26 正しい答え
ちょっと長いです。
二度目の口づけのあと、先に離れたのがどちらだったのか、分からなかった。
ただ、公爵さまの肩へ置いた私の手も、腰へ回された腕も、すぐには元の場所へ戻らなかった。
近い。
けれど、先ほどまでと違って、近すぎるとは思わない。近いことが、ただ、嬉しい。そういう近さもあるのだと、この歳になって、初めて知った。
暖炉の火が、ぱちりと鳴る。
その音に合わせたように、遠くで夕食の鐘が鳴った。
公爵さまが、ほんの少し眉を寄せた。世にも惜しいものを取り上げられた、というような顔で。
「……食事の時間だ」
「はい」
たいへん現実的な言葉だった。
助かったような。惜しいような。
どちらなのかは、まだ分類しないことにする。近頃の私は、分類を保留にする案件ばかり増えていく。困ったわね。
公爵さまの腕が、ゆっくりと離れる。そのことを、また、惜しいと思った。
「エルナ」
「はい」
「手を」
足元は平らである。段差もない。裾も、きちんと収まっている。
けれど私は、何も確かめずに、その手を取った。公爵さまも、理由を言わなかった。理由を言わなくても手を取れるようになったのが、いつからだったか、もう思い出せない。そのまま二人で、食堂へ向かった。
食事のあいだ、公爵さまは、普段よりさらに無口だった。
普段から、たいへん無口なお方である。それより無口となると、ほとんど皿と杯だけで夜が進む。けれど、今夜は沈黙が気まずくなかった。
何かを言えば、先ほどのことへ触れてしまいそうで。触れれば、また唇の感触を思い出してしまいそうで。私は、匙を持つ指のほうへ、意識を逃がした。スープは、温かい。野菜の火の通りもよい。塩は、ほんの少し控えめ。冬の献立にしては——。
向かいから、視線を感じる。
顔を上げると、公爵さまが、こちらを見ていた。
「何でしょう」
「いや」
「お口に、合わないものが?」
「違う」
公爵さまは杯へ手を伸ばし、途中で止めた。
「君が」
「私が?」
「……いま、匙を止めて、料理の粗探しをしただろう」
私は、持っていた匙を、皿へ戻した。たいへん静かに。音を立てずに。
「粗探しなどとは、人聞きの悪い」
「では、何を数えていた」
「塩加減を、少々」
公爵さまの目元が、ほんの少しだけ、ゆるむ。
「そういうところだ」
「そういうところ、とは」
「いや」
言いかけて、また、しまわれた。この方の「いや」は、たいてい、いちばん言いたいことの蓋である。それを、私はもう知っている。知っているのに、開け方は、まだ分からない。
それでも、食後の茶を飲み終えるころには、料理の塩加減よりも、もっと別のことが、胸の中を占めていた。
このあと。
私たちは、どこへ、戻るのだろう。
公爵さまの私室。
私の私室。
そのあいだにある、奥の部屋。
東棟へ移ってからも、夫婦の寝室として整えられたあの部屋は、一度も、使われていない。実務的な確認が必要なお部屋。以前の私は、そう言って、自分で自分に予防線を張った。
今夜は、実務ではない。
そう思うと、茶器を置く指が、ほんの少しだけ、頼りなくなった。
食堂を出ると、公爵さまは、東棟へ続く回廊のほうへ、足を向けた。
「送る」
「はい」
返事をしてから、足が、動かなかった。公爵さまが、振り返る。
「エルナ?」
回廊の先に、あの居間がある。その中に扉は、三つ。
片側が、公爵さまの部屋。反対側が、私の部屋。そして、居間の奥に、あの、少し幅の広い扉。
口にしなければ、このまま私の部屋の前まで送られて、今夜は、終わる。おやすみなさいませ、と一礼して、扉を閉めて。それで、何も間違えずに、一日が畳まれる。
それが、嫌だと思った。
嫌だ、と、はっきり思ったことに、自分で驚いた。
もう少し、一緒にいたい。先ほどのように、触れてほしい。私も、触れたい。
思っているだけでは、伝わらない。公爵さまは、きっと、待つ。私が何も言わなければ、いつまでも、私の部屋の前で。おやすみを、言うために。
それは、あんまり、もったいない。
「公爵さま」
