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32 お茶を一杯



馬車の扉が開くと、冷たい夜気が入り込んだ。


外にはギルバートとミナが控えている。


「お帰りなさいませ」


ヴィルヘルムさまが先に降り、私へ手を差し出した。

私はその手を取る。


王宮の階段で。

舞踏の前に。

家族と向き合ったときにも。


今夜は何度もこの手に支えていただいた。

それでも、飽きるということはないらしい。地面へ降りても、指はすぐには離れなかった。


「お疲れではございませんか、奥方さま」


ミナが私の外套を受け取りながら尋ねる。


「少しだけ」


「すぐにお休みのお支度をいたしますね」


「ええ。ありがとう」


ミナの視線が私とヴィルヘルムさまのあいだを一度だけ往復した。

たいへん何かを訊きたそうである。


けれど、今夜は何も言わずに頭を下げた。

よい判断ね。




東棟へ入ると、夜の居間には暖炉の火が小さく残されていた。


一方が私の部屋。

もう一方がヴィルヘルムさまの部屋。

そして、そのあいだにある少し幅の広い扉。


視線が向きかけて、暖炉へ戻した。


今夜、私はヴィルヘルムさまへ身体を預けて馬車に乗った。名前を呼んだ。口づけもした。

けれど、あの扉を開けるにはまだ少しだけ、胸の支度が足りない。


ヴィルヘルムさまは私の迷いに気づいているのかいないのか、何も言わなかった。

当然のように私の部屋の前まで送ってくださる。


「今夜は、よく休め」


「ヴィルヘルムさまも」


名前を呼ぶと、灰青の目がわずかに和らいだ。


それから、手が離れる。


ヴィルヘルムさまがご自分の部屋へ向かおうとする。

その背中を見た途端、名残惜しいと思った。


今夜は随分長く一緒にいた。

二曲も踊った。

家族と話すあいだも隣にいてくださった。

帰りの馬車では肩まで借りた。


それなのに、まだ足りなかった。

馬車の中で交わした口づけの感触も、背に回った腕の温かさも、離れてからのほうがはっきり思い出された。

けれど、寝室へ行きたいと口にする勇気はまだない。私は自分の部屋の取っ手に置きかけた手を下ろした。


「あの、ヴィルヘルムさま」


振り返った灰青の目が私を待つ。


「お茶を一杯召し上がりませんか」


「今からか」


「はい」


自分でもたいへん苦しい口実だと思う。

もう日付が変わりかけている。

帰りの馬車では眠りかけるほど疲れていた。


それでも、ヴィルヘルムさまは理由を尋ねなかった。


「では、ミナを」


ヴィルヘルムさまが廊下へ目を向ける。


「いいえ」


私はその先を止めた。


「今夜は、私が淹れます」


「疲れているだろう」


「淹れたいのです」


務めだからではない。元女官だからでも、公爵夫人だからでもない。

私がこの方へお茶を淹れたい。そして、もう少し一緒にいたい。


ヴィルヘルムさまは私の顔をしばらく見ていた。


「分かった」






暖炉の脇には夜のための湯が残されていた。

私は手袋を外し、二人分の茶器を選ぶ。茶葉を量り、温めた器へ入れ、静かに湯を注いだ。淡い香りが立ち上る。

ヴィルヘルムさまは卓のそばに座り、じっとこちらを見ている。


「何でしょう」


「いや」


「今夜は、睨んでいらっしゃるとは申しません」


眉間に薄く皺が寄った。


「睨んだことはない」


「その弁明をうかがうためのお茶でございます」


二人分の茶を卓へ置く。

ヴィルヘルムさまがようやく目的を悟ったように黙った。


私は向かいではなく、卓の角を挟んだ隣へ座る。

湯気の向こうに灰青の目がある。


「さて」


「……何だ」


「王宮でなぜ私を睨んでいらしたのですか」


「睨んでいない」


返事が早い。


「では、なぜ、あれほど見ていらしたのでしょう」


ヴィルヘルムさまが茶へ手を伸ばす。

けれど、指先は不自然なほどゆっくりだった。


