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28 二枚のあいだ

長いです。。


その夜も、私たちは居間で別れるはずだった。


夕食を終えて、東棟へ戻る。

暖炉に火を入れてもらい、明日の支度をひとつふたつ確かめて、それから、おやすみを言う。

左と右の扉へ、別々に。


この三日、何ひとつ間違えずに繰り返してきた手順だ。

乱れたものを整えるのは、得意だった。

乱れる前に整えておくのは、もっと得意だった。


私は、王宮から届いた入場順の控えを、卓の左右へ置いた。


一枚は、公爵さまのお手元へ。

もう一枚は、私の手元へ。


同じ名が、同じ順に並んでいる。


アッシュフォード公爵夫妻。


その数行下に、ヘイリー伯爵夫妻。

さらに、その下に、妹と、その夫。


何度見直しても、文字は増えも減りもしない。

たいへん、正確な控えである。


「では、持参品につきましては、明日もう一度――」


言いかけて、やめた。

朝に確認することは、もう決めてある。

ここで言葉を足す必要はない。


「おやすみなさいませ」


いつものように言って、自分の部屋の扉へ手を伸ばす。


「エルナ」


呼ばれて、振り返った。


公爵さまは、ご自分の扉の前ではなく、まだ卓のそばに立っていらした。

灰青の目が、二枚の控えへ落ちている。


公爵さまは、ご自分の紙の端を、そろえた。

そろっているのに、もう一度。


私の紙には、触れなかった。


「今、話をしてもいいか」


明日の段取りだろうか。

それとも、舞踏会の。

頭の中で、心当たりをいくつも並べる。


「舞踏会のことでございますか」


「違う」


短い答えだった。


「俺たちのことだ」


胸の中で、何かが一度、強く鳴った。


公爵さまは、椅子へ視線を移した。


「座ってもいいか」


明日の控えのためなら、許しを求める必要などない。


それでも公爵さまは、私が答えるまで動かなかった。


「……はい」


私が腰を下ろすと、公爵さまも椅子を引いた。

向かいではなく、卓の角を挟んだ斜めの位置。

手を伸ばしても、私へは届かない距離だった。


二枚の紙のあいだに、沈黙が落ちる。


暖炉の火が、ぱちりと鳴った。


「この三日、俺は、間違えた」


「間違い、でございますか。控えでしたら、写し違いは――」


「そうじゃない」


低い声が、私の言葉を止めた。

けれど、押し切るような声ではなかった。


「君の答えを待つつもりで、俺が言うべきことまで止めた」


公爵さまの手が、膝の上で握られる。


「あの夜のことを、まだ、訂正していない」


息の仕方を、一つ、忘れた。


あの夜。


言わずに済ませてきた夜。

冷たい水で、目元の跡だけを消した朝。

大丈夫です、と言うたび、そのまま受け取られた三日間。


「エルナ」


「……はい」


「あの夜、俺は、君を拒んだのではない」


その言葉の意味が、すぐには入ってこなかった。


拒んだのではない。


けれど私は、あの夜、はっきりと退かれた。

務めで君を抱くつもりはない、と。

あれを拒絶と呼ばずに、何と呼べばよいのだろう。


「……お気遣い、恐れ入ります」


声は、きれいに出た。

三日分、練習した声だった。


「あの夜のことは、私の落ち度でございます。公爵さまが、お心を砕いてくださったのに、私が、あのような――」


「違う」


「せっかくの、お気持ちを、無下にするようなことを」


「エルナ」


「ですから、公爵さまがお詫びになることでは――」


「聞いてくれ」


公爵さまは、そこで止まった。

私が黙るまで、次の言葉を重ねなかった。


「あの夜も、君に触れたかった」


一度、息を継ぐ。


「今もだ」


聞き間違える余地のない言葉だった。


「止まったのは、君が、妻の務めを差し出したからだ」


公爵さまの指が、膝の上でゆっくり閉じる。


「それを、受け取れなかった」


灰青の目は、逸れなかった。


「君を、受け取れなかったんじゃない」


あの部屋が戻ってきた。


小さな暖炉の火。

二人分の枕。

頬から離れていった手。


『務めで、君を抱くつもりはない』


あの声を、私は何度も胸の中で聞き直した。

聞き直すたび、同じ一行へ行き着いた。


こんな私なら、要らない。


その一行へ、公爵さまの言葉が、いま、上から重なる。


けれど。


強く引かれた線は、消しても跡が残る。


「なら」


声が、少しかすれた。


「なぜ、あのとき、そう仰ってくださらなかったのですか」