「何だ」
「今夜は」
喉が、急に、狭くなった。それでも、言わなくては。言葉にしなければ、この方には、届かない。
私は、自分の部屋ではなく、居間の奥の、あの幅の広い扉へ、目を向けた。
「奥のお部屋へ、参りたいです」
公爵さまが、動かなくなった。
灰青の目が、まっすぐ、私を見る。
「俺と?」
「はい」
声が、少し、小さかった。
「夫婦だから、ではなく?」
胸の奥が、強く鳴る。ずいぶんな確認をなさる。逃げ道を、ひとつずつ、丁寧に塞いでいくような。けれど、いまはまだ、その確認が、怖くない。
「はい」
「俺が望んでいると、思ったからでもなく?」
「私が」
一度、息を継ぐ。
「私が、公爵さまと、一緒にいたいのです」
公爵さまが、深く、息をした。何か重いものを、ようやく下ろしたような、長い呼吸だった。
それから、ようやく、手を差し出した。
「分かった」
私は、その手を取った。
奥の部屋は、静かだった。
灯りは低く落とされ、暖炉には、小さな火だけが残されている。
今朝、検分のために入ったばかりの部屋だった。けれど、そのときとは、まるで違って見えた。同じ寝台。二人分の枕。高さ違いが、ちゃんと二つ。私が控えへ書いたとおりに。
それを見たら、少しだけ、可笑しくなった。こんなときにも、検分の続きが、目に入ってしまう。
いけない。また、実務へ、逃げ込んでいる。
「寒くないか」
「大丈夫です」
公爵さまの眉が、寄る。
「エルナ」
「はい」
「大丈夫か、ではなく。寒いか、と聞いた」
言葉を、差し戻された。書類なら、再提出の判である。
「……少しだけ」
「火を足す」
公爵さまが、暖炉へ向かおうとする。
私は、その袖を、つかんだ。深い紺の布が、指の中で、止まる。昼にも、同じことをした。上着の端を、つかんで、離せなかった。私の手は、どうも、この人の袖を覚えてしまったらしい。
「このままで」
公爵さまが、振り返る。
「寒いのでは」
「公爵さまが、いらしてくださるなら。たぶん、平気です」
言ってから、たいへんなことを口にした気がした。けれど、公爵さまは、笑わなかった。
「そうか」
低い声だった。その一言に、火を足すより確かな熱があった。
公爵さまの手が、私の頬へ、近づく。触れる直前で、止まった。
「いいか」
「はい」
指先が、頬に触れる。先ほどの口づけのときより、ずっと、ゆっくりだった。頬から、耳の横へ。それから、髪へ。
公爵さまの指が、飴色の櫛に、触れた。
「外しても?」
「はい」
櫛が、抜かれる。留められていた髪が、はらりと、肩へ落ちた。
公爵さまは、手にした櫛よりも、ほどけた髪のほうを、見ていた。
「……何でしょう」
「前から、見たかった」
「髪を、でございますか」
「ああ」
公爵さまが、一房を、指へ取る。大切な書簡を扱うより、もっと慎重な手つきだった。
「きれいだ」
昼にも、同じことを言われた。あのときは、衣装があり、仕立て屋がいて、鏡があった。いまは、何もない。誰の目もない。その言葉だけが、まっすぐ、私へ来る。逃がす先が、どこにもない。
「……ありがとうございます」
今度は、実務へ、繋げなかった。
私のほうからも、公爵さまの顔へ、手を伸ばした。触れてよいものか、一瞬、迷う。けれど、尋ねるより先に、公爵さまが、ほんの少し、顔を寄せてくださった。
指先が、頬に触れる。思っていたより、温かい。日中は硬く見える輪郭が、この距離では、少し違って見えた。
「公爵さまも」
言いかけて、困った。
きれい、では、少し違う。立派、では、遠い。頼もしい、は、今ではない。どの言葉も、いまのこの人には、うまく当てはまらない。
当てはまる言葉は、たぶん、ひとつしか、なかった。
「……好きです」
言葉が勝手にこぼれた。
公爵さまが息を詰めた。私も、自分の言葉に驚いた。長いあいだ誰にも言わずにきた言葉が、こんなにあっさりと。
「今のは」
「聞いた」
「もう少し別の言い方が」
「変えなくていい」
公爵さまの手が、頬を包む。両の手で。
「俺は、その言葉がいい」
口づけが、落ちる。
