31 名前で
王宮を出るころには日付が変わりかけていた。
二曲目も最後まで踊った。
そのあとも王妃さまへご挨拶をし、旧知の方々と言葉を交わした。途中で帰るどころか、閉会を告げる鐘が近づくまで大広間にいた。
思っていたより、ずっと楽しかった。
帰りの馬車では公爵さまが行きと同じように私の隣へ座った。
窓の外を流れる王宮の灯りが一つずつ遠ざかっていく。
「疲れただろう」
「少しだけ」
大丈夫です、と答えかけて、やめた。
よく踊った。
家族と話した。
王妃さまからはたいへん興味深い昔話までうかがった。
疲れていないはずがない。
公爵さまがわずかに身体をずらした。
「こちらへ」
示されたのは肩だった。
「公爵さまに寄りかかれと?」
「ああ。屋敷まで休め」
「公爵さまがお休みになれません」
「俺は寝ない」
「では、重いかと」
眉間に薄く皺が寄った。
「エルナ」
「はい」
「少しくらい、俺に預けてくれ」
その言葉に胸の奥が静かになった。
以前なら、衣装に皺が寄るとか、公爵さまがお疲れになるとか、理由をいくつも並べて遠慮しただろう。
今は、並べなくてもよいと分かる。
「では、失礼いたします」
身体を傾け、公爵さまの肩へ頭を預けた。
深い紺の上着は外気の冷たさを少しだけ残していた。けれど、その下の身体は温かい。頭を預けても、広い肩は少しも揺らがなかった。
私が頭を預けるのを待ってから、公爵さまの腕が背へ回った。
「苦しくないか」
「いいえ」
「寒くは」
「少しも」
馬車が石を踏み、小さく揺れる。
公爵さまの腕が私を支えてくれる。揺れるたび、背に回った腕が私を支え直した。自分で姿勢を正さなくても、きちんとここにいられる。
目を閉じてもよいかしら。
眠ってしまっても。
髪が乱れても。
王宮で整えていた顔をもう保てなくても。
この方はそれで私を見捨てたりしない。
怒った顔も。
泣いた顔も。
言葉に詰まる私も。
少し意地の悪い私も。もう、見せてしまった。
それでも、公爵さまはここにいる。
頭だけでなく、背中の力までもう少しその腕へ預けた。
「何もお聞きにならないのですね」
小さな声だったけれど、公爵さまには届いた。
「約束した」
「私が話すまで待つと?」
「ああ」
「お聞きになりたいことはないのですか」
「ある」
「おありなのですね」
「あるが、聞かない」
「たいへん律儀でいらっしゃいますね」
「一度、待つと言って黙りすぎた」
低い声が頭のすぐ上から落ちてくる。
「あれは、もうしない」
私は目を開けた。
窓の外を夜の王都が流れている。
「今日は」
公爵さまの肩へ寄りかかったまま、口を開く。
「お話ししておきたいです」
腕の力は変わらなかった。急かしもせず、ただ、
「聞く」
と答えてくれた。
「知っていていただきたいのです」
「分かった」
昔の話をするのに正しい順番などあるのだろうか。
考えかけて、やめた。
今夜の話は報告書ではない。
「アーネストさまとは、幼いころから婚約しておりました」
その名を口にしても、もう胸は痛まなかった。
「家同士が決めたことでしたけれど、私は、あの方を好いていたのだと思います」
公爵さまは何も言わない。ただ、聞いている。
「リディアも、あの方を好きになりました。アーネストさまも、妹を選びました」
馬車が緩やかに曲がる。背に回った腕が揺れに合わせて私を支えた。
「誰も私に婚約を譲れとは申しませんでした」
そこがいちばん説明しにくかった。
「父も、母も。アーネストさまも。ただ、皆が私なら分かると思っていたのです」
『エルナなら、分かってくれる』
声に出されたのか。
顔に書かれていただけだったのか。
もう、はっきりとは覚えていない。
「私は、分かった顔をしました」
「平気だと?」
「はい。強いから、大丈夫だと」
公爵さまの胸が深く上下した。
「あのとき、本当は」
言葉が止まる。
けれど、止まったことを隠さなくてよい。
「嫌でした」
声にすれば、ひどく簡単だった。
「悲しかったですし、腹も立ちました。どうして私だけが皆の事情を分からなければならないのかと」
初めて、あのころの自分へ正しい言葉を渡せた気がした。
「でも、言えば皆が困ります」
「困らせればよかった」
公爵さまが言った。声は静かだった。
「君だけが困らないふりをする必要はなかった」
胸の奥が少し痛んだ。けれど、昔の痛みとは違う。
あのころの私を今になって庇ってもらえた。そのことが胸に痛いほど沁みた。
「当時の私には、それができませんでした」
「ああ」
