30 思っていたより
「お姉さま」
胸の中で続いていた楽が、一拍だけ止まった。
私は、振り返った。公爵さまの手は、まだ私の手を包んでいた。
離したほうがよいのかと考えかけて。やめた。離す理由が、見つからなかった。
妹がいた。
記憶より少し落ち着いた色の衣装をまとい、それでも、笑うより先に目元が明るくなるところは変わらない。その後ろに、父と母。妹の隣には、その夫が立っていた。
かつての、私の婚約者。
胸の奥が痛むのを待った。
あの庭。
泣きそうな妹。
私なら分かってくれると信じていた、父と母の顔。
どれも、きちんと覚えている。
けれど。
痛みは、来なかった。
遅れているのかしら。
もう一拍、待つ。
やはり、来ない。たいへん、拍子抜けである。
あれほど、この再会を恐れていたのに。目の前に並んだ家族は、昔と変わらない人たちだった。
ただ、私の中で占めている場所だけが、思っていたより小さくなっていた。
「お久しぶりです」
声は、きちんと出た。顔も、自然に笑っている。妹は一歩近づきかけ、私と公爵さまのつないだ手を見て足を止めた。
「あの……ご結婚、おめでとうございます」
慌てて、公の場にふさわしい礼を取る。
「ありがとう、リディア」
名前を呼ぶと、妹の顔が明るくなった。父が一歩進み出る。
「閣下。ご挨拶が遅れました。妻はご存じかと存じますが、娘のリディアと、その夫のアーネスト・ウェルナー子爵です」
「お初にお目にかかります、アッシュフォード公爵閣下」
アーネストさまが礼をする。公爵さまは、いつもの真面目なお顔で頷いた。
「ヴィルヘルム・アッシュフォードだ。こちらは妻のエルナ」
知っている者を紹介する必要などないはずなのに。公爵さまの声で、妻、と置かれると、胸の中のどこかが静かに整った。
「お久しぶりです、アーネストさま」
私が言うと、アーネストさまは、一拍遅れて顔を上げた。
「……ああ。久しぶりだね、エルナ」
昔と同じ名前で呼ばれた。けれど、その声は、記憶よりずっと遠くから届いた。
「お手紙をいただいたときも驚いたけれど」
リディアが、まだ少し不思議そうに私を見る。
「こうして拝見しても、信じられなくて。お姉さまは、ずっと王妃さまのお側にいらっしゃるのだと思っていたの。ご結婚なんて、考えていらっしゃらないものと」
「私も、少し前までは、そう思っていたわ」
「では、王妃さまがお決めになったのですか?」
父と母の表情が、わずかに強張る。
公爵さまの答えは早かった。
「俺が望んだ」
リディアが目を見開いた。
「公爵さまが?」
「ああ」
公爵さまは、私を見た。
「エルナを妻に迎えたいと、俺が王妃陛下へ願った」
「私へお尋ねになるより、先に」
一言、添えておく。
公爵さまが黙った。
「その件は、まだ減点中でございます」
「承知している」
父も母も、リディアも、アーネストさまも。皆そろって、私たちを見比べている。家族が知っているのは、優等生の伯爵令嬢と、頼れる長女と、優しい姉としての私だけなのだ。公爵さまへ減点をつける私は、どうやら想定外らしい。
「でも」
リディアは、まだ不思議そうに私を見た。
「お幸せなのね」
その声に、曇りはなかった。
心から、そう思っている顔だった。
私は考えずに答えた。
「ええ」
すぐに。
「幸せよ」
公爵さまの指が、私の手の中で、ほんの少し動いた。
リディアの肩から力が抜ける。母も、小さく息を吐いた。
そして、アーネストさまが口を開いた。
「幸せそうで、安心したよ」
昔と変わらない声だった。悪意はない。おそらく、本当に安心している。
私が幸せなら。
リディアも幸せで。
自分も幸せで。
昔のことは、きれいに収まったのだと。
胸の奥が痛むのを、もう一度待った。
やはり、来なかった。
ただ。
安心という言葉を、ずいぶん便利にお使いになるのね、とは思った。
近頃の私は、思ったことをすべて飲み込まなくてもよいと知っている。
たいへん、よろしくない知識である。
「ありがとうございます」
私は微笑んだ。
「私も、皆さまにお会いしたら、もう少し困るものと思っておりました」
アーネストさまが目を瞬く。
「ですから、同じく安心しております」
沈黙が落ちた。
大広間には楽も、人の声も、衣擦れもある。
それなのに、私たちの周囲だけが、たいへん静かだった。
隣で、公爵さまの口元が、ほんのわずかに動く。
「公爵さま」
「笑ってはいない」
「まだ、何も申し上げておりません」
公爵さまは黙った。
「困ると思っていたの?」
リディアが、恐る恐る尋ねた。
「ええ。会うまでは」
「今は?」
私は、自分の胸の中を確かめた。
何も感じないわけではない。
古い紙の折り目を指でなぞったような感触は、まだ少し残っている。
けれど、それだけだった。
「思っていたより、何ともないわ」
口にして、自分でも少し驚いた。強がりではなかった。本当に、何ともなかった。
