25 返す拍
完結まで、あと10話前後を予定しています。
最後までお付き合いいただけるとうれしいです。
朝いちばんに、ギルバートが東棟へ来た。
「本日をもちまして、東棟のすべての室が、整いましてございます」
すべての室。
私は、受け取った控えの束から、顔を上げないことにした。顔を上げれば、居間の奥の、あの少し幅の広い扉のほうを、見てしまう気がしたからだ。
「ご苦労さま。控え帳のほうは?」
「このひと月で、書き込みは十一件。うち九件は、すでに直りましてございます。残る二件は——」
「西の窓の立てつけと、廊下の灯りの影ね」
「さようでございます」
窓の固さも、床のきしみも、灯りの影も。このひと月、皆が一行ずつ書いてくれた帳面のおかげで、東棟は、住む前から住み慣れた場所になりつつある。よい部屋というものは、こうやって、人の手で少しずつ煮込まれていくものだ。
「では、最後のお部屋も、検分いたしましょう」
私は、控えの束をきちんと揃えて、立ち上がった。
最後のお部屋。
言い方に、我ながら少し感心する。名前を言わずに済ませる技術というものは、宮仕えで随分と磨かれた。
ミナが、扉の前で、そわそわと待っていた。
「あの、奥方さま。こちらは、その」
「検分よ、ミナ」
「け、検分」
「寝具まわりというものはね、実際に使う前の検めが、いちばん大事なの。敷布の張り。枕の高さ。窓掛けの遮り具合。夜のお部屋は、昼に検めておかないと、直すときに灯りが足りないでしょう」
「はい……!」
ミナの返事は元気だったけれど、目が、明らかに検分以外のことを考えている。
——本日のミナ、想像力に乱れあり。検分に集中なさい。
私は帳面に一行つけて、幅の広い扉を、開けた。
部屋は、静かだった。
大きすぎない窓。落ち着いた色の窓掛け。壁の色は居間より少しだけ深く、灯りを入れれば、きっとやわらかく沈む。寝台は——見ないわけにはいかないので、見る。仕立てのよい、堅実な寝台だった。柱に余計な彫りがなく、天蓋の布も重すぎない。
うん。
よい、寝台である。
寝台に、よいも悪いもあるものか、と思われるかもしれないけれど、ある。私は敷布の角へ指を当て、張りを確かめた。皺ひとつない。枕を持ち上げ、高さを見る。中の詰めものも、上等。窓掛けを半分引いて、光の落ち方を検める。朝日は寝台の足元まで。顔には、届かない。よく考えられている。
「奥方さま。あの、その、旦那さまのお枕は、もう少し高いほうがよいかもしれません。お背が高くていらっしゃるので」
「あら。よく気がついたわね」
「へへ」
「では、高さ違いをひとつ、用意しておいてもらいましょう」
私は、控えへ書きつけた。枕、高さ違い、一一。
書きながら、思う。私はいま、たいへん実務的である。実務的な確認が必要なお部屋でございます、と、いつか自分で申し上げたとおりの、模範的な検分である。あのとき公爵さまは、肩を少し震わせて、そうだな、と仰った。
思い出したら、指が、敷布の角をもう一度整えていた。
整っているのに。
「……検分、以上」
「もう、よろしいのですか?」
「ええ。満点よ」
私は、幅の広い扉を、来たときよりも少しだけ早く、閉めた。
——寝室、検分済み。以上。
帳面も、早々に閉じる。頁の余白に何かが書かれそうになる前に、閉じるのが肝要である。
衣装が届いたのは、その日の午後だった。
仕立て屋が、大きな衣装箱を二つ、居間へ運び込ませる。布見本の日と同じ、落ち着いた物腰。けれど、箱の蓋へ手をかけたその目は、あの日よりも、ほんの少し得意げだった。よい職人の、仕上げの日の顔だ。
「まずは、奥方さまから」
蓋が開く。
薄紙の下から、灰青が現れた。
見本で選んだ、あの色。光の向きで、灰にも、深い青にも見える布。冬の朝、空と霜の境が曖昧な時刻の色。それが、いま、一着の形になって、そこにある。
「まあ……」
ミナが、両手で口を覆った。泣くには、まだ早い。
衝立の向こうで袖を通すと、布は、驚くほど軽かった。重ねの多い正装なのに、肩に乗る感じがしない。仕立て屋が裾を整え、背の切り替えを検める。そこには、深い紺。公爵さまの色が、遠目には分からないほど静かに、入っている。
鏡の前に立った。
美しいかどうかは、私には分からない。けれど、ちぐはぐでは、ない。それどころか、この一着は、私の頼りないところを隠すのではなく、そのまま、そこにあってよいものとして扱ってくれている気がした。布に、そんな芸当ができるとは知らなかった。
「袖口を、ご覧くださいませ」
言われて、手首を返す。
袖口の、内側。
