04 次の身の振り方
前半エルナ視点、後半公爵視点です
公爵さまは、毎日、食事の席に現れるようになった。
三日も家を空けた、その埋め合わせのつもりだろうか。朝も、夜も、きっちり、向かいの席に座る。けれど、ひとことも、しゃべらない。私が水を向けても、「ああ」とか、「いや」とか。会話というより、相槌の化石だ。同じ卓を囲んでいるのに、まるで、別々の部屋にいるみたい。
令嬢は、この席には、めったに現れない。家政婦頭の話によると、女主人のお務めで、それはもうお忙しいらしい。
あれから一度だけ、朝食の席で令嬢の話を、出してみたことがある。あの方は近頃いかがお過ごしですか、と、ごく何気なく。とたんに、公爵さまの眉が、寄った。フォークを置いて、それきり、口を結んでしまう。
——おや。
やっぱり触れてほしくないのね。
心の帳面に、そっと、一行。
よく分かりました。これ以上は、うかがいません。
廊下で令嬢とすれ違えば、決まって、ため息つきだ。
「ほんとうに、てんてこ舞い。あなたは、お気楽でよろしいこと」
お気楽、でもないのだけど。
あなたさまと家政婦頭が奥向きの仕事を抱え込んでいるからですよ、とは言わない。試しに、お手伝いしましょうか、と声をかければ、
「結構よ。あなたのお手を借りるほど、困ってはおりませんもの」
にっこりと、剣もほろろ。なるほど。名ばかり公爵夫人の出番はないらしい。
ならば、と、ある朝、思いきって公爵さまに申し出てみた。
「書き物でも、書類の整理でも、何でも、お手伝いいたします。父の領地経営を、少し補佐しておりましたから、多少は、お役に立てることもあるかと存じます」
公爵さまは、少し、目を見開いて、私を見た。それから、低く、「……いや。ゆっくり、していてくれ」と。
ゆっくり、していてくれ。
初日に、家政婦頭にも、同じことを言われた。どうぞ、ごゆっくり、と。
はい。よくわかりました。
奥にも、表にも、私の出る幕は、ない。この家は、私がいなくても、なんの不自由もなく、回っていく。
それでいて、目だけは、勝手に働いてしまうのだから、困る。傾いだままの燭台。叱られて肩をすぼめる、下働きの娘。盆の運び方、人の配り方。あちこちに、惜しい、と思うところがある。手をかければ、もっと楽に回るだろうに、と。
けれど、私は、目をそらす。それは、私の領分ではない。
する事のない身体は、屋敷の中を、よく歩く。ある午後、半分開いた扉の奥に、音楽室を見つけた。陽の差す窓辺にピアノ。壁際の台に、バイオリンが一挺、立ててあった。
あら。
どれも、よく手入れされている。埃はなく、鍵盤の蓋にも、弦にも、しまい込まれたもの特有の鈍さがない。使われる部屋は、空気が違うものだ。
——飾りものだけを置いたお部屋では、なさそうね。
誰が弾くのかまでは、分からない。聞ける相手も、いない。私は、そっと扉を閉めて、その部屋を、あとにした。
そんな、ある日のこと。
廊下の角を曲がったところで、足が、止まった。
少し先に、公爵さまの背中があった。その向かいで、令嬢が、何か、ことさら楽しげに話している。公爵さまの顔は、こちらからは、見えない。
と、令嬢の視線が、ふと、こちらを向いた。私と、目が合う。
その瞬間だった。令嬢が、いっそうにっこりと笑って、公爵さまの腕に、自分の腕を、するりと絡めた。まるで、見せつけるように。
似合いの、二人だった。
私は、そっと、踵を返す。
ふと、
ずっと昔に言われた言葉が、よみがえった。
『きみは強いから、ぼくがいなくても、平気だろう?』
その人のうしろで、妹は私と目が合うと、申し訳なさそうに目を伏せた。
父も母も、私なら分かってくれると信じた顔をしていた。
私は、あのときも、きちんと微笑んだ。
きっと、それがいけなかったのだろう。
……いけない。
私は、小さく、頭を振る。さあ。お茶にして、頭を冷やしましょう。
客間に戻って、ぬるくなったお茶を、ひとくち。
まったく。王妃さまも、人がお悪い。どうしてこの縁談を、お進めになったのかしら。……いえ、およしなさい。あのお方のお考えを、私如きが量れるものですか。
それにしても。
いつまで、こうしているのかしら。このまま、ずっと。……まさか、一生? それは、さすがに、ちょっと、つらいわね。
ふふ。笑い終えたところで、ふと、背筋が伸びる。
そうだ。決めた。
今のままでは、私は、何も動けない。ならば、せめて。いつでも、きちんと区切りをつけられるように。私にできる支度を、始めておきましょう。
机に向かって、紙を一枚、引き寄せる。一行、また一行。書いては考え、線を引いて、また書く。何を書いているのかは、まあ、いまは、よろしい。ただ、実家へ戻る、という項目は、最初から書かなかった。書いても、きっと、きれいな行にはならない。一行かいて、また一行。いったん始めると、最後まできちんと整えないと、どうにも落ち着かない。困った性分だこと。
ペンを置いて、息をついて、ふと、窓の外へ目をやる。
庭では、若い庭師見習いが、花壇の前にしゃがんでいた。鋏を手に、咲きかけの枝を、今しも切ろうとしている。おっと。そこを切ってしまっては、もったいない。あと二日もすれば、いちばん良いところで咲くだろうに。腰が、浮きかけた。窓を開けて、声をかけようと——
