利く、よく働く人が。
ならば、いっそ、俺の仕事を、手伝ってもらえば。……いや。だめだ。だめだだめだ。あの人が、すぐ隣に。同じ机に。考えただけで、心臓が、もたない。これ以上、間の抜けた顔でも晒した日には。ぞっとする。
では、どうする。考えろ。考えろ。
何か、ないか。あの人にふさわしくて、退屈を忘れられて、わざわざ、よそに勤め口など探さずとも済むような、大きな、役目が。それでいて、俺が、すぐ隣で見惚れて固まらずに済む、ちょうどいい、距離の。
……晩餐会はどうだ?
我ながら、調子のいい言い分だと、思う。退屈しのぎだの、役目だの。本当は、ただ、行かせたくないだけの、くせに。
それでも、俺は、その思いつきに、すがるように、飛びついた。
翌朝。
客を招く、と屋敷の者に申し渡すため、ギルバートに、家政婦頭と主だった者を集めさせた。
妻にも、残ってもらう。
「晩餐会を開く」
並んだ使用人たちの間に、小さな緊張が走る。
「采配は、夫人に任せる。必要なものは、夫人の指示を仰げ。困ったことがあれば、まず夫人へ通せ」
部屋の隅で、妻が、わずかに目を見開くのが、視界の端に映った。
言い方が、硬かったか? だが、それ以上の言葉は、喉の奥で形にならなかった。
「まあ、晩餐会。なんて、素敵な」
そのとき、扉のそばで明るい声がした。
ロゼリアだ。
どこで聞きつけたのか、淡い色のドレスの裾を揺らして、こちらへ進み出てくる。目は、純粋に華やいでいた。晩餐会と聞けば、昔からそういう顔をする。招かれることも、飾ることも、采配を手伝うことも、彼女は嫌いではなかった。
「ぜひ、わたくしにもお手伝いさせてくださいませ。こういうお支度は、慣れておりますの」
ロゼリアの声に、家政婦頭の肩が、わずかに緩んだ。
見慣れた形なのだろう。
女主人のいないあいだ、そうしてきたのだ。家政婦頭がロゼリアへ伺い、ロゼリアが華やかなものを選び、屋敷の者がそれに従う。父の代から続いた、その場しのぎの形。だが、今は違う。
「いや」
俺は、はっきりと言った。
ロゼリアの足が止まる。
「晩餐会の采配は、女主人の務めだ。夫人に任せる」
ロゼリアの笑みが、一瞬だけ固まった。
慣れていた役目を、急に手から外された子どものような顔。自分がそこに立つものだと信じてきた時間を、どう畳めばいいのか分からない顔だった。すぐに、彼女は目を伏せた。
「……さようでございますわね。出過ぎたことを申しました」
声は、思ったより素直だった。
「もちろん、夫人のお差配で。わたくしは、ただ」
ロゼリアは、少しだけ妻のほうを見た。
「エルナさまがこの家のことでお困りにならぬよう、陰ながら、お手伝いできればと」
陰ながら。
その言葉に、少しだけ引っかかりはした。
「夫人が求めたことだけだ」
俺が言うと、ロゼリアは、すぐに目を伏せた。
「もちろんでございます。出過ぎた真似はいたしませんわ」
その返事に、俺は頷いた。
先日、小応接で、彼女は同じようなことを言った。この家のことをエルナへ伝えたい、と。エルナが不安でいるだろうから、と。
家政婦頭が、深く頭を下げる。ギルバートも、静かに礼をした。
妻は、何も言わなかった。ただ、いつものように姿勢を正し、穏やかな顔でそこにいた。
これで、あの人に、この家での務めが、ひとつ、できる。少なくとも、それが片づくまでは、出ていくなどと、言い出せまい。我ながら、卑怯な考えだ。それでも俺は、ただ、そう願っていた。あの人が、この家に留まる理由を、ひとつでも多く持ってくれることを。
ロゼリアが言った「陰ながら」という言葉が、屋敷の者たちにどう聞こえたのか。
俺が付けたはずの制限が、誰の耳にどこまで残ったのか。
そのことまで、俺は考えられていなかった。




