27 一枚ずつ
エルナ視点→公爵視点です
気がつけば、扉の下の灯りは消えていた。朝を迎えたからだ。
公爵さまは、約束どおり、扉一枚を隔てた向こうに、ずっといてくださった。
だから、もう十分。
私は、寝台の端に座ったまま、白み始めた窓を見た。
涙は、いつのまにか止まっていた。
頬に残った跡は、冷たい水で消せる。腫れた目元も、少し冷やせば元に戻る。
頬を包んだ大きな手の熱や、唇に残る口づけの感触は、どこを冷やせば消えるのか分からなかった。
それでも、戻すことなら、得意だった。
乱れたものを整える。遅れたものを予定へ戻す。人の目につく前に、ほころびを縫い合わせる。何も、難しいことではない。
立ち上がると、膝が少しだけ震えた。
寝台には、高さの違う枕が二つ並んでいる。私が控えへ書いたとおりに。私は、低いほうの枕へ残った小さな窪みを直した。一度、手のひらで撫でれば、何もなかったように戻った。
小卓には、飴色の櫛が置かれていた。昨夜、公爵さまが外してくださったものだ。
私はそれを手に取り、鏡の前へ座った。ほどけた髪へ櫛を通す。途中で、指が一度止まった。昨夜、公爵さまが一房をすくい、きれいだと仰ったあたりだった。
そこも、もう一度、丁寧に梳いた。
髪をいつもの形へ結い上げ、最後に櫛を挿す。
鏡の中には、髪一本乱れていない、見慣れた公爵夫人がいた。
ミナが来たときには、支度をほとんど終えていた。
「奥方さま。お早うございます」
「おはよう、ミナ」
ミナは、私の顔を見るなり、何か言いかけた。けれど、口にはしなかった。よい判断である。
「昨夜のお衣装は、こちらでお預かりしてもよろしいでしょうか。仕立て屋さまへ、皺を直していただきます」
椅子の背には、灰青の衣装が掛けられていた。
いつ脱いだのか、あまり覚えていない。袖口の内側に、銀の花が一輪、隠れている。
「ええ。お願い」
「袖口の刺繍には、薄紙を当てておきますね」
「そうしてちょうだい。糸を押さえすぎないように」
「はい」
ミナが袖口へ手を伸ばす。銀の花が、朝の光を拾った。その先に続く、もう一輪は、公爵さまのお袖にある。
ここには、ない。
「奥方さま?」
「何でもないわ」
すぐに答える。
たいへん、きれいな声で言えた。
朝食の席には、公爵さまが先にいらしていた。
髪も、衣服も、少しの乱れもない。いつもどおりの姿だった。けれど、目元だけが、わずかに重く見えた。
私と同じように、冷たい水を使われたのかもしれない。
灰青の目が、私の髪で一度止まった。
昨夜、ご自分の手でほどいた髪を、今朝はいつもの形に戻している。そのことを、公爵さまも見ている。
そう思ってしまい、すぐに皿へ目を落とした。
「おはようございます」
「ああ。おはよう」
公爵さまは、私が腰を下ろすまで待ってから、ご自分も席へ着いた。たいへん、行き届いた夫である。
給仕が茶を注ぎ、スープを置く。湯気が二人のあいだへ上がった。
「眠れたか」
匙へ伸ばしかけた手が、止まった。
「はい」
少しだけ、早い返事だった。
「もう、大丈夫でございます」
公爵さまの指が、杯の取っ手で止まる。
昨夜と同じ言葉だった。
大丈夫か、ではなく、寒いかと聞いたのだと、差し戻された言葉。
けれど、今朝は。
「そうか」
それだけだった。
答えは、差し戻されなかった。
安堵したはずなのに、胸の奥は、昨日より少しだけ冷たくなった。
「公爵さまは、よくお休みになれましたか」
「ああ。問題ない」
今度は、私が頷いた。
どちらも、相手の問いには答えていなかった。
食事は、滞りなく進む。
スープの温度はよい。
パンも温かい。
茶の濃さも、朝にはちょうどよい。
公爵さまは、私が料理を検分していても、何も言わなかった。
食後、席を立つ。
以前なら、公爵さまは手を差し出した。
足元が平らでも、段差がなくても。俺が手を取りたい、と。
今朝は、差し出されなかった。
私の手のひらは、そこへ重ねていた大きな手の熱を、まだ覚えているようだった。
だから、何もない空間のほうが、かえってはっきりと分かった。
公爵さまが先に扉を開き、私が通るのを待つ。
私は礼をして、その前を通った。
触れない。
けれど、粗末にも扱わない。
実に、正しい距離だった。
午前は、執務室で領地からの報告を確認した。
公爵さまは机の端に、私の椅子を用意してくださっていた。
向かいではない。
同じ机の、端。
そのことに私は安堵しているのか、困っているのか。
やはり、分類はつかなかった。
「こちらが、川見小屋からの試用報告でございます」
私は、用意してきた紙を公爵さまの前へ置いた。
それから、同じ内容の紙を、もう一枚。
自分の前へ。
公爵さまが、二枚を見た。
「写しを作ったのか」
「はい。書き込みながら確認するのでしたら、それぞれにあったほうが早いかと」