「テオさまのお話ではほとんど見張りだったとか」


「あいつの言うことは忘れてくれ」


「忘れるかどうかは内容をうかがってから決めます」


ヴィルヘルムさまはしばらく茶を見ていた。

先ほどまで、名前を呼べとたいへん積極的でいらした方が今は随分と慎重である。

少し、楽しい。


「いつからですか」


「何が」


「私を見ていらしたのは」


とうとう茶器が置かれた。


「君が王宮へ上がったばかりのころだ」


思っていたより、ずっと前だった。


「初めて目に留まったのは長い回廊だった」


それは以前もうかがった話だった。

王妃さまの半歩うしろで誰かの粗相を誰にも気づかせずに収めていた私。


「ですが、その頃の私はまだ失敗も多かったはずです」


「ああ」


「ご存じなのですか」


ヴィルヘルムさまの視線が一度だけ揺れた。


「知っている」


「なぜ?」


少し間があった。


「泣いていたからだ」


持ち上げかけた茶器が手の中で止まった。


「……ご覧になったのですか」


「ああ」


「どこで」


「北の回廊の先にある小さな前室だ」


その言葉で私もその夜を思い出した。


王宮へ上がって間もないころ。

使節の一行をご案内する順を一つ誤り、王妃さまをほんの一拍お待たせした。大事には至らなかったけれど、私はその一拍が許せなかった。


一度覚えたことは間違えない。求められる前に動く。誰にも迷惑をかけない。

そうでなければ、王宮にいる資格がないと思っていた。


「声は出していなかった」


ヴィルヘルムさまが言う。


「足音がしたら、すぐに涙を拭いた」


「それがヴィルヘルムさまだったのですね」


「君は俺に気づかなかった」


「お声をかけてはくださらなかったのですか」


「何と言えばよいか、分からなかった」


たいへん、ヴィルヘルムさまらしい。


「泣かないでくれ、とでも」


「言おうとはした」


「泣いている者へ泣くなと?」


「だから、言わなかった」


少しだけ可笑しくなった。

けれど、ヴィルヘルムさまの顔は真面目だった。


「翌朝、君は前日より早く来ていた」


「翌朝もご覧に?」


「ああ」


「それも、偶然でございますか」


「最初は」


最初は。

そこはたいへん重要な違いである。


「前日間違えた順を一人で何度も確かめていた。扉の位置と、歩く速さと、名を呼ぶ順まで」


「覚えておりません」


「俺は覚えている」


短く言い切られた。


「その頃、俺も父の跡を継いだばかりだった」


私は顔を上げた。


「同じ頃だったのですか」


「ああ」


父君が亡くなったことは知っていた。けれど、それが私の宮仕えの始まりと同じ頃だったとは、考えたことがなかった。


「周囲は皆俺を公爵と呼んだ。だが、机の上には父の字が残った書類ばかりだった」


 父なら、どう決めたか。

 この判断で、領地の誰が困るのか。

 間違えば、自分だけでは済まない。


その重さは私にも想像できた。


「執務室へ戻るのが嫌だった」


思いがけない言葉だった。


「ヴィルヘルムさまが?」


「ああ。何を選んでも、父より劣るように思えた。逃げることはできない。だが、戻れば、また俺の答えを待つ者がいる」


ヴィルヘルムさまが私を見る。


「その朝、君がいた」


胸の中で何かが止まった。


「前の晩に泣いていたのに、前日より早く戻っていた」


「それは、同じ間違いをしたくなかっただけです」


「俺も同じだった」


低い声がまっすぐ届く。


「間違えるのが怖くても、戻るしかなかった」


一度言葉を切る。


「君が戻っていたから、俺も戻った」


私は何も言えなかった。


あの朝の私は誰かを励ます余裕などなかった。自分の失敗で頭がいっぱいで、二度と間違えまいと、それだけを考えていた。何の役にも立っていないと思っていた私が。知らないところで、この方を執務室へ戻していた。