「私は婚約を解いて、王宮へ上がりました」
家へ残ることはできなかった。
妹とその夫になった人を見ながら、何もなかったように頼れる姉へ戻ることは。
「王妃さまへお仕えすることは昔から望んでいた道でもありました。家を出るためだけに選んだわけではありません」
「分かっている」
「けれど、あの家に残らずに済んだことへ安堵していたのも事実です」
口にしても、公爵さまの腕は緩まなかった。
「家族から離れて、私は随分変わりました。それでも、家族に会えば、昔の私へ戻ってしまうのではないかと思っていたのです」
頼れる長女。
優しい姉。
何でも分かる人。
「また平気な顔をして、皆が安心する答えを私から差し出してしまうのではないかと」
「今日は、しなかった」
「はい」
少しだけ笑った。
「思っていたより、昔のようには振る舞えませんでした」
父が言葉を探しても、待った。アーネストさまにも少しだけ毒のある答えを返した。公爵さまへも家族の前で減点中だと申し上げた。
「近頃の私はたいへん聞き分けが悪くなりました」
「いいことだ」
返事が早かった。
「即答でございますね」
「ああ」
「その『ああ』は減点いたしません」
公爵さまの胸がかすかに揺れた。笑ったらしい。
「今日、家族と会って分かりました」
私は続けた。
「私は思っていたより遠くまで来ていたようです」
あの別れが正しかったわけではない。
傷ついてよかったとも思わない。
「でも、あのあと王宮へ上がったことは後悔しておりません」
公爵さまが私を見下ろす気配がした。
「王宮で働いたことも。公爵家へ来たことも」
それから。
「公爵さまに、お会いしたことも」
「俺は、まともに話せなかった」
「存じております」
「睨んでいたわけでもない」
「その弁明は、今夜うかがいます」
「分かった」
「たいへん結構です」
公爵さまの腕の中へほんの少し自分から身体を寄せた。
「今の私は、昔の私がいなければ、ここにいません」
傷ついた私。
それでも王宮へ向かった私。
顔と声だけ平気でいる術を覚え、誰かの半歩うしろで場を回し続けた私。
そのすべてが今ここにいる。
「ですから、昔の私をかわいそうだったとだけは思いたくないのです」
公爵さまはしばらく黙っていた。
馬車の車輪の音だけが続く。
「そうか」
「はい」
「君は、よく歩いてきた」
胸の奥へ静かに言葉が入ってきた。
歩いてきた。
「俺は、君が傷ついてよかったとは思わない」
「はい」
「その場に俺がいたなら、君だけに分からせるような真似はさせなかった」
公爵さまなら、本当にそうしただろう。
父にも。母にも。アーネストさまにも。まず言葉を求めたはずだ。
「だが、そのあと歩いてきた道まで今の君から切り離すことはできない」
顔を上げる。
灰青の目がまっすぐ私を見ていた。
「王宮で働く君を見て、好きになった」
「はい」
「だが、今日の君も好きだ」
「今日の私」
「踊って、笑って。家族へ少し意地の悪いことを言って」
「聞こえていらしたのですか」
「すぐ隣にいた」
そうだった。
「俺に減点をつける君も。怒る君も。泣く君も」
背に回った腕がわずかに強まる。
「あの夜、怖くて答えられなかった君も」
胸の中で小さく何かが鳴った。
「全部、君だ」
公爵さまは目を逸らさなかった。
「俺は、今の君が好きだ」
短い言葉だった。
けれど、その中にこれまで見せたどの私も収まっているように思えた。
「これから知る君も、必ず好きになる」
思わず瞬いた。
「ずいぶん、断言なさるのですね」
「間違いない」
「まだ、たいへん困った私が出てくるかもしれません」
「それも見る」
「お気に召さない私が出てきても?」
「そのときは、困る」
「困るのですか」
「ああ。だが、嫌いにはならない」
あまりに真面目に答えるので、笑ってしまった。
公爵さまの肩へもう一度頭を預ける。
話したかったことをすべて話したわけではない。
けれど、いちばん古い頁は見せられた。
どんな顔をされるか、もう怖くなかった。
「エルナ」
「はい」
公爵さまが少しだけ居住まいを正した。
まだ何かたいせつな話があるらしい。
私も肩から顔を上げる。
「一つ、聞きたい」
「何でしょう」
公爵さまはしばらく黙った。
「君は、あの男をアーネストと呼んだ」
一瞬、意味が分からなかった。
「……アーネストさまのことでございますか」
「そうだ」
「幼いころから、そう呼んでおりましたので」
「知っている」
「では、何をお聞きになりたいのでしょう」
