29 一曲のあと
翌朝、目を覚まして最初に思ったのは、よく眠った、だった。
あれほど泣いたのに。
あれほど怒ったのに。
目元は少し重い。けれど、胸の奥に詰まっていたものは、昨夜よりずっと小さくなっている。
同じ卓で重ねた手の感触も、目を覚ましてなお、たしかに残っていた。
公爵さまの上着につけた皺は、仕立て屋の手で直せる。
私が言ったことについては。
今のところ、直すつもりはなかった。
朝食の席で、公爵さまは、私が腰を下ろすまで立っていた。
椅子を引く手にも、杯を取る手にも、妙な遠慮はない。
「眠れたか」
「思っていたより、よく」
正しい答えではなく、今朝の答えだった。
公爵さまの肩から、ほんの少し力が抜けた。
「そうか。よかった」
いつもより、一言多い。
たいへん、よい傾向である。
「公爵さまは?」
「少し」
「反省でございますか」
「ああ」
「本日は、何でも『ああ』で済ませないでくださいませ」
「ああ」
返事が、早すぎた。
私は黙って、公爵さまを見る。
公爵さまも、私を見る。
「……今のは」
「減点です」
「すまない」
あまりに真面目な顔で謝られたので、笑ってしまった。公爵さまの目元も、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「公爵さま。いま、笑っていらっしゃいますね」
「笑ってはいない」
「では、目元だけが勝手に?」
公爵さまは、しばらく黙った。
「君が、言ってくれることが」
そこで一度、言葉を切る。
「うれしい」
怒られている最中に、うれしい。たいへん、複雑なお方である。
「それと反省は、別にしてくださいませ」
「分かっている」
今度は、『ああ』ではなかった。私は、また少し笑った。昨夜だけの特例では、ないらしい。笑ってから、気づく。私はいま、この方を、からかったのだ。相手が困ると分かっていて、少しだけ言葉を尖らせた。そんなことをする自分がいたとは、知らなかった。
しかも、
謝りたいとは思わない。
少し、楽しい。
たいへん、よろしくない傾向である。
けれど、今朝のところは、減点しないことにした。
食堂を出るとき、公爵さまの手が、私の手へ触れた。公爵さまの指は、昨夜と同じように温かかった。私はそのまま、指を重ねた。
どちらが先に取ったのかは、分からない。分からなくても、困らなかった。
王宮舞踏会の日は、よく晴れた。
夕暮れが近づくにつれ、東棟には人の出入りが増えていった。
湯が運ばれ、衣装箱が開かれ、手袋と扇と外套が、順に並べられる。灰青の衣装は、きれいに直っていた。袖口の内側には、銀の花が一輪。手を下ろせば隠れ、動かしたときにだけ光を拾う。
ミナが、髪飾りの箱を開いた。
けれど、その目は、鏡台の端にある飴色の櫛へ向いている。
たいへん、分かりやすい。
「今日は、こちらを」
「はい」
ミナは、余計なことを言わずに櫛を取った。その判断も、たいへんよろしい。
以前は、髪のための道具だから、と理由をつけた。今日は、理由を探さなかった。
私が、これを身につけたい。
それだけでよい。
支度を終えて居間へ出ると、公爵さまが待っていた。
深い紺の正装。
襟元と袖には、私の衣装と同じ灰青が入っている。
公爵さまは、私を見るなり、足を止めた。
一瞬、息をするのも忘れたように黙っている。
「……きれいだ」
似合う、ではなかった。胸の中のどこへ置くかは、すぐに決まった。
「ありがとうございます」
今度は、家の格にも、王宮の灯りにも、話をつなげなかった。
「公爵さまも、よくお似合いです」
「ああ」
公爵さまの目が、私の髪へ移った。飴色の櫛を見つけ、目元が和らぐ。
何も仰らない。私も、説明しない。それで、十分だった。
襟元の灰青の布が、ほんのわずかに片側へ寄っている。私は手を伸ばし、指先でまっすぐに直した。私の指のすぐ下で、公爵さまの胸元が呼吸に合わせてわずかに動く。
公爵さまは、動かなかった。ただ、近づいた私の顔を、じっと見ている。
「これで、満点です」
「ああ」
「いまの『ああ』は、正しい返事でございますね」
公爵さまの口元が、ようやくほどけた。
私は、その腕に手を置いた。そのまま、二人で歩き出す。近づいた袖口の内側で、銀の花が一輪ずつ現れた。二輪は、近くにいるときだけ、一つの図案になる。けれど、もう、それを見つけるために足を止める必要はなかった。
馬車へ乗ると、公爵さまが奥へ詰めた。私は、その隣へ腰を下ろした。向かいの席は、空いたまま。