今度は、私も、目を閉じる前から、公爵さまの肩へ、手を置いていた。
触れるだけでは終わらなかった。ゆっくり重なって、離れて、また近づく。息が少し苦しい。胸も忙しい。けれど、離れたいのではなかった。むしろ逆で。もっと近くへ行きたかった。
指が、公爵さまの襟元へかかる。自分の指がそんなことをするのを、どこか遠くで見ているようだった。
好きだと、言えた。触れたいと、思えている。今夜は、ちゃんと、私は、私の欲しいものを——
「エルナ」
公爵さまの動きが、止まった。
「俺を、見てくれ」
目を、開ける。
公爵さまは、苦しいほど、真剣な顔をしていた。急いていない。責めてもいない。ただ、確かめようとしている。私を、置いていかないために。
「無理を、していないか」
「しておりません」
すぐに、答えた。少し、早すぎたかもしれない。
公爵さまの眉間に、皺が寄る。
「怖いなら、止める」
「怖くありません」
また、すぐに答えた。
大丈夫。怖くない。無理していない。
——たいへん、都合のよい答えばかりだこと。
言い終えてから、頭の隅で、誰かが、そう採点した。冷たい声だった。聞き覚えのある、私自身の声。
公爵さまの手が、私の頬から、離れた。
拒まれたのでは、ない。わかってる。ただ、触れるのを、止めただけ。それなのに、部屋の温度が、すっと、下がった気がした。
「公爵さま?」
「正しく、答えなくていい」
胸の奥で、小さな音がした。硬いものに、細いひびが入るような。
「正しく、とは」
「今の君は、俺が何を聞いても、俺が困らない答えを、返す」
そんなこと、ない。
私は、自分で、この部屋を選んだ。一緒にいたいと、言った。好きだとも、言えた。今度こそ、私は。
それなのに。
気づけば、寝台の端に、腰を下ろした自分の手が、膝の上で、きちんと重なっている。背筋は、伸びている。裾も、乱れていない。呼吸すら、整えようとしている。
ついさっき、この人の襟に指をかけた、その手が。もう、膝の上へ、戻っている。いつのまに。
公爵さまが、私の前に、膝をついた。目線が、同じ高さになる。
「君が、どうしたいのか。聞かせてくれ」
「私は」
「俺に、触れられたいのか」
穏やかな声だった。だからこそ、逃げられなかった。
「俺を、望んでいるか」
——望む。
その言葉が、私の中で、火花を散らした。
望む。私が。私が、何かを、望む。
望んだことが、なかった、わけではない。一度だけ、ある。ずっと昔に。この胸に、たしかにあった。欲しいと。この人が、好きだと。
言えなかった。
言う前に、その人は、うしろで微笑む誰かのほうを、見ていた。
『きみは強いから、』
耳の奥で、古い声がする。長いあいだ、封じてあったはずの声。
『——平気だろう?』
その人のうしろで、泣きそうな顔をしていた妹。
ほっとしたように、息をついた母。
何も言わず、私がうなずくのを待っていた父。
『エルナなら、分かってくれるわね』
平気なわけが、なかった。
分かっていたわけでも、なかった。
でも、そう言われれば、うなずくしかなかった。私が「平気ではない」と言えば、皆が困る。困った顔をさせるくらいなら。欲しいと言って、迷惑がられるくらいなら。好きだと言って、困らせるくらいなら。
いっそ、先に、笑ってしまえばいい。
だいじょうぶ、と。私は強いから、と。
そうすれば、誰も、傷つかない。私が、欲しがらなければ。私が、望まなければ。何も、壊れない。誰も、困らない。
——それが、私の、いちばんの芸だった。
顔と、声だけ、平気でいること。内心が、どうであれ。
「エルナ」
公爵さまの声が、遠くから、聞こえた。
いま、私は、この方に望みを聞かれている。困らせない答えを、待たれているのではない。私の望みを。
言えば、いい。
好きです。触れてほしいです。もっと、近くにいたいです。
さっき、言えたはずのことを、もう一度。
けれど。
欲しいと、言ってしまえば。この人が、好きだと、認めてしまえば。いつか、失うときに、私は。もう、笑えなくなる。平気な顔が、できなくなる。欲しがったぶんだけ、きっと。