公爵さまの喉が動いた。


「一瞬、俺だけが先へ進んでいたのかと思った」


「……先へ」


「君が、口づけを返してくれた」


公爵さまの視線が、ご自分の紙へ落ちる。


「俺にも触れたいと思ってくれているのかもしれないと、勝手に期待した」


一度、言葉が切れた。


「務めだと聞いて、傷つきはした」


胸の奥が、細く痛んだ。


「では、やはり、私が公爵さまを望まなかったから――」


「違う」


強い声ではなかった。

けれど、私の言葉を、その先へは行かせなかった。


「君が同じものを返さなかったからじゃない」


公爵さまは、顔を上げた。


「俺が先に、勝手に好きになった」


飾りも、前置きもなかった。


「君が俺を好きにならなくても、それで君を責める理由はない」


部屋が、静かになった。


「苦しかったのは」


握られた手に、わずかに力が入る。


「君が、欲しいとも、嫌だとも言えず、務めを差し出したことだ」


息が、止まった。


「俺の前でも、そうしなければならなかった」


公爵さまは、そこで一度、目を伏せた。


「俺は、まだ、そのどちらも言える相手ではなかった」


あの夜、私の頬と髪へ触れた手が、膝の上で動かない。

いまは何もつかめないように見えた。


「それで、自分の不甲斐なさばかり見た」


低い声だった。


「君が、俺の沈黙をどう受け取るかを見なかった」


あの夜、公爵さまの顔から何かが消えたのを、私は見た。

私が、この方を望まなかったからだと思っていた。


違った。


それでも、黙ってよい理由にはならなかった。


「言うべきだった」


公爵さまが言った。


「君を拒んだのではないと」


一度、息を継ぐ。


「言えなくなった君も、置いていくつもりはないと」


それから。


「君が好きだ」


唐突に、言葉が置かれた。


顔を上げる。


「結婚してからではない」


公爵さまの声は、相変わらず低い。

流麗な言葉など、一つもない。


「その前からだ」


「……前」


「ああ」


「どのくらい、前から」


ほんの一瞬だけ、灰青の視線が揺れた。


「君が、王妃陛下に仕えはじめたころから」


王宮の回廊。


すれ違うたび、眉間に深い皺を寄せていた人。

挨拶をしても、ろくに返事をせず、こちらを睨んでいた人。


睨んでいたのでは。

そう聞きかけて、やめた。


確認事項としては、たいへん重要である。

けれど、いまではない。


「王宮で、君を見ていた」


公爵さまは、逃げずに続けた。


「王妃陛下へ、俺が願った」


「……何を、でございますか」


分かっているのに、聞いた。


「君を、妻に迎えたいと」


胸の中で、何かがずれた。


賭けに負けた公爵が、王妃さまから、年増の女官をひとり押しつけられた。


嫁いできた日、私の耳にも、しっかり届いていた噂だ。

押しつけられた、というのは事実だと、私自身、疑ってさえいなかった。


「押しつけられたのでは、なかったのですか」


「違う」


短く。

けれど、はっきりと。


「俺が、望んだ」


心の帳面が、開こうとした。

この思いがけない一行を、どこかへ書きつけようとして。


けれど、ペンを持つ手が見つからなかった。


「俺の立場なら、王妃陛下へ願えば、話を動かせる」


公爵さまの声は、低いまま、止まらない。


「君が断りにくい形になることも、分かっていた」


指が、卓の縁を押さえる。


「分かっていて、願った」


「私には」


喉が狭くなった。


「私には、一度も、何も仰らずに」


「ああ」


「どうして」


返事は、すぐには来なかった。

けれど、目は逸れなかった。


「俺が望めば、それが君への命令になるかもしれないと思った」


「それで、王妃さまへ?」


自分でも、思ったより硬い声だった。


公爵さまは、一度、目を伏せた。


「そう言えば、聞こえはいい」


「……公爵さま」


「だが、それだけじゃない」


灰青の目が、まっすぐこちらを向く。


「君に、断られるのが怖かった」


あまりに短くて、意味を取り違えたかと思った。


「公爵さまが?」


「ああ」


「王妃さまへは、私を妻にしたいと仰って。それなのに、私へ尋ねることが」


「怖かった」


もう一度、言った。


「聞かなければ、はっきりとは断られずに済む」


公爵さまの手が、膝の上で開いた。


「俺は、それを選んだ」


一度、息を継ぐ。


「君のためだけに黙っていたんじゃない」


「では」