「一枚でも、見られる」
低い声だった。
公爵さまの指が、二枚のあいだで、ほんのわずかに動いた。
けれど、どちらの紙にも触れなかった。
「ですが、二人で同時に書き込めませんので」
用意していた理由は、すぐに出た。
正しい。
実務上、何も間違っていない。
公爵さまは、しばらく紙を見ていた。
「そうか」
今度も、差し戻されなかった。
私たちは、それぞれの紙へ目を落とした。
川見小屋の帳面には、日付、水位、雨や雪の有無、風向き、水の色が記されている。
試用三日目だけ、いくつか空欄があった。
水番が書き忘れたのではない。備考に、小さく理由が記されている。
鐘の縄が凍り、解くのに手間取ったため。
公爵さまのペンが、その行で止まった。
私のペンも、その箇所で止まる。
「鐘の縄を替える」
「はい。水を含みにくいものへ。屋根の内側を通せないかも、現地で確認していただきましょう」
「それから、この欄は要らない」
公爵さまが、ご自分の紙の一か所を指した。
「前日の水位との差、でございますね」
「ああ。毎日計算させるほどのものではない」
「私も、同じことを」
自分の紙を、少しだけ向ける。
同じ欄に、同じ線が引かれていた。
公爵さまの口元が、ほんのわずかに動いた。
私も、少しだけ笑いそうになった。
以前なら、一枚の紙の上に、二人の字が並んだ。
肩が近づき、どちらの指が先に紙の端へ届くかも分からない距離で。
今は、同じ場所を見つけても。
それぞれの紙へ、それぞれの線を引く。
「では、修正版を作ります」
「ああ。頼む」
仕事は、申し分なく進んだ。
それから三日、暮らしは何事もなく進んだ。
毎朝、二人で食事をする。公爵さまは、私の椅子を引き、扉を開き、執務室では、必要な書類を揃えてくださった。
椅子を引くと、私が腰を下ろす前に一歩退いた。扉を開けて待ってくださるときも、私が通り過ぎるまで距離を置いていらした。
私は、屋敷の報告をまとめ、工房から届いた注文を確認し、領地へ出す書簡を整えた。
朝の挨拶も。
食事の礼も。
仕事の相談も。
どれも、少しの不足もなかった。
執務室へ持っていく書類は、すべて二部になった。
工房の出荷予定。
川見小屋の修繕費。
冬の茶会へ出す霜花刺しの控え。
公爵さまと私の目は、よく同じ箇所で止まった。
疑う数字も、直す言葉も、印をつける名前も重なった。
けれど、紙は一枚ずつだった。
東棟の朝も、乱れなかった。
アンナが窓を開ける。
トムが灰を下げる。
控え帳には、小さな不都合が一行ずつ書かれ、その日のうちに直されていく。
私がいなくても、皆は自分の仕事を選べる。
公爵さまがいなくても、屋敷は正しく動く。
以前なら、嬉しいことだった。
今は、少しだけ寂しかった。
夜になれば、それぞれの部屋へ戻った。
「おやすみ」
「おやすみなさいませ」
居間で言葉を交わし、左右の扉へ分かれる。
その前には、手を伸ばせば届く距離に立つ一瞬があった。
けれど、どちらも伸ばさなかった。
奥の幅の広い扉は、閉じたまま。
誰も、開けなかった。
王宮から使いが来たのは、舞踏会の二日前だった。
昼下がり、ギルバートが執務室へ、銀盆を捧げ持って入ってくる。
「王宮式部より、当日の入場順ならびに、ご引見の最終控えが届きましてございます」
「こちらへ」
公爵さまが答える。
封を切るのは、私の役目になっていた。王宮の文書には慣れているからだ。
私は封蝋を傷つけないよう外し、中の紙を広げた。
公爵夫妻。
侯爵夫妻。
伯爵家。
名は、家格と入場順に沿って並んでいる。見慣れた形式。何度も、王妃さまの半歩うしろから確かめた紙。
上から、順に目を通す。
アッシュフォード公爵夫妻。
私と、公爵さまの名。
その下へ、いくつもの家名が続く。
そして。
ヘイリー伯爵夫妻。
指が、止まった。
その数行下には、妹と、その夫の名もあった。
もう何年も前から、当然のように並んでいる名前。
私が見ないところで、ずっと夫婦だった二人。
紙を持つ指へ、少しだけ力が入る。
「エルナ」
公爵さまの声がした。
「はい」
すぐに顔を上げる。
声も、表情も、きちんと整っている。
三日前よりも、ずっと上手に。
公爵さまは、私の手元の紙を見た。
「ヘイリー伯爵家も来るのか」
「はい」
「行かなくていい」
あまりに早い言葉だった。
「ですが」
「欠席しても、家の面目は損なわない。理由は俺が説明する」
「その必要はございません」
これも、すぐに答えられた。
「王宮舞踏会でございます。公爵夫妻として正式にご招待を受けておりますし、衣装も整っております」
公爵さまの眉間に、深い線が入る。
「衣装の話ではない」
「承知しております」
「君は」
そこで、言葉が止まった。
君は、どうしたい。