「それから、王宮へ行くたびに、君を探すようになった」


「ご心配だったから?」


「最初は」


また、最初は。


「そのうち、別の顔も見るようになった」


嫌な予感がした。


「別の顔、とは」


「初めて一人で役目を終えた日は廊下の角で笑っていた」


「そんなことまで」


「王妃陛下に褒められた日は澄ました顔をしていたが、耳が赤かった」


私は反射的に耳へ触れそうになった。

触れれば、認めたようになる気がして、途中で手を止める。


「式部官に無理な変更を押しつけられたときは返事は丁寧だったが、目は怒っていた」


「顔には出さないよう努めておりました」


「目には出ていた」


「……そうでございますか」


「ああ」


ヴィルヘルムさまはそこで少し考えた。

まだ、あるらしい。


「同僚の女官の筆へ小さな紙の花を結んでいた」


私は茶器を置いた。


「あれもご覧になったのですか」


「本人が気づくまで、君は知らない顔をしていた」


「ほんの息抜きでございます」


「楽しそうだった」


「もう、結構です」


「聞いたのは君だ」


先ほどまで答えに窮していた方が急に強くなった。

たいへん、よろしくない。


「笑うと、思っていたより幼かった」


「ヴィルヘルムさま」


「何だ」


「見すぎではございませんか」


「王宮へ行けば、探していた」


一切、弁解になっていない。


けれど、責める言葉は出てこなかった。頬が熱い。

お茶のせいにするには少し熱すぎる。


「君は少しずつ、できることを増やしていった」


ヴィルヘルムさまの声が穏やかになる。


「失敗した者を責めず、次にどうすればよいかを教えた。誰にも見えない仕事を君だけは見ていた」


いつか、銀器を磨く娘へ声をかけたこと。

東棟でアンナとトムの順番を決めたこと。


私には当たり前のことだった。


「俺もそういう当主でありたいと思った」


「それはヴィルヘルムさまがもともとお持ちだったお考えです」


「そうかもしれない」


あっさりと認める。


「だが、君を見て、父と同じ当主になろうとするのをやめた」


思いがけない言葉に私は瞬いた。


「君は失敗した翌日に昨日と同じ自分ではいなかった」


ヴィルヘルムさまの指が茶器の縁へ触れる。


「なら俺も父ならどうしたかではなく、昨日よりましな判断を一つずつ重ねればいいと思えた」


胸の奥へ温かなものが満ちていく。


ヴィルヘルムさまの姿に私は何度も心を動かされた。

職人の手を守る姿。

まだ来ていない春の水を見ようとする姿。

使えることと耐えさせることは違うと言った声。


私はそんなヴィルヘルムさまを尊敬している。

その方が歩いてきた道にも私の姿がほんの少し残っている。


一方的に選ばれたのではなかった。

知らないあいだにも私たちは互いの人生へ少しずつ入り込んでいたらしい。




「やがて、君は王妃陛下の右腕と呼ばれるようになった」


ヴィルヘルムさまが続ける。


「誰もが君を頼った。俺も君を尊敬していた」


過去形ではないと、分かっている。

それでも、その言葉だけで胸が騒ぐ。


「だが、ある夜。また、君が泣いているのを見た」


指が止まった。


どの夜だろう。

王宮にいた年月の中で泣いたことは一度ではない。


人前では泣かなかった。

泣くときは一人だった。


「何があったのかは知らない。聞けなかったからだ」


「また、お声をかけなかったのですね」


「ああ」


「本当に、お話になれなかったのですね」


「そう言っている」


少しだけ可笑しい。

けれど、笑えなかった。


「あの頃の君はもう何も間違えなかった」


灰青の目が私を見ている。


「誰かが困れば、君がいた。王妃陛下が振り返る前に、必要なものを差し出した。皆が君なら大丈夫だと思っていた」


家族と同じだった。


私なら分かる。

エルナなら平気だ。


王宮でも私はそういう人になっていた。


「それでも、泣くときだけは一人だった」


呼吸が浅くなる。


「最初に見た頃と同じように。誰かの足音がすれば、すぐに何もなかった顔へ戻った」


ヴィルヘルムさまは一度言葉を切った。


「そのとき、ふと思ったのだ。君が休める場所はどこにあるのだろうと」


ずっと、そんな場所はなかった。


実家では頼れる長女だった。

王宮では王妃付きの女官だった。

公爵家へ来てからも役に立てば、ここにいてよいのだと思っていた。


「君を守ってやれると思ったわけではない」


ヴィルヘルムさまが言う。


「君は、俺がいなくても立てる」


それは昔言われた言葉とよく似ていた。『きみは強いから、ぼくがいなくても平気だろう?』

けれど、ヴィルヘルムさまの言葉には続きがあった。


「俺自身が、君が立つ姿に何度も救われたから、それは知っていた」


灰青の目は逸れない。


「だから、君を立たせる者になりたかったわけではない」


一つずつ言葉が届く。


「君が立てない日にもいていい場所になりたかった」


胸の奥で何かが大きく揺れた。


「俺の前でまで自分を守らなくていいようにしたかった」