「俺が、自分を守った」


その言葉は、胸の奥へ、きれいには落ちなかった。

何かにぶつかり、古いものをいくつも巻き込んで、音を立てた。


私は、返事をしようとした。


分かりました、と。

お気持ちは、じゅうぶんに伝わりました、と。

この方が、これ以上傷つかずに済む言葉を。


三日分。

いいえ、何十年分も練習してきた芸だ。

顔と声だけ平気でいること。

相手の困らない答えを、先回りして差し出すこと。


口を開いた。


何も、出てこなかった。


もう一度、心の帳面を開こうとする。

本日の公爵さま、と。

いつもなら、勝手に一行浮かぶのに。


白い頁が、白いまま、私を見ていた。


代わりに、別のものが来た。


「では、この家へ来てからも、ずっと、黙っていらしたのですね」


「ご自分が、私を望んで迎えたことを。一度も、仰らずに」


「……ああ」


公爵さまは、逃げなかった。

目も、逸らさなかった。


それが、なぜか、いっそう腹立たしかった。


「嫁いだ日、あなたは、いらっしゃいませんでした」


公爵さまの顔が、わずかに強張る。


「ロゼリアさまのことを尋ねたときも。『君が気にすることじゃない』と」


「……ああ」


「私は、気にしておりました」


「そうだ」


「ずっと、気にしておりました」


声が、少しずつ揺れ始める。


「客間で、自分がこの家の妻なのか、客なのかも分からずに。屋敷の皆さまは、あの方を見ていて。私は、何も知らされないまま」


一度、息を吸う。

うまく入らない。


「それから、晩餐会を任せてくださいました」


公爵さまは、黙っている。


「東棟の鍵も。書類も。工房も、川も」


一つずつ。

一つずつ。


「私は、役に立てば、ここにいてよいのだと思いました」


私の紙の角が、指の中で曲がった。

直さなければ、と頭の隅で思う。


手は、動かなかった。


「晩餐会を、きちんと回して。東棟を整えて。書類を見て。役に立てば、少しは」


声が途切れた。


「でも、それは」


もう一度、息を吸う。


「役に立てなくなれば、なくなる理由です」


公爵さまの顔が、痛んだ。


「最初から、私だから迎えたのなら」


声を整えようとして、整わなかった。


「私を、望んでいたのなら。どうして、それだけを、言ってくださらなかったのですか」


さっき、同じことを聞いた。

答えは、もらった。

怖かった、と。


それなのに、また同じことを聞いていた。


「一言、望んで迎えたのだと、仰ってくださっていれば。私は」


続きが、うまく言えない。

それでも、止まらなかった。


「あんなに、自分を要らない人間だと思い込まずに済んだのに」


言ってしまってから、口を押さえたくなった。


要らない人間。

そんな、みっともない言葉。

長い宮仕えのあいだ、誰にも聞かせたことのない言葉。

いちばん奥の、いちばん醜い頁に、しまってあったはずの言葉。


けれど、もう戻せなかった。


気づけば、私は立ち上がっていた。


椅子の脚が、床を擦る。

控えの脇へ置いていたペンが転がり、床へ落ちた。


拾わなかった。


いつもの私なら、真っ先に拾っていた。

先が欠ける前に。

絨毯へインクがつく前に。

人の目につく前に。


拾わずに、私は、公爵さまを見ていた。


手が震えている。

声も。

たぶん、目元も。


整えられるものが、今夜は一つも整えられない。


こんな顔を、この人に見られている。


それなのに。


「……ずるいです」


生まれて初めて、この方に、そう言った。


敬語なのに、ちっとも丁寧ではない声で。


公爵さまは、席を立たなかった。

弁明もしなかった。

床に落ちたペンにも、曲がった紙の角にも、手を伸ばさない。


ただ、そこに座って、私を見上げていた。


逃げない灰青の目が、そこにある。


「すまない」


低い声だった。


「謝っては、いただきたいです」


言ってから、自分でも驚いた。


たいへん、謝っていただきたい。

そこは、間違いない。


「ですが、いま、すまないと仰って、それで、これまでのことが、きれいに一行で済むわけでは」


「済むとは思っていない」


「では、どうして、そんなに静かなのですか」


公爵さまの手が、膝の上で開く。


「君の話を、聞いている」


「反論は」


「ない」


「一つも?」


「ない」


その答えも、腹立たしかった。


けれど、言い逃れをされるより、ずっと逃げ場がなかった。


「それで、あの夜は」


声が、また揺れた。


