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03 いずれは

公爵視点です

朝食の間を出てから、俺はしばらく廊下で足を止めていた。


君が、気にすることじゃない。

ひどい言葉だ。なのに、あんな言い方しか、できなかった。


あの人の気持ちを確かめもしないまま、王妃陛下のお声がかりという、断りようのない形で急いだ婚姻だ。嫌われていても、おかしくない。いざあの人を前にすると、この結婚をどう思っているのか聞くのが怖くて、核心から逸れた言葉ばかりが口を突く。


「閣下」


ギルバートの声で、ようやく顔を上げた。


「ボーガン令嬢の件でございますが」


「小応接へ呼べ」


声は、思ったより低く出た。


「家政婦頭も同席させろ」


ギルバートは、深く頭を下げた。


「かしこまりました」


一拍置いて、俺は訊いた。


「いつ来た」


「奥方さまのお輿入れの前日でございます」


前日。

拳に力が入った。


「急なご婚儀で屋敷が乱れてはならぬ、と。奥向きに覚えのある者として、力を尽くしたいとのお申し出にございました」


「……そうか」


先代以来の縁ある伯爵家の令嬢。父が、いずれはと望んでいた相手。女主人のいないあいだ、この家の奥向きを助けてきた者。俺の不在中に、ギルバートの一存で追い返せる相手ではない。


「知らせは」


「国境の中継所へ向けて急報を出させました。なれど、旦那さまのご帰還の方が早うございました」


国境までは数日かかる。俺は夜通し馬を駆っていたから、どこかで入れ違ったのだろう。


屋敷には夜明け前に戻った。身支度を整えるなり、報告を読むより先に、妻のいる朝食の席へ向かった。

一目、顔を見たかったのだ。それが裏目にでるなんて。





ロゼリア・ボーガンは、完璧に整った姿で待っていた。

淡い色のドレス。伏せた睫毛。控えめに、けれど少しの乱れもなく、すっと結ばれた口元。部屋へ入った俺を見ると、彼女はゆっくり膝を折った。


「お戻りを、お待ちしておりました。ヴィルヘルムさま」


「ロゼリア」


呼び慣れた名が、口をつく。

父の客間で菓子を取り合い、庭で転んで泣き、思いどおりにならないと扇を閉じて黙りこむ。そんな姿を見守り、妹のように接してきた娘。だからこそ、今この場で、ただ伯爵令嬢として突き放すのは、少しばかり荷が重い。


「座ってくれ」


ロゼリアは、ほんの少し目を見開いた。それから、ほっとしたように微笑んで、椅子に腰を下ろした。

家政婦頭は、その半歩うしろに控えている。その距離に、胸の奥が重くなった。この家の者が、彼女をどう扱ってきたか。その半歩だけで、分かってしまう。


「前にも話したな、ロゼリア。君とは結婚できない」


俺が言うと、ロゼリアの指が、扇の骨をそっと撫でた。


「先代の旦那さまは、私とヴィルヘルムさまとのご縁談を望まれてましたのに。父にも、わたくしにも。いずれは、と。この家のことを覚えておくように、と。女主人のいない折には、助けてもらうこともあるだろう、とおっしゃっていましたのに」


「ああ」


父なら、そう言っただろう。父にとっては、それが自然な縁談だったのだ。古くから付き合いのある伯爵家の娘。家柄も釣り合う。この家にもよく出入りし、奥向きの空気も知っている。


俺の胸の内がどうだろうと関係ない。

貴族の婚姻とは、そういうものだ。


「父が存命なら、話は進んでいたかもしれない」


ロゼリアの睫毛が、かすかに揺れた。


「では」


「だが、俺はもう結婚した」


小応接の空気が、そこで止まった。

ロゼリアは、しばらく何も言わなかった。


「……王妃さまの、お声がかりで」


「俺が望んだことだ」


これだけは、はっきりと言っておきたい。


「王妃陛下に押しつけられたわけではない」


ロゼリアは、少しだけ笑った。

傷ついたような、けれどこちらを責めまいとするような笑みだった。この家に自分の席があると、長いあいだ信じてきた娘の笑み。


「そうでございますね。ヴィルヘルムさまが、お受けになった。ならば、わたくしが何を申し上げても、もう、どうにもなりませんわ」


「ロゼリア」


「分かっております」


そう言いながら、分かっていない顔だった。いや、違う。

分かっているからこそ、受け入れられない顔だった。幼いころ、父に叱られたあと、納得できないまま頷いていた顔を思い出す。あのころなら、父が笑って取りなした。今、その父はいない。


「君がこの家を助けてくれたことには、感謝している」


ロゼリアが、ゆっくり顔を上げた。


「女主人のいない間、この家の奥向きに目を配ってくれた。父も、それを頼りにしていたのだろう。俺も、それをなかったことにするつもりはない」


「では」


「だが、それはもう終わりにしてくれ」


ロゼリアの指が止まった。


「終わり、でございますか」


「ああ」


言葉を選ぶ。追い詰めるためではない。諭すためだ。そう思うほど、喉が重くなる。


「俺は妻を迎えた。昔のように、君をこの家へ気軽に滞在させることはできない。屋敷の者が君をこの家の者のように扱うことも、君がそれに応えることも、もう違う」


「わたくしは、ただ」


「分かっている」


ロゼリアが父の言葉を信じ、この家に馴染み、この家の未来に自分の場所を見ていた。そのことを、俺は知っている。


「だが、エルナが不安に思う」


ロゼリアの目が、わずかに揺れた。


「エルナさまが」


「ああ」


輿入れの日、俺はいなかった。あの人は、この家に一人で入った。その家に、先代がいずれはと考えていた令嬢がいる。屋敷の者がその令嬢を向いている。それがどれほど心細いことか。