公爵さまの眉間に薄く皺が寄る。
先ほどまで、私の過去をすべて受け止めていた方と同じ人とは思えないほど、少しだけ不満そうなお顔だった。
「俺は、まだ一度も呼ばれていない」
「お呼びしております」
「公爵さまと」
「公爵さまでいらっしゃいますので」
「アーネストも子爵だ」
たいへん、よくお聞きになっていたらしい。
「もしかして」
私は公爵さまの顔を見た。
「拗ねていらっしゃいますか」
「拗ねてはいない」
「では、口元だけが勝手に?」
公爵さまは黙った。
「公爵さま」
「何だ」
「先ほどまでのたいへん感動的なお話は、どちらへ?」
「別の話だ」
「別にできるのですか」
「できる」
きっぱりしている。
「アーネストさまは、もう昔の方です」
「分かっている」
「何も起きなかったとも申し上げたでしょう」
「それも分かっている」
「では」
「それでも面白くない」
とうとう認めた。
胸の奥が温かくほどけていく。
公爵さまがこんなふうに不満を口にする。
私へ望みを言う。それが嬉しかった。
「何とお呼びすれば、よろしいのでしょう」
「名前で」
「お名前は、存じております」
「なら、呼んでくれ」
「今、でございますか」
「ああ」
「馬車の中で?」
「二人しかいない」
「御者がおります」
「聞こえない」
「たいへん、ご準備がよろしいことで」
公爵さまの眉間の皺が少し深くなった。
私は笑いをこらえながら、目を伏せた。
ヴィルヘルム。
王宮にいたころから、何度も耳にした名前。
書類にも。
招待状にも。
入場順の控えにも書いた。
けれど、この方へ向かって、私の口から渡したことは一度もない。
公爵さま。
そう呼べば、身分と役目のあいだへ少し距離を残せる。
名前を呼べば。
この方はただ一人の人になる。
私が誰より近くで呼ぶ人になる。
胸が少しだけ速くなる。
「難しいか」
「いいえ」
難しいのではない。
大切なのだ。
私は顔を上げた。
「……ヴィルヘルムさま」
公爵さまが動かなくなった。背に回った腕だけがわずかに強くなった。
馬車は進んでいるのに。
この方だけが完全に止まっている。
「公爵さま?」
「もう一度」
「聞こえていらしたでしょう」
「聞こえた」
「では」
「もう一度、聞きたい」
先ほど私の過去をすべて肯定した方が今はたいへん欲張りでいらっしゃる。
「本日の公爵さま」
「ヴィルヘルムだ」
すぐに訂正された。
「本日のヴィルヘルムさま。たいへん欲張りでいらっしゃいますね」
灰青の目がやわらかく細められた。
「君に関しては、前からだ」
そういうことを今では言えるようになったらしい。
本日のヴィルヘルムさま。
上達、著しい。
「ヴィルヘルムさま」
今度は、先ほどより近くで呼んだ。
公爵さまの手が私の頬へ伸びかける。
けれど、触れる直前で止まった。
「いいか」
近頃の公爵さまはたいへん律儀である。
そして、近頃の私は少し意地が悪い。
「どなたへお尋ねになっているのでしょう」
公爵さまが一度息を止めた。
「エルナに」
「それでは足りません」
馬車の外で門が開く音がした。屋敷へ着いたらしい。
それでも、灰青の目は私から離れない。私はヴィルヘルムさまの頬へ手を伸ばした。
「ヴィルヘルムさま」
名前を呼ぶ。
「私に、触れたいのですか」
「ああ」
「何でも『ああ』で済ませないでくださいませ」
公爵さまの眉間がほんの少し寄る。
それから、今度はきちんと言った。
「君に触れたい」
「はい」
私の返事がきちんと終わるのを待ってから、止まっていた手が私の頬に触れた。大きな掌が輪郭に沿って頬を包み、親指が一度ゆっくりと撫でた。
唇が重なった。一度触れても、すぐには離れなかった。頬を包む手はやさしいのに、ヴィルヘルムさまの呼吸は近くで乱れていた。私も頬へ置いた手を引かなかった。
馬車の扉の向こうではギルバートが待っているはずだった。ミナもまだ起きているかもしれない。
屋敷へ入り。
東棟へ戻り。
衣装を脱ぎ。
髪をほどく。
しなければならないことはいくつもある。
けれど。
唇が離れたあとも頬を包んでいた手はそのままだった。ヴィルヘルムさまはすぐには馬車の扉へ手を伸ばさなかった。私も急かさなかった。
「もう一度」
今度は、どちらの意味なのか。
名前か。
口づけか。
尋ねる必要はなかった。
「ヴィルヘルムさま」
呼ぶと、答えるように、もう一度唇が重なった。今度は、私もその肩へ手を置き、自分から近づいた。
家へ着いたのに。
私たちは思っていたより長く、馬車から降りなかった。