「ようやく、私に尋ねてくださって」


公爵さまの顔が、わずかに強張る。


「私が、うまく答えられなかったら。何も仰らずに離れて」


「……ああ」


「三日も」


「ああ」


「私が、大丈夫だと申し上げるたびに」


「ああ」


「ああ、では、ございません」


声が、思ったより大きく出た。


公爵さまの目が、わずかに見開かれる。

私自身も、驚いた。


けれど、一度出た声は、もう元の棚へ戻らなかった。


「傷つきました」


公爵さまの顔が、わずかに歪んだ。


「たいへん、傷つきました」


もう一度、言った。


相手の顔が痛んでも、言葉を戻さなかった。


「私は、触れてほしかったのです」


胸が、大きく鳴った。


それでも、続けた。


「怖くなかったわけでは、ありません」


少し。


いいえ。


「……とても、怖かった」


公爵さまは、動かなかった。


「でも、離れてほしいとは、言っておりません」


私は、卓を回り込んだ。


何をするつもりだったのかは、分からない。

離れるつもりだったのか。

もっと近くで、怒るつもりだったのか。


気づけば、公爵さまの前に立っていた。


「私の望みとして、触れてほしいと言って」


両手が、深い色の上着をつかんだ。

布が、指の中で皺になる。


「それで、要らないと言われたら、耐えられないと思いました」


息が、浅くなる。


「だから、妻の務めなら。公爵さまが受け取りやすいものなら。断られないと思って」


公爵さまは、手を伸ばさなかった。

私の腕にも、肩にも、触れない。

私が近づいたことを、触れてよい理由にはなさらなかった。


ただ、つかまれたまま、こちらを見た。


「違うなら」


上着をつかむ指に、さらに力が入る。


「違うなら、あのとき、言ってください」


目の奥が、熱くなる。


「今朝でも。昨日でも。三日も、私が大丈夫だと申し上げるたび、それを受け取らないでください」


「その通りだ」


「私は、大丈夫ではなかった」


声が、とうとう崩れた。


「ずっと、平気な顔をしていただけです。あなたが、何も仰らないから。もう触れたくないのだと。私が、あんなことを言ったから。こんな私なら、要らないのだと」


「怖かった」


公爵さまが言った。


「私も、怖かった」


声は、もう、きれいではなかった。


「私だって、怖かった。だから、あんな言い方しかできなかったのに」


「分かっている」


「分かっていません」


言葉が重なる。

今度は、私が止めなかった。


「私は、自分が何かを望むことが、怖いんです」


言ってしまった。


理由までは、続かなかった。

父も。

母も。

妹も。

あの人も。


いまは、口にできない。


けれど、公爵さまは、なぜとは尋ねなかった。


「そうか」


それだけだった。


「それなのに、公爵さまは」


息が、何度もつかえる。


「私が答えられるまで待つと仰って。ご自分の答えまで隠して」


上着の布が、指の中でさらに歪む。


「私だけに、難しいことをさせて」


「そうだ」


「そうだ、ではなく」


「俺が、逃げた」


短い言葉だった。


「待つと言って、また黙るほうへ逃げた」


指の力が、少しだけ緩んだ。


公爵さまは、なおも触れない。


「君の答えを待つなら、俺が先に言うべきだった」


言葉は、そこで切れた。


「すまない」


今度の謝罪は、先ほどより低かった。


私は、上着をつかんだまま、公爵さまを見た。


近い。


あの夜は、触れたくて近づいた。

いまは、腹を立てて近づいている。


どちらも、私が選んだ距離だった。


「私が、何かひどいことを申し上げたら」


「聞く」


「傷ついても」


公爵さまの目が、わずかに伏せられた。


「……堪えはする」


思いがけない答えに、息が止まった。


「だが、いる」


「逃げないのですか」


「逃げない」


「席も、立たない?」


「立たない」


「私が、まだ、許さなくても」


「ああ」


涙が、一つ、頬へ落ちた。


腹立たしい。

怒っているのに、泣くとは。

身体というものは、感情の分類に、もう少し協力的であってほしい。


公爵さまの上着から、手を離した。


深い色の布に、はっきりと皺が残っている。


直さなければ。


いつもの私なら、そう思えば手が動いた。


いまは、動かなかった。

謝りもしなかった。


公爵さまも、自分で直さなかった。


私は、元の椅子へ戻った。

力が抜けたからではない。

まだ、話を終えていなかったからだ。


