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02 女主人のような客

公爵家に嫁いで、三日になる。夫には、まだ会えていない。急な公務とかで、輿入れの日から、お留守なのだそうだ。


嫁いできた、とはいっても。婚礼の式があったわけでも、誓いの言葉を交わしたわけでもない。ただ、王妃さまのお声がかりで、この家へ送り出されただけ。着いてみれば、当の夫は、お留守。なんとも、締まらない嫁入りだこと。


むろん、思うところは、ある。私は、この家の奥方なのか、それとも、お客なのか。けれど、掛け合おうにも、肝心の旦那さまが、お留守なのだ。私の身の置き場がどこなのか、それを決められる御方が、いない。ならば、いまここで目くじらを立てても、始まらない。

まあ、いいわ。ひとまず、棚上げ。旦那さまがお戻りになってから、ゆっくり腰を据えて決めればいい。私は、そう割り切った。割り切りは、得意なほうなのだ。





その日、家政婦頭がひとりの娘を連れてきた。


「ご所望の、部屋付きでございます。……あいにく客間に回す人手が足りず。気の利かない子ですが、まあ、いないよりはましでございましょう」


含みのある言い方で告げると、家政婦頭はさっさと下がっていった。


残された娘は、私の前で、所在なさそうに立っている。お辞儀の角度が、ほんの少し、深すぎる。手の置き場所が、まだ定まっていない。

ひと目で、わかってしまった。この子は、下のお勤めから上がってきたばかりだ。竈の灰や、洗い場の水とともに過ごしてきた手が、まだ「お部屋付き」の所作を、覚えていない。家政婦頭が寄越したのは、いちばん経験の浅い娘だった。


ふむ。

けれど私は、その危なっかしい手つきの奥に、別のものを見た。盆を落とすまいと、指の先まで力がこもっている。粗相をすまいと、息さえ詰めている。この子は、ちゃんと、やろうとしている。


「お名前は?」


「……ミナ、と」


消え入りそうな声だった。叱られると思っているのね。


「ミナ。いいお名前。よく通る、可愛らしい響きだわ」

ミナが、ぱっと顔を上げた。叱責を待っていた目が、戸惑っている。


「ねえ、ミナ。ひとつ、手伝ってくれる? わたくし、この部屋の模様替えがしたいの」


それから半刻ばかり、私はミナと、客間の調度をいじって過ごした。

立派なソファを、壁際から少しだけ動かす。


「ここに置くと、お給仕の人が通るたび、ぶつかってしまうでしょう。だから、こう。半歩ぶん、ずらすの。そうすると、人が気持ちよく動ける道ができるわ」


燭台を、窓から少し離す。


「夜、火を入れたとき、明かりが部屋の真ん中まで届くように。せっかくの灯りだもの、隅っこを照らしていては、もったいないわ」


ミナは、最初こそおっかなびっくりだったけれど、やがて、目の色が変わった。一つ動かすたび、部屋の据わりが良くなっていくのが、見ていてわかるのだろう。


「……奥さ……あの、ヘイリーさま。ここ、最初から、こうだったみたいです」


「あら。それが、いちばんの褒め言葉よ。気づかれないのが、いちばん上手なやり方なの」


それから、さっき「奥さま」と言いかけて、慌てて飲み込んだ横顔を、思い出す。


「それと。わたくしのことは、エルナと呼んでちょうだい」


ミナが、目をまるくした。

とんでもない、恐れ多い、と言いたげに。けれど、強張っていた肩から、ふと力が抜けたようにも見えた。


その日の夕方には、客間は、ずいぶん居心地のいい部屋になっていた。

直したのは、私の部屋だけ。奥のことには、指一本、触れていない。いまは、まだ。

ミナは、帰り際、何度も振り返って、深々とお辞儀をしていった。今度のお辞儀は、角度が、ちょうどよかった。





夫に会えたのは、四日目の朝だった。

いつものように、ひとりで朝食の席につこうとして……足が、止まる。


席に、人がいた。

当たり前のように、そこに。


ヴィルヘルム・アッシュフォード公爵。

私の、夫。


じつのところ、まったくの初対面、というわけではない。王宮で、何度か、遠目にお見かけしたことはある。ただ、あまり、いい思い出がない。

というのも、この方は、私と顔を合わせるたび、きまって眉間に深い皺を寄せていたから。廊下の向こうから、こちらをじっと……いいえ、あれは、睨んでいた、と言ったほうが近い。挨拶をしても、ろくに返事もない。すれ違うたび、不機嫌そうに、こちらを見る。