喉の奥で、言葉が、ひとつずつ、形を失っていく。
代わりに、長く使い慣れた答えだけが、そっと、きれいに、並んだ。
「……妻の務めでしたら」
言い終える前に、違う、と分かった。
これではない。これだけは、言いたくなかった。今夜だけは。
けれど、もう、止められなかった。一度動きだした、この芸は。
「きちんと、果たせます」
部屋が、静かになった。
公爵さまの顔から、何かが、消えた。
怒りでは、なかった。軽蔑でも、ない。ただ、深く、傷ついた顔だった。私が、いちばん、見たくなかった顔。私の言葉が、この人に負わせた傷。
公爵さまは、ゆっくりと、立ち上がった。私へ触れていた手が、離れていく。名残を惜しむように、けれど、はっきりと。
「……務めで、君を抱くつもりは、ない」
低い声だった。静かで、優しくて。だからこそ、胸の奥まで、深く刺さった。
私には、それが。拒まれたということにしか、聞こえなかった。
——こんな私なら、要らない。
ああ。やっぱり。
見せてしまった。いちばん奥の、いちばん醜い頁を。欲しいと言えない、好きだと差し出せない、空っぽの私を。だから、退かれた。当然だ。当然の、ことだ。私は、また、いちばん大事なところで、いちばん欲しいものを、差し出せなかった。
「……申し訳、ございません」
声が、うまく、出なかった。
「私は」
続きが、なかった。私は、何なのだろう。何を言えば、よかったのだろう。式辞なら、礼状なら、いくらでも整えられるのに。自分のことだけが、いつも、真っ白だ。
公爵さまが、何か言いかけて、やめた。それから、寝台の端に、腰を下ろした。私の隣。だけど少し、離れた場所に。
「エルナ」
「はい」
「今は、いい」
いつか、馬車で聞いた言葉だった。話せるまで待つ、と言ってくれた、あの声と、同じ。
「無理に、話さなくていい。ここに、いていい」
でも、と思った。
でも私は、あなたを傷つけた。せっかく、望みを聞いてくれたのに。置いていかないように、確かめてくれたのに。私は、いちばん冷たい言葉で、それに蓋をした。
この顔のまま、隣にいるのは、耐えられなかった。貼りついて剥がれない、この微笑みを、これ以上、この人に見られたくなかった。
「……一人に、してください」
言ってしまってから、また、間違えた気がした。
一人になど、なりたくない。本当は。本当は、そばにいてほしい。いてほしいと、いま、言えれば。けれど、その一言さえ、私は。
公爵さまは、しばらく、動かなかった。
やがて、静かに、立ち上がる。
「分かった」
責めなかった。理由も、聞かなかった。
扉のところで、一度、止まった。そして振り返らずに、言った。
「隣にいる。灯りは、消さない」
音もなく扉が閉まった。
一人になった寝室で、私はしばらく動けなかった。
暖炉の、小さな火。二人分の枕。高さ違いが、二つ。私が、控えへ書いたとおりに。
その、二つ目の枕を見たら。急に、膝から、力が抜けた。
寝台の端に、崩れるように、座り込む。整った所作でも、優雅な仕草でもなく。ただ、崩れる。手が、袖口を探した。二輪の花の、あの袖口を。指で、辿る。手を重ねたときだけ、ひとつになる、花。
いまは、重ねる手が、ない。私が、消したのだ。
——本日の私。
心の帳面が、開いたけれど。
何も、書けなかった。
いつもなら、勝手に一行、採点が浮かぶのに。今夜は、何も、浮かばない。まっさらな頁を、私は、ただ見ていた。
居間のほうから、物音は、聞こえない。けれど、扉の下から細い灯りが漏れている。消さない、と言った、あの灯りが。
そこにいる。私が、いいと言うまで。あの人は、そこにいる。
その灯りを、見ていたら。
なぜだか、涙のほうが、先に、おりて来た。悲しいのか、情けないのか、それとも——分類が、つかない。つかないまま、頬が濡れていた。
私は、声を、殺した。長い、宮仕えの癖で。泣くときでさえ音を立てない術を、私は、知っている。
扉の向こうの灯りは、朝まで、消えなかった。




