01 女主人のいない公爵家
新連載です。よろしくお願いします。
アッシュフォード公爵家の門は、見上げるほど立派だった。
賭けに負けた公爵が、王妃さまから年増の女官をひとり押しつけられた。そういう噂が、当の年増である私の耳にも、しっかり届いている。押しつけられた、というのは人聞きが悪いけれど、年増のほうは、否定できない。事実だもの。
馬車を降りて、出迎えの列に、にっこりと会釈をする。ずらりと並んだ使用人たちが、型どおり、頭を下げた。
整っている。整ってはいる。けれど、半拍、遅い。
あら。
いけない。王妃さまにお仕えしていた頃からの、直しがたい癖ね。どこで誰が一拍詰まったか、どう人を動かせば滞りなく回るのか、見るまいとしても、つい見てしまう。べつに偉ぶりたいわけじゃないのだけど、どうしても気になってしまう。職業病かしら? 困った性分だと、自分でも思う。
列の先頭にいる女性が一歩前へ進み出た。周囲の使用人たちが、その動きを待っている。立ち位置からして、家政婦頭といったところだろう。私を上から下まで、ひと撫でするように見て、それから口を開いた。
「ようこそおいでくださいました。エルナ・ヘイリーさま」
ほう。
——心の帳面に、そっと一行、書きつける。
私はもう、ヘイリー家の娘ではない。今日この日からは、この家に嫁いできた公爵夫人だ。それをこの人が知らないわけがない。知っていて旧姓で呼んだ。つまりこれは、「あなたを女主人とは認めません」という、いっとう丁寧な線の引き方なのだ。
なるほど。よくできている。
不思議と腹は立たなくて、むしろ、感心してしまった。露骨に無礼を働けば角が立つ。けれど旧姓で呼ぶだけなら、ただの言い間違いで押し通せる。賢い人の、賢いやり方。
——本日の出迎え、まずまず。所作に一点、含むところあり。減点の理由は、ただいま胸に留め置きました。
私は穏やかに微笑んで、「お世話になります」とだけ返す。顔と声だけ平気でいるのは、長い宮仕えで身についた、いちばんの芸だ。内心がどうであれ。
そうして通されたのは、女主人の私室ではなく客間。
「東棟は、公爵夫妻の私室でございます。ヘイリーさまは、そちらへお立ち入りになりませんよう」
家政婦頭は、どこまでも丁寧な口調で、まずそう告げた。
「旦那さまからは、こちらへお通しするよう申しつかっております」
公爵夫妻の私室。
そこへは、立ち入らないように。
それとは別に、私に用意された客間。
なるほど。線の引き方が、たいへん分かりやすい。
しかしこれにも、腹は立たない。だって、素敵なお部屋なんですもの。窓が大きくて、庭がよく見える。日当たりも上々。招かれざる客に与えるには、上等すぎるお部屋だわ。住むところが明るいのは、いいこと。荷を解く前から、私はすっかりこの窓辺を気に入ってしまった。もっとも、普通はいるはずの部屋付きメイドはいなかったけれど……。まぁ、いいわ。荷解きぐらい慣れたものよ。
荷解きが落ち着いてから、許しを得て屋敷をひとめぐり。
吹き抜けの玄関ホールには、磨き上げられた大理石の床が鏡のように輝き、天井からは眩いシャンデリアが下がっている。廊下の壁を彩るのは歴代当主の肖像画と、目を見張るような見事なタペストリーの数々。窓の外に目をやれば、幾何学模様に整えられた庭園が、見渡す限り青々とした絨毯のように広がっていた。何代にもわたって蓄積された莫大な富と権力が、建物の隅々から圧倒的なまでの圧として伝わってくる。
素敵だわ。王城にも引けを取らない荘厳さ、だけれど……。
はて。これは公爵さまのお好み?