心当たりは、まるでない。けれど、ああも露骨な顔をされれば、好かれていないことくらいは、わかる。

その方が、いま、私の夫として、目の前にいる。私が腰を下ろすと、ちらりと目を上げ……それきり、また、皿へ視線を落とした。


おはようございます、と挨拶をすれば、わずかに頷く。会話と呼べるのは、それきり。


気まずい。これは、相当に、気まずいわ。

私は息をひそめて、スープをひとくち。彼は彼で、優雅な所作のまま、黙々と食事を進めている。眉間の皺は、相変わらず。


と。


「……不便は、ないか」


え。

顔を上げると、公爵が、こちらを見ていた。

不便。私に。あるか、と。

これは、驚いた。喋った。しかも、私を気遣うようなことを。あんなにも睨んでいた人が。


「……いいえ。よくしていただいて、おります」


そう返しながら、内心は、ちょっとした混乱の中にあった。睨む。けれど、不便はないかと訊く。遠ざける。けれど、気にかける。どちらが、本当のこの人なのかしら。

わからない。わからないけれど、せっかく口を開いてくださったのだ。ひとつ、ずっと胸に引っかかっていたことを、訊いてみようか。さして深い考えもなく、私は、口にした。


「あの。つかぬことをうかがいますが……このお屋敷に、お若いご令嬢が、いらっしゃいますね。淡い色のドレスの、とてもお綺麗な方。あの方は、どなた……」


公爵の手が、止まった。


「……令嬢?」


きょとん、とした顔。心当たりがない、というふうに。それから、ほんの一拍。何かに思い当たったように、その目が見開かれた。


公爵は、傍らに控えていた家令を、低く呼んだ。


「ギルバート。……なぜ。彼女が、まだ」


ギルバートと呼ばれた初老の家令は、眉ひとつ動かさず、淀みなく頭を垂れた。


「旦那さまへの急報は出させましたが、入れ違いとなったようでございます」


公爵は、その短い答えだけで、何もかも察したらしい。苦いものが、みるみる、その顔に広がっていく。それから、はっとしたように、私のほうを見て、言った。


「彼女のことは、君が気にすることじゃない。これは私と彼女の問題だ」


……ああ。


そう。

そういう、こと。


胸の奥で、何かが、すとんと腑に落ちる音がした。

関係ない。気にしなくていい。つまり、触れてくれるな、ということ。あのお綺麗な令嬢は、この方にとって、軽々しく口にしてほしくない、大事な何か。主が留守にしているあいだも、当たり前のように、この家にいる人。そして私は、その大事な何かのあいだに、王妃さまの差配で、ぽんと割り込んできた、よその「ヘイリーさま」。この家に女主人の気配が満ちていたのも。私が客間に通されたのも。三日のあいだ、奥に一歩も入れてもらえなかったのも。線が、一本に、つながってしまった。


なるほど。よくできている。

今度ばかりは、感心している場合では、ないのだけれど。


公爵は、それ以上、食卓で令嬢の名を口になさらなかった。

代わりに、ギルバートへ、ほんの短く目を向ける。


それだけで、家令は、静かに頭を垂れた。


何かが、私の知らないところで、決まったのだろう。

私に知らされる必要のない、何かが。


——淡い色の令嬢の件、確認不要。公爵さまの領分。


心の帳面の、新しい頁に、一行。書き込みの欄は、たっぷり、空けておく。


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