リディアは、しばらく私を見つめた。
「お姉さま、変わったのね」
その声には、少しだけ寂しさがあった。
「そうかもしれないわ」
「王宮で?」
「ええ」
王宮で働いた。
自分で判断し。自分の言葉で人を動かし。前例がなくても、必要なら一歩を踏み出した。
そして、公爵家へ来た。
女主人の席を取り戻し。
東棟の窓を開け。
同じ机で、同じ紙を見た。
怒って。
泣いて。
公爵さまの上着を、たいへん見事に皺だらけにした。
「私も、近頃になって知ったところなの」
少し意地の悪いことを言える私がいることも。それを、悪くないと思っていることも。
「家を出てから、たいへんよく育ったようです」
公爵さまの肩が、わずかに揺れた。父は目を伏せた。母の扇が止まる。リディアだけが、意味を測りかねたように瞬きをしている。少し、意地が悪かったかもしれない。けれど、謝りたいとは思わなかった。
「エルナ」
父が、私を呼んだ。
「はい」
父は何かを言おうとして、一度、口を閉じた。昔なら、その続きを私が整えただろう。
謝りたいのか。
言い訳をしたいのか。
リディアの前では話しにくいのか。
相手が言いやすい形を選び、こちらから差し出した。
今は、待つことができるようになった。
「……私たちは、お前の優しさに甘えた」
短い言葉だった。
母が俯く。
アーネストさまも、何も言わない。
「王宮へ上がったあと、便りを出そうとしたこともあった」
父は続けた。
「だが、何を書いても、お前にこちらの気持ちを整えさせるだけになる気がしてな」
「それで、何もおっしゃらなかったのですね」
「ああ」
私は隣を見た。
公爵さまと目が合う。
「公爵さまにも、よく似た時期がございました」
父が公爵さまを見る。
公爵さまは、少しだけ眉を寄せた。
「……否定はできない」
「黙ることは、ときどき、気遣いと反対の顔をいたします」
「知っている」
「近頃、実例を交えて学びました」
「俺もだ」
母の口元が、ほんの少し緩んだ。
泣く前の顔ではない。
昔、私とリディアが言い合いをしたとき。
どちらを叱るべきか迷いながら、少し可笑しそうにしていた顔だった。
「あなたが」
母は言った。
「そんなふうに、誰かへ言えるようになったのね」
「はい」
私は公爵さまを見る。
「言わなければ、分からない方でいらっしゃいますので」
「ああ」
「そこで『ああ』で済ませるところは、減点です」
「すまない」
リディアが、とうとう笑った。目元に、少し涙がにじんでいる。
「本当に、お姉さまなのね」
「先ほどから、そう申し上げているでしょう?」
「だって、こんなお姉さま、知らなかったもの」
「私も知らなかったわ」
だから、仕方がない。
誰も知らなかったものを。
いまから知ればよい。
父が、深く息をした。
「また、話す機会をもらえるか」
謝罪を受け入れろとも。昔のように戻れとも言わない。ただ、次を望む問いだった。
以前なら、すぐに日程を考えただろう。けれど、今夜は先に浮かぶ予定がある。
「ええ。日を改めて」
私は、公爵さまを見上げた。
「今夜は、もう一曲のお約束がございますので」
公爵さまの目元が、やわらかくなる。
「そうだったな」
父は少し驚いたあと、頷いた。
「分かった」
そのとき、私たちの少し外側で、侍従が足を止めた。
「アッシュフォード公爵ご夫妻」
よく通る、控えめな声。
「王妃陛下がお呼びでございます」
たいへん、よい頃合いである。
もっとも、助けていただく必要は、もうなかったけれど。
「ただいま参ります」
私は、家族へ向き直った。
「では、また改めて」
リディアが少し迷ってから、頷く。
「はい。お姉さま」
私は、公爵さまの腕へ手を置いた。足は、少しも重くなかった。大広間を離れ、短い回廊へ入る。
公爵さまが、声を落とした。
「帰るか」
「いいえ」
返事は、すぐに出た。
「思っていたより、平気でした」
公爵さまは、私を見る。
「本当に?」
以前なら、大丈夫です、と答えただろう。
今は。
「少し、拍子抜けするほど」
そう言うと、公爵さまの眉間が、わずかにほどけた。
「悪いことではない」
「ええ」
私も、そう思う。
「それに、二曲目がございますので」
公爵さまの口元が、今度こそ、はっきりと動いた。
王妃さまは、大広間を見渡せる控えの間にいらした。
私たちが礼を終えると、満足そうに扇を閉じる。
「よい一曲だったわ」
「恐れ入ります」
答えると、王妃さまが片眉を上げた。
「それは、昔のあなたの返事ね」
あ。
「……楽しかったです」
言い直す。
王妃さまの目元が、満足げに細められた。
「そう。それが聞きたかったの」
公爵さまが、少しだけこちらを見る。
「ご家族とのご挨拶も済んだようね」
「ご覧になっていらしたのですか」
「声までは聞こえなかったわ。けれど、ヘイリー伯爵の顔が、ずいぶん興味深かったもの」