邸内を飾る立派な調度や装花を見て私は小さく首をかしげる。広間の花の活け方。燭台の据えよう。客間の調度。なんとなくだけれど、誰かの趣向を感じる。家政婦頭が采配しているのかしら。それにしては、ところどころ詰めが甘い。
たとえば、広間の花の活け方。見事な大輪の薔薇がこれでもかと飾られているけれど、色が多すぎて、せっかくの重厚な室内を落ち着きのないものにしている。燭台の据えようもそうだ。高価なアンティークだけれど、ただ飾られているだけで、実用的な光の広がりが計算されていない。客間の調度も、一つ一つは一級品なのに、配置がどうにもよろしくない。この美しいソファをここに置けば、給仕の動線を著しく塞いでしまう。タペストリーも、日差しの角度を考慮していないから、せっかくの美しい金糸がくすんで見えた。
いけない。また悪い癖がでたわ。
嫁いで初日に女主人顔をして口を挟めば、使用人たちに嫌われてしまうわね。まずはこの家の流儀を知るのが先よ。この家の者たちが気持ちよく働ける環境をつくるのが奥向きを司る夫人の仕事なのだから。そんな風に頭の中で問答しながら広い邸内を歩いていたら、廊下の角を曲がったところで若い令嬢と出くわした。淡い色のドレスがよく似合う、華やかな人。
彼女は私を見ると、ふわりと首をかしげ、それはもう不思議そうに、言った。
「あなた、どなた? お客さまなら、おもてなしの支度をさせなくてはね。……お名前は?」
おや。
どなた、なのかしら。あなたこそ。
使用人ではなさそうね。口ぶりからして客人でもなさそう。なにより、ここが自分の家だとでもいうような、堂々とした態度。
……ふむ。家の中にうっすら残っていた、誰かの「好み」。あれと、この令嬢と。なんだか、線で結べそうな気もするけれど。
そこまで考えて、私は、それ以上を考えるのをやめた。久しぶりに頭の中で小さな警報がなったから。いつしか張り巡らされた私の中の防御装置。悪い予感というのかしらね。これが滅法あたるのです。こういうときは避けるに限る。
「ご親切に、ありがとうございます」
私はにっこり笑って、名乗らずに、会釈だけ返してその場を辞す。
客間に戻ると、私は廊下にいたメイドに頼んで、家政婦頭を呼んでもらった。
嫁いで初日から呼びつけなんて、と思わなくもないけれど。家の流儀を知るのも、お部屋のことを整えさせるのも、出過ぎたことではなくて、奥方の当然のお仕事だもの。
ほどなく、家政婦頭は現れた。呼びつけられたことへの含みなど、おくびにも出さない、例の丁寧な顔で。
「お呼びでございますか」
「ええ。屋敷を、ひととおり見せてもらったわ。奥向きのことは、これからわたくしが預かるのだから、ひととおり、教えてちょうだい」
「では、はっきりと申し上げます」
言い終わるか、終わらないかの、その境い目で。
家政婦頭の声が、私の言葉の上に、すっと重なった。
あら。お行儀のいいこの人が、人の言葉を、遮ったわ。
「先ほど廊下でお会いになったのは、ボーガン伯爵家の、ロゼリアさまでございます」
会った、とは言っていないのだけれど。この屋敷は、廊下の目と耳が、ずいぶんよく行き届いていること。
「ロゼリアさまは、先代の旦那さまが、いずれはこの公爵家の奥方に、とお考えでいらした方でございます」
先代の。
いずれは。
家政婦頭は、それ以上を言わなかった。けれど、言わないことまで、きれいにこちらへ置かれた気がした。
かちり、と。
心の帳面の上で、今日いちにちの線が、一本につながる音がした。
半拍遅い出迎え。旧姓の呼び名。女主人の私室ではなく、客間。部屋付きのいないお部屋。家じゅうにうっすら残る、誰かの「好み」。ここが自分の家だというお顔をした、華やかな方。
警報が鳴ったから、考えるのをやめておいたのに。答え合わせのほうが、向こうから部屋まで来てしまった。
なるほど。そういう、ことね。
この家には、奥方さまの席が、もう、ある。名前は書かれていなくても、皆が、その椅子に誰が座るかを知っている。心の奥で、古い帳面の、ずっと前の頁が、めくれかけた。王宮に上がる時に封じたはずの帳面の記憶が。
名前のない椅子。
皆が、誰がそこへ座るかを、私より先に知っていた家。
私はその前でも、たしか、同じように微笑んでいた。
……いけない。長旅で、疲れているのね、私。
「そう。よく、わかったわ」
わかったついでに、用件も済ませてしまいましょう。
「ところで。部屋付きのものが、見当たらないのだけど?」
家政婦頭は、それはもう美しい礼をして、言った。
「ヘイリーさまは、なにとぞお気になさらず、ごゆるりとお過ごしくださいませ」
——本日の家政婦頭、所作は満点。返事をもらえた用件は、ひとつも、なし。
と、そこでようやく、いちばん肝心なことに気づくのだ。
そういえば。
肝心の旦那さまが、出てこない。
出迎えにも、客間にも、廊下の向こうにも。本日の主役であるはずのお方の姿が、どこにも、ない。家政婦頭に尋ねても、「あいにく、お出かけでございます」と、それきり。新妻を迎えるその日に、当のご夫君が、お留守。
これには、さすがに、ふふ、と笑ってしまった。
採点をしようにも、肝心の答案が、白紙どころか、まだ提出すらされていないのだもの。
夜。
お気に入りの窓辺で、出してもらったお茶を、ひとくち。窓の外は暗闇で、美しい庭はもう見えない。
——うん。お茶は、満点。
初々しく床入りするはずの新妻が……どういうわけか、客間でひとり、お茶を飲んでいる。
まあ、いい。今日は、長い一日だった。難しいことは、ぜんぶ、明日に。