きっと、そう尋ねようとなさったのだと思う。
三日前と同じように。
私の望みを、聞こうと。
けれど、公爵さまは、その問いを口にしなかった。
「……いや」
言葉は、それきりだった。
今、尋ねられても、何を言えばよいのか分からない。
行きたいのか。
行きたくないのか。
家族へ会いたいのか。
もう会いたくないのか。
どれも、きれいな一行にはならない。
尋ねられずに済んで、ほっとした。
それなのに。
「参ります」
私は、紙を整えた。
「公爵夫人として、恥ずかしくないよう務めます」
公爵さまの顔から、わずかに色が失われた気がした。
けれど、責めることも、言い直させることもなかった。
「分かった」
また、差し戻されなかった。
「ただし、途中で帰りたくなったら言ってくれ」
「承知いたしました」
以前なら。
承知ではなく。
君の言葉で。
そう仰ったはずだった。
公爵さまの唇が、わずかに動く。
けれど、結局、何も言わなかった。
私は、王宮から届いた控えを写し、二部にした。
一部を、公爵さまへ。
もう一部を、自分の前へ。
同じ名前が並んだ、同じ紙。
二人で見るには、一枚あれば足りる。
けれど、今の私たちには。
一枚ずつあるほうが、ずっと、間違いがなかった。
◆ ◆ ◆
エルナが執務室を出ていったあとも、俺は紙を見ていた。
アッシュフォード公爵夫妻。
その数行下に、ヘイリー伯爵夫妻。
さらに下には、彼女の妹夫婦。
彼女に婚約者がいたことも、婚約が解かれたあと、その相手が妹と結婚したことも知っていた。
だが、それだけだ。
彼女がどんな顔で婚約を解いたのか。
何があって、何を飲み込んだのか。
それが、あの夜の、どこに残っていたのか。
俺は何も知らなかった。
俺は彼女に、望んでいるか、と聞いた。
他意はない。ただ、自分勝手に先走らないよう。彼女を置いていかないための問いだった。
だが、あの問いで、俺は彼女を、俺の知らない場所へ追い込んだ。
妻の務めなら果たせます。
あの声が、耳から離れない。
その声だけではない。
俺の頬へ触れた細い指も、好きだとこぼれた声も、襟元へかかった手も、すべて残っている。
ほどけた深い褐色の髪を指へ取り、唇を重ねた。腕の中にあった細い腰も、近くで乱れた呼吸も、忘れられるはずがない。
あれを、すべて務めだったと思うことなどできなかった。
だからこそ、最後に差し出された務めだけは、受け取れなかった。
俺は、彼女が望みより先に務めを差し出したことが、苦しかった。
欲しいとも、嫌だとも言える相手に、俺はまだ、なれていなかった。
そして。
俺の一瞬の躊躇が、彼女を拒んだと思わせた。
違う、と言うべきだった。
君を拒んだのではない。
務めで君を抱きたくなかっただけだ。
好きだと言った君も、言えなくなった君も、どちらも同じ君だと。
触れたいと思ったことを、彼女に悔いるべきものだと思わせたくなかった。
あの夜、止めたのは、欲が消えたからではない。
あのまま進めば、彼女が差し出した務めまで、俺の望みで呑み込んでしまうと思ったからだ。
伝えたいことはいくらでもある。
だが、今それを告げれば。
彼女はまた、俺を安心させる答えを探すのではないか。
俺が望んでいると知れば、今度こそ、望まれる妻になろうとするのではないか。
だから、触れたい手を止めて、待つと決めた。
俺が聞きたい答えではなく、彼女自身の言葉が出るまで。
そのつもりだった。
だが、朝、眠れたかと聞いたとき、彼女は、大丈夫だと答えた。
違う。
それは答えではない。
そう言いたかった。
だが、言えなかった。
昨夜、正しい答えでなくていいと告げた俺が、朝になってまた、彼女の答えを差し戻す。
それが、追いつめることに思えた。
書類が二部になったときも、何も言えなかった。
以前は、同じ机の端に座り、一枚の紙を覗き込み、俺の字と彼女の字を並べていた。
今も、同じ誤りに気づき、同じところを直す。それなのに。
俺は、自分の前に置かれた紙を動かせなかった。
彼女の紙へ寄せればいい。
一枚で見ようと言えばいい。
たった、それだけのことなのに。
伸ばした手で、また何かを壊す気がした。
屋敷のほころびなら、見つければ直せる。
川の先の水音なら、まだ来ていないうちに備えられる。
だが。
目の前で、彼女が少しずつ、完璧な公爵夫人へ戻っていく。
朝食の席へ出る。
仕事をする。
笑う。
礼を言う。
深い褐色の髪は、いつもどおり隙なく結い上げられている。
俺の前へ差し出される声も、表情も、どこにも乱れがない。
一度も、取り乱さない。
その一つひとつが軋む音を、俺は聞いている。
それでも、何もできない。
待つことと。
何もしないことは。
本当に、同じなのか。
二枚の紙のあいだに残った空白を見ながら。
俺には、もう、分からなかった。