公爵さまも、座ったままだった。


しばらく、誰も口を開かなかった。


窓の外で、風が止んだ。


「今」


やがて、公爵さまが言った。


「俺に、どうしてほしい」


また、その問いだった。


望みを聞かれる。

胸の奥に、古い怖さが戻る。


けれど今度は、目の前の人も、怖かったと先に言った。

言って、それでも、席を立たずにいる。


「……分かりません」


初めて、そのまま答えた。


公爵さまは、眉を寄せなかった。


「分からないままでいい」


一度、言葉を切る。


「ここにいてもいいか」


それなら、答えられた。


「いてください」


声が、また少し震えた。


「ですが、まだ、近くへは来ないでください」


「ああ」


「まだ、怒っております」


「ああ」


「たいへん、怒っております」


「分かっている」


「たぶん、まだ、全部は分かっていらっしゃいません」


公爵さまは、少しだけ頷いた。


「では、聞く」


それだけだった。


「分かったふりをしない」


胸の奥で、何かが、小さく音を立てた。


壊れる音ではなかった。


私は、卓の上の二枚へ目を落とした。

私の紙の曲がった角が、目に入る。


まだ、直す気にはなれなかった。


「舞踏会は」


公爵さまが言った。


「欠席できる」


反射的に、背筋が伸びかける。


「ですが、公爵家の」


「家の面目は、俺がどうにかする」


言葉を差し戻された。


「行くと決めても、途中で帰れる」


公爵さまは続けた。


「ヘイリー伯爵家と、話さなくてもいい」


「王宮の広間で、それは難しいかと」


「難しいだけだ。できないわけではない」


この方は、堤の修繕を決めるときと同じ顔をしていた。

できるか、できないか。

必要なら、どうするか。


「会って、帰りたくなったら、そのときは帰る」


「公爵さまも?」


「ああ」


「まだ、何も申し上げられないかもしれません」


「それでもいい」


「私の代わりに、話さないでください」


「ああ」


公爵さまは、短く頷いた。


「だが、俺のことを間違って言われたら、俺が訂正する」


少しだけ、公爵さまらしい答えだった。


「それは、お願いいたします」


ほんのわずかに、息がほどけた。

公爵さまの口元も、少しだけ動いた。


「君は」


今度こそ、問いが来る。


「舞踏会へ、行きたいか」


行きたい。

行きたくない。


家族へ会うのは怖い。

けれど、もう一度、何も言わないまま、遠くから笑って終わるのも嫌だった。


どれも、きれいな一行にはならない。


「怖いです」


先に出たのは、その言葉だった。


公爵さまは、頷いた。


「でも」


私は、二枚の紙を見た。


どちらにも、二人の名が並んでいる。


「公爵さまと、一緒に行きたいです」


公爵さまの肩から、長い息が落ちた。


「分かった」


「役目だからでは、ありません」


自分で、付け加えた。


声は、小さかった。

けれど、差し戻される必要のない答えだった。


「私が、一緒に行きたいです」


「ああ」


今度の「ああ」は、腹立たしくなかった。


しばらくして、公爵さまが、二つの椅子を見た。


「隣へ、座ってもいいか」


私は、卓の端を見た。


同じ卓。

けれど、この三日は、紙一枚ぶんより広い距離があった。


「まだ、同じ紙を見る気には、なれません」


公爵さまの目が、二枚の控えへ落ちる。


「ああ」


「ですが」


私は、自分の椅子を、ほんの少しだけ動かした。


「同じ卓には、いてください」


公爵さまは、勝手に距離を詰めなかった。

私が空けたぶんだけ、椅子を動かした。


近づいた手は、卓の上で止まる。

触れてよいか、分からないまま。


私は、その手を見た。


大きく、熱のある手。

差し出されていなくても、そこにある手。


自分から、指を重ねた。


公爵さまの指が、すぐには閉じなかった。

私が握るのを待ってから、ゆっくりと包み返す。

公爵さまは、私を引き寄せなかった。

けれど、私が握る力を少し緩めても、大きな手は指を包んだままだった。


二枚の紙は、まだ、二枚のままだった。


曲がった角も、残っている。

床へ落ちたペンも。

上着の皺も、直していない。


何も、なかったことにはなっていない。


それでも。


二枚のあいだで、私たちの手だけが、重なっていた。


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