「父の顔が?」
「自分の娘を知っているつもりだった人の顔よ」
私は少し考えた。
「私も、自分を知っているつもりでおりました」
「それで?」
「近頃、訂正が多くて困っております」
王妃さまが笑った。
「原因はこちらかしら」
公爵さまへ扇の先が向く。
「一部は」
「一部?」
「公爵さまご自身にも、訂正箇所が多うございますので」
「ああ」
「否定なさらないのですね」
「できない」
王妃さまは、いっそう楽しそうに笑った。
「この人が、初めてあなたを妻に迎えたいと申してきた日のことを覚えているわ」
公爵さまの肩が、わずかに強張った。
「陛下」
「あなたは長く黙りすぎたのだから、今夜くらい、わたくしに話させなさい」
王妃さまは、たいへん楽しそうでいらした。
「一度、願って終わりではなかったのよ」
「一度では、なかったのですか」
私が尋ねると、公爵さまは王妃さまを見た。
「何度も来たわ」
「何度も」
「私が返事を保留するたびにね。エルナ・ヘイリーを妻に迎えたい、と」
私は、公爵さまを見る。
「王妃さまには、何度もお話しになれたのですね」
「……ああ」
「私には、一度も」
「その件は、すでに謝った」
「謝罪と減点は、別でございます」
王妃さまが、また笑った。
公爵さまは、少し黙ってから答えた。
「分かっている」
今度は、『ああ』ではなかった。
合格である。
「それで、なぜエルナなのかと尋ねたの」
王妃さまの声が、少しやわらかくなる。
「公爵家に有能な女主人が必要なのか。王宮の運びを知る者が欲しいのか、と」
「どちらも違う」
公爵さまが言った。
王妃さまは、満足そうに頷く。
「この人がようやく答えたのはね」
私を見る。
「王妃の半歩うしろで、誰より早く綻びへ気づく人だから、と」
胸の奥で、何かが静かに動いた。
「それも、誰にも気づかれないように直してしまう」
王妃さまは続ける。
「手柄も求めず、終われば何もなかった顔で元の場所へ戻る。いつも目で追っていたのに、一度もまともに話せなかった、と」
「陛下」
公爵さまの声が低くなる。
「そこまでです」
「まだあるのに」
「続きは、俺が話します」
王妃さまが、少し意外そうに公爵さまを見た。
それから、満足げに頷く。
「そう。では、続きは本人からお聞きなさい」
「後日、確認事項が増えました」
「ああ」
「今夜かもしれません」
公爵さまが、一度だけ瞬いた。
「……分かった」
家族が知っていた私は。
頼れる長女。
よくできた伯爵令嬢。
優しい姉。
皆が困らない答えを差し出す娘だった。
王宮で私は、自分の目で見て、自分の考えを言葉にすることを覚えた。
そして、公爵さまが見つけたのは。
婚約を解かれた娘でも。妹へ譲った姉でもない。
自分で選んだ場所で、自分の足で立っていた私。
あの別れが、正しかったわけではない。
あのときの私は、たしかに傷ついた。
けれど。
あのあと王宮へ向かった私を。
そこで得たものを。
今夜、公爵さまと踊っている私を。
もう、差し戻したいとは思わなかった。
過去の傷が、今の私を作ったのではない。
そのあとを歩いたのが、私。
それだけのこと。
「それで」
王妃さまが私を見る。
「わたくしの見立ては、いかがだったかしら」
たいへん、自信に満ちたお顔である。
私は少し考えた。
「結果につきましては」
「結果につきましては?」
「たいへん良好でございます」
王妃さまが、片方の眉を上げる。
公爵さまが、私を見る。
「手順につきましては、王妃さまにも、公爵さまにも、いくつか確認事項がございますので」
「俺にも?」
「公爵さまには、さらに」
「そうか」
王妃さまは、とうとう声を立てて笑った。
「いいわ。採点表は、いずれ提出なさい」
「承知いたしました」
「それで、現在は?」
私は、公爵さまを見た。
まだ、聞いていないことがある。
言っていないことも。
知りたいことも。
たいへん、たくさん。
「現在は」
私は答えた。
「たいへん、よい途中でございます」
公爵さまの目元が、やわらかくなる。
王妃さまは、満足そうに頷いた。
「それは上々」
扇の先が、大広間を示す。
「二曲目を待たせているのでしょう。行っていらっしゃい」
大広間へ戻ると、次の曲が始まるところだった。
楽師たちが弓を上げる。
人の輪が、ゆるやかに開いていく。
広間の向こうに、リディアがいた。
目が合う。
リディアは、少し泣きそうな顔で笑った。
けれど。
その顔を、私が整える必要はなかった。
私は、ただ笑い返した。
公爵さまが、私へ手を差し出す。
「先ほどの返事は、まだ有効か」
「もう一曲、でございますか」
「ああ」
私は、その手へ指を重ねた。
「踊りたいです」
公爵さまの指が、私の手を包む。
「君となら」
二人で、舞踏の輪へ入る。
一歩目から、拍は合った。
私は、思っていたより。ずっと遠くまで、来ていたらしい。