いいえ。
あの子には、あの子の言いつけがあるのでしょう。私は、浮かせた腰を、椅子に戻した。書きかけの紙に、目を落とす。
うん。私には、私のすることがある。それで、いい。
昼を過ぎて、ミナがお茶を運んできた。
ミナは、もうずいぶん、様になってきた。盆の持ち方も、足の運びも、この数日で見違えた。覚えのいい子だ。陰で叱られてばかりだったのが、嘘のよう。
「ミナ。これ、出してきてくれる?」
私は、書き終えた一通を差し出した。表には、王宮の宛名。
封はしてある。中身を見られることはない。けれど、外へ出す文は、どうしたって屋敷の者の手をいくつか渡る。王宮の宛名というものは、それだけで人の目を引く。家政婦頭の耳にも届くだろう。何を邪推されるかわからないけれど、それは仕方がないから、あきらめる。
ミナの手が、その宛名の上で、一瞬、止まった。それから、私の顔を、そっと、うかがうように見る。何か言いかけて——やめた。
「……どうかした?」
「いえ。なんでも、ありません」
ミナは、手紙を両手で抱えて、行ってしまった。その背中が、いつもより、少しだけ、急いでいるように見えた。
はて。考えても仕方がない。私は、書きかけの続きに戻る。
その人がやってきたのは、夕方近くだった。
「やあ。久しぶりだね」
廊下で出くわしたその男性は、私を見るなり、片手を上げた。
「王妃さまの右腕どのが、こんなところにいるとは」
テオ。王宮で、何度か言葉を交わしたことのある、公爵さまの補佐官だ。深い付き合いではない。けれど、裏表がなく、信のおける人だというのは、知っている。張り詰めた公爵家の空気の中で、その人のまわりだけ、やけに風通しがよかった。
「ご無沙汰しております、テオさま」
「はは、他人行儀だな。王宮じゃ、あなたはいつも王妃さまの後ろで忙しそうだった。こうしてのんびり話すのは、初めてかもしれないね」
のんびり。たしかに、皮肉なものね。人にあれほど囲まれていた王宮では、心を許して話せる相手など一人もいなかった。誰もいないはずのこの静かな屋敷で、こうして気安く言葉を交わす相手ができるなんて。
テオは、ずけずけと、けれど不思議と嫌味のない調子で、よくしゃべった。公爵への届け物が、というその合間に、私の暮らし向きだの、屋敷の住み心地だのを、遠慮なく訊いてくる。無口な公爵さまとは、まるで正反対の人だ。
話しているうちに、私は、ふと思った。
この人なら、いいかもしれない。王宮に、つてがある。気安い。そして何より、口が軽くなさそうで、ほどよく顔が広い。
「テオさま」
「テオでいい」
「では……テオ。実は、あなたに、お願いしたいことが、あるのです」
テオの軽い笑みが、ほんの少しだけ、止まった。
私が声を落として用件を切り出すと、その目が、まるくなった。
「……は?」
きょとんと、している。それから、まじまじと私の顔を見て。
「……本気で、言ってます?」
「ええ。大真面目に」
「閣下は、ご存じで」
「いいえ」
テオは、しばらく、口を半分開けたまま、固まっていた。それから、片手で、顔を、ごしごしと擦った。
「……まいったな」
何が「まいった」のか、私には分からない。けれど、テオは断らなかった。「無理だ」とも「考えておく」とも言わず、ただ、困ったような、それでいて少し面白がるような、妙な顔で、私を見ていた。
ともあれ。言うだけは、言ってみた。あとは、相手次第。
——うん。今日のところは、上出来。
◆ ◆ ◆
昼間、ロゼリアが俺の腕に手を添えた。昔なら、笑って許せた距離だった。幼いころからの気安さが、そのまま残っているだけだと、そう思えた。
だが、今は違う。俺は妻を迎えた。
ロゼリアも、それは分かっているはずだ。分かっているはずなのに、ときおり彼女は、昔の距離へ戻ろうとする。ほんの少しだけなら許されるとでもいうように。そうされるたび、どう扱えばよいのか分からなくなる。俺は、その手を外した。
「ロゼリア」
低く名を呼ぶと、彼女は、少しだけ傷ついたように笑った。
「分かっておりますわ」
その言葉に、俺は頷いた。父の言葉を信じてきた時間も、この家で過ごしてきた年月も、俺の一言で何もなかったことにはできない。ロゼリアに恋情はない。だが、何の情もないと言えば、それも違う。幼いころから知っている相手だ。父が望んだ縁でもあった。だからこそ、余計に、始末が悪い。
夕暮れ近く。執務室へ戻る途中の回廊で、足が、止まった。
妻が、いた。テオと、何か話している。声は、届かない。けれど、妻は、笑っていた。
俺の知らない顔だった。肩の力の抜けた、気安い顔。よく笑う人なのだと、初めて知った。俺の前では、いつも、きれいに背筋を伸ばして、隙のない微笑みしか、見せないのに。
テオが、何か言う。妻が、また、笑う。
胸の奥で、何かが、ざらりと音を立てた。覚えのない感触だった。苦くて、重くて、名前のつけ方も分からない。俺は、それを、しばらく持て余していた。
テオめ。……俺の、見ていないところで。