「それで」


ようやく声が出た。


「私を、妻に?」


「ああ」


「私に、休める場所を与えるために?」


ヴィルヘルムさまは少しだけ眉を寄せた。


「それだけなら、妻にする必要はない」


「では」


一度息を継いで。

ヴィルヘルムさまはまっすぐに言った。


「君が休める場所に俺もいたかった」


息が止まった。


「君が一日の初めに言葉を交わす相手も。最後に顔を見る相手も俺でありたかった」


そのようなことを。

そんなふうに、ずっと。


「泣くなら」


ヴィルヘルムさまの声がわずかにかすれた。


「俺の前では声を出して泣けるようにしたかった」


視界が滲んだ。


困った。

泣くつもりなど、少しもなかった。

今夜は私がヴィルヘルムさまを少し困らせるはずだった。


それなのに、頬へ一つ涙が落ちる。


慌てて拭おうとすると、ヴィルヘルムさまが椅子を動かした。

けれど、すぐには触れない。


「触れていいか」


私は頷いた。


ヴィルヘルムさまの腕が私の背へ回る。

引き寄せられるまま胸元へ顔を寄せると、深い紺の上着には馬車の中と同じ温かさが残っていた。


唇を噛み、いつものように、音を外へ出さないようにする。


「声を殺さなくていい」


頭の上から低い声が落ちてくる。


「ですが」


言葉が震えた。


「どうすればよいか、分かりません」


「分からないなら、ここで覚えればいい」


背中を撫でる手は急かさない。


「俺は、どこにも行かない」


その一言で喉の奥から小さな声がこぼれた。


きれいな泣き方ではなかった。

けれど、ヴィルヘルムさまは大丈夫だとも、もう泣くなとも言わなかった。ただ、抱いていてくれた。涙が落ち着くまで、その腕は少しも緩まなかった。


私はその夜初めて、声を隠さずに泣いた。




気づけば、卓の上の茶から湯気が消えていた。


ヴィルヘルムさまが親指で私の頬に残った涙を拭う。


「すまない」


「なぜ、謝るのですか」


「泣かせた」


「今のお話で謝られては、困ります」


「では、謝らない」


たいへん素直である。


私は少し腫れた目でヴィルヘルムさまを見た。


「そのようなことを私が尋ねるまで、ずっと黙っていらしたのですか」


「……ああ」


「たいへん、ずるいです」


「そう思う」


「否定なさらないのですね」


「できない」


腹が立つ。

これほど長く見ていたのなら。

これほど多くの私を知っていたのなら。

どうして、もっと早く言ってくださらなかったのか。


けれど。

今夜、聞けてよかった。



「遅くなった」


ヴィルヘルムさまが冷めた茶へ目をやる。


「もう休め」


腕が離れる。

ヴィルヘルムさまが立ち上がった。

自分の部屋へ戻ろうとしている。


先ほどと同じ。けれど今度は、迷わない。

私は深い紺の袖をつかんだ。


「まだ、行かないでください」


ヴィルヘルムさまが振り返る。


「もう一杯淹れるのか」


私は首を横に振った。


「いいえ」


もう、お茶を口実にする必要はなかった。


「今度は、もう少し欲張ります」


灰青の目が私を見つめる。


「何を望む」


胸が大きく鳴った。

それでも、言葉は逃げなかった。


「今夜は」


袖をつかんだまま、立ち上がる。


「ヴィルヘルムさまと、一緒にいたいです」


ヴィルヘルムさまが息を止めた。


「慰めていただきたいからではありません」


自分の言葉で続ける。


「妻の務めでも、ございません」


幅の広い扉へ目を向ける。


「私が、あなたに触れたいのです」


袖の下でヴィルヘルムさまの腕がわずかに強張った。それでも私へは手を伸ばさず、黙って続きを待った。

顔が熱い。今すぐ、自分の部屋へ逃げ込みたくもなる。

それでも、袖から手は離さなかった。


「俺にも、触れてほしいのか」


「はい」


今度は、すぐに答えた。


「今夜でなくてもいい」


逃げ道を用意してくださる。けれど、今夜は要らなかった。


「今夜が、いいのです」


ヴィルヘルムさまを見る。


「私が、望んでおります」


あの夜、どうしても言えなかった言葉だった。

灰青の目が少しだけ揺れる。


「怖くないか」


「怖いです」


今度は、すぐに答えた。

正しい答えではない。

今の私の答えだった。

ヴィルヘルムさまの手が止まる。


「なら、急がなくていい」


「いいえ」


袖をつかむ手へ少し力を込める。


「怖いままで、そばにいてください」


ヴィルヘルムさまはしばらく私を見た。


私は袖をつかんでいた手をほどき、代わりに、掌を上へ向けて差し出した。


「手を、ください」


一瞬のあと、大きな手が重ねられる。

私はその指を握った。


「私を、連れていってください」


ヴィルヘルムさまの指がゆっくりと閉じる。


今度は、差し出されるのを待ったのではない。

私が求めて。この手を、いただいた。






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