「君が悪いと言っているのではない」


そう言ってしまってから、それが少し卑怯な言葉だと気づく。悪いと言わずに、退けと言っている。ロゼリアは、しばらく黙っていた。やがて、静かに扇を閉じる。


「……分かりました」


その声は、思ったより幼かった。


「ヴィルヘルムさまのお気持ちは、分かりましたわ」


気持ち。その言い方に、胸が重くなる。


「けれど、少しだけ、お時間をいただけませんか」


「時間?」


「はい」


ロゼリアは、微笑んだ。


「わたくし、そんなに器用ではございませんの。長く、そうなるものだと思っておりました。父も、先代の旦那さまも、屋敷の方々も。今日、あなたさまのお口から、それは終わりだと聞かされて、はい、そうでございますかと、すぐに荷をまとめられるほど、大人ではございません」


ロゼリアの声は、少し拗ねたように聞こえた。昔から、そういうところがあった。大事なことほど、真正面から受け取るのが下手で、泣く代わりに笑い、怒る代わりに拗ねる。


「ボーガン伯には、俺から手紙を書く」


「父は、きっと驚きますわ」


「俺が説明する」


「先代の旦那さまのお言葉は、なかったことになった、と?」


「ロゼリア」


「責めているのではございません」


ロゼリアは、目を伏せた。


「ただ、悲しいだけですわ」


その言葉には、嘘がなかった。


「分かっている」


「本当に?」


「ああ」


「では、お願いがございます」


彼女なりに、この話の終わり方を探しているのだと思った。

俺は黙って続きを待った。


「せめて、エルナさまに、この家のことをお伝えさせていただけませんか」


「エルナに?」


「はい」


その目は、先ほどよりずっと真剣だった。


「エルナさまも、さぞご不安でしょう。婚礼らしい婚礼もなく、この家へ入られて。ヴィルヘルムさまもお留守で。王宮と公爵家では、何もかも勝手が違いますもの」


その通りだ。胸に、鈍い痛みが走る。


「この家の奥向きには、この家の運びようがございます。先代の旦那さまから教わったことも、わたくしなりに覚えてきたこともございます。もちろん、もう昔のように振る舞うつもりはありませんわ。ただ、エルナさまがお困りにならぬよう、知っていることをお伝えしたいだけです」


エルナが不安でいる。そう言われて、返す言葉が遅れた。ロゼリアは、この家を知っている。父の代から何度も出入りし、女主人のいない屋敷で、細かな勝手を覚えてきた。家政婦頭も、屋敷の者も、それに慣れている。そのロゼリアが、エルナを案じている。そう受け取れば、拒む理由はすぐには見つからなかった。


「……夫人が望むなら」


ようやく、それだけ言った。


「ただし、この家のことを伝えるだけだ。差配するのは夫人だ」


ロゼリアは、一拍だけ黙った。


「もちろんでございます。エルナさまのお気持ちを、第一にいたしますわ」


俺は、その言葉に頷いた。


「滞在は、迎えが整うまでだ」


「はい」


ロゼリアは、ゆっくり膝を折った。


「ご厚情、痛み入ります」


その礼は、いつものロゼリアらしく美しかった。俺は、それ以上、何も言えなかった。ロゼリアと家政婦頭は、礼をして部屋を出ていく。小応接には、俺とギルバートだけが残った。


「閣下」


「何だ」


「奥方さまへは」


俺は、すぐには答えられなかった。

伝えるべきだ。ロゼリアには終わりを告げた。エルナには不安な思いをさせたくない。だが、それを伝えるためには、父が遺した厄介な因縁を、この家の後ろ暗い都合を、すべてあの人に明かさねばならない。朝からそんな話を、あの人に聞かせるのか。気にするな、の一言すら、突き放すような形でしか届けられなかったこの俺が。


「……今は、いい」


言った瞬間、己の逃げを確信した。

ギルバートの沈黙が、正しく俺を責めていた。





初めてエルナを見たのは、王宮の、長い回廊だった。


王妃の半歩うしろに、音もなく控えている姿。誰かの粗相を誰より早く、それでいて誰にも気づかれぬように収めていた、あの聡い目元。ふとした瞬間にだけ滲む、少し幼い表情。


気づけば、いつも目で追っていた。


一度でいいから言葉を交わしたかった。けれど、近づこうとするたびに喉が石になった。何を言えばいいのか分からないうちに、彼女はいつも、俺の前を通り過ぎていってしまう。


王妃に願って、願って、ようやく、この家に迎えることができたのに。

家に必要な女主人を探したのではない。俺が、目を離せなかった人を迎えたかった。

胸にあることの、十分の一も口にできないまま。


そして今日も。

妻に伝えるべきことを、俺はまたひとつ、置き去りにした。


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