車輪が石畳を打ち、王宮へ近づくにつれて、窓の外の灯りが増えていく。
帰りたくなれば、帰る。怖くても、一緒に行く。昨夜、二人で口にしたことを、今日はもう確かめ直さなかった。言い直さなくても、なくならない。
王宮の尖塔が見えたとき、膝の上で組んだ指に、少しだけ力が入った。公爵さまの手が、その上へ重なる。大きな掌の重みと熱が、薄い手袋越しにも分かった。私は、組んでいた指をほどいて、その手を握った。
何も言わないまま、馬車は正面階段の前に止まった。
冬の夜とは思えないほどの灯りが、王宮の階段に並んでいた。
公爵さまが先に降り、差し出された手へ、私は迷わず自分の手を重ねた。
何度も上り下りした階段。けれど、正面から、招かれた者として上るのは初めてだった。
扉の内側には、見知った式部官と侍従たちが並んでいる。以前の私なら、その列の端にいた。王妃さまがお通りになる前に、衣装の裾と扉の開き具合と、次の間の人の配りを、すべて確かめて。
王妃さまの半歩うしろは、長く、私の場所だった。身体は、まだ、その距離を覚えている。けれど、公爵さまの隣も、もう、覚え始めていた。
私は、公爵さまの腕へ置いた手に、ほんの少し力を預けた。その腕は、正装の布越しにも揺るがなかった。
そのまま、同じ歩幅で扉をくぐった。
「アッシュフォード公爵ご夫妻、ご入場でございます」
よく通る声が、大広間へ響く。
ご夫妻。
今夜は、その呼び名を、役目の棚へ置かなかった。大広間中の視線が、一度にこちらへ向く。それでも、私たちの歩幅は変わらなかった。
王妃さまへのご挨拶と、いくつかの社交辞令を終えるころ、楽師たちが弓を上げた。大広間の中央が、ゆるやかに空いていく。最初の一曲の支度だった。
公爵さまが、私へ向き直る。
差し出された手へ、私は指を重ねた。
言葉は、要らなかった。
腰へ添えられた手は、迷わない。布越しにも、大きな掌が腰を確かに支えているのが分かった。私の手も、迷わず公爵さまの肩へ置かれる。
楽が始まった。
一歩目から、拍が合う。
公爵さまの手が次の向きを伝えるときには、私の足も、もうそちらへ向かっている。私が重心を移せば、腰の手が同じだけ支える。任せたぶんだけ、確かに受け止められる。先回りは、していない。待っても、いない。先に動いたのがどちらなのか、もう分からなかった。
灰青の裾が広がる。深い紺が、その外側を回る。
手を返すたび、袖口の銀の花が近づき、離れて、また、一つになる。
練習の居間より、床は広い。灯りも、視線も、ずっと多い。けれど、公爵さまは私を見たまま、止まらなかった。
「もう、数は消えませんか」
声を落として尋ねる。
「消える」
「まあ」
「だが、拍は分かる」
たいへんな上達である。
「では、合格です」
公爵さまの口元が、ほどけた。
それを見て、私も笑った。
以前は、笑えば、どちらかの足が半拍遅れた。
今は、笑っても、次の一歩がそろう。
回る。
戻る。
もう一度。
楽の流れが速くなり、裾が大きく円を描いた。
公爵さまの腕が、私を迷いなく導く。
私は、その先へ身体を預けた。身体が傾いても、腰の手は、戻る拍まで離れなかった。
怖くない。
いいえ。
いまは、それを確かめる必要さえなかった。
ただ、楽しい。
王宮の大広間で。
大勢の視線の中で。
私は、公爵さまを見て笑いながら踊っている。
最後の巡りで、重ねた手が高く上がる。
二輪の銀の花が、灯りの中で一つになった。
次の拍で向きが変わり。
最後の一歩で、二人の足がそろう。
楽が、終わった。
けれど、公爵さまの手は、すぐには私の腰から離れなかった。
私も、つないだ手を離さなかった。
「エルナ」
「楽しいです」
公爵さまは、まだ、何も尋ねていなかった。
灰青の目が、やわらかく細められる。
「俺もだ」
問いを待たずに言えたことも。名前を呼ばれただけで、分かっていただけたことも。
どちらも、うれしかった。
拍手の音が、ようやく耳へ戻ってきた。
公爵さまの手が、私の腰から離れる。けれど、つないだ手は、そのままだった。
重ねた手をほどかないまま、二人で一礼。そのまま、大広間の端へ戻る。歩幅は、まだ、そろっている。
「もう一曲、踊れますか」
「君となら」
たいへんな上達である。
私は、また笑った。公爵さまも、今度は笑っていないとは言わなかった。
胸の中では、楽が終わっても、まだ同じ拍が続いていた。
「お姉さま」