銀の細い枝の先に、小さな花が一輪、咲いていた。枝は袖の端へ向かって伸びている。工房で見た、あの婚礼の図案。そのもう一輪は、公爵さまのお袖に収められているのだという。腕を下ろせば、隠れる。手を伸ばしたときにだけ、ちらりと、霜が光る。
「……きれい」
考えるより先に、声が出た。工房でも、同じことがあった。この花は、どうも、私の考える順番を追い越してくる。
「旦那さまのお召し物には、対になる一輪を。お手を重ねたときに続くよう、位置を整えてございます」
「無理を、させなかったかしら」
「工房に残っていた二本の長さを整えただけと、職人の方々は申しておりました。それより、と」
仕立て屋は、少しだけ笑った。
「続きのご注文を、心待ちにしておられました」
公爵さまの支度が整ったと知らせが来て、居間の扉が開いた。
深い紺だった。
公爵さまは、もともと姿勢のよい方だけれど、深い紺の正装に身を包むと、長身がいっそう端正に見えた。襟元と袖には、私の衣装と同じ色が静かに入っている。遠目には、それぞれの一着。近くで見れば、一組。
公爵さまは、扉のところで、止まっていた。
私の姿を見たまま、何も仰らない。仕立ての具合を確かめていらっしゃるのかと思ったけれど、それにしては、ずいぶん長い。
「公爵さま?」
「……いや」
歩き出して、また、止まる。
「その」
「はい」
「似合う」
短い。たいへん短い。けれど、この方の「似合う」が、仕立て屋の百の言葉より整った賛辞であることを、私はもう知っている。
「公爵さまも、よくお似合いです」
「そうか」
「はい。紺は、召される方を選ぶ色ですけれど」
「選ばれたか」
「満点でございます」
つい、採点をしてしまった。公爵さまの口元が、ほんのわずかに、ほどけた。
仕立て屋が、控えを胸に、進み出る。
「では、お仕上げの確認を。歩かれたところと——回られたところを、拝見いたします」
来た。
あの日、予告されていたやつである。
居間の中央は、心得た顔のギルバートによって、すでに空けられていた。皆、本当に、こういうときだけ動きが早い。ミナは布箱を抱えて壁際に控え、指を組んでいる。祈りの形である。何を祈っているのかは、聞かないでおく。
公爵さまが、手を差し出した。
「頼む」
「確認でございますからね」
「ああ。確認だ」
お互い、たいへん実務的である。実務的なのに、重ねた手のひらが、いつもより少し熱いのは、布のせいということにしておく。
腰へ、手が来る。迷いのない位置。近すぎもせず、浮いてもいない。舞踏の練習を重ねて、公爵さまが覚えた距離だった。
大きな掌が、私の腰を布越しに支える。重ねの多い衣装の上からなのに、触れられた場所だけは、ひどく正確に分かった。
「数えますか」
「数えない」
「では」
「ああ」
それだけで、足りた。一歩目から、拍が合う。
音は、ない。暖炉の火の音と、衣擦れと、仕立て屋の鉛筆の音だけ。それでも、二人のあいだには、あの三拍がある。数えなくても、消えない。私が先回りをしなくても、置いていかれない。
次の向きを任せて重心を預けても、公爵さまの手は迷わず支えてくれる。
裾が回る。灰青が、遅れて円を描く。仕立て屋の鉛筆が、素早く動く。回り切った先で、公爵さまの手が、次を教える。考える前に、足が出る。
初日には、床板ばかり検めていらした方が。
数が消えると仰っていた方が。
いまは、私だけを見て、止まらない。
一巡り目が終わり、二巡り目に入るところで、私は、気づいてしまった。
これは、もう、練習ではない。確認でも、ない。
数えて、間違えて、止まって、教本を思い出しながら積んできた、あの日々の。これは、成果なのだ。誰に見せるためでもなく、二人で積んだものが、二人の足元に、ちゃんとある。
最後の拍で、足が、そろった。
裾が、静かに落ち着く。
一拍の、静寂。
「……素晴らしゅうございます」
仕立て屋の声が、少しかすれていた。控えに目を落とし、咳払いをひとつして、職人の声へ戻る。
「裾の運び、袖の返り、ともに申し分ございません。ただ、旦那さまの左の袖口だけ、ほんのわずかに。お直しして、本日中にお納めいたします」
「頼む」
「では、お召し替えのお手伝いを——」
「あとでいい」
公爵さまが言った。
仕立て屋は、一拍だけ、私と公爵さまを見た。それから、何も見なかった顔で、深く礼をした。さすが、よい職人である。
「では、控えの間にて、お直しの支度をしております。ミナさま、布箱をこちらへ」
「え。あ、はい!」
ミナが、名残惜しそうに、布箱ごと連れていかれる。ギルバートが、燭台の位置を直す顔で、静かに続いた。
扉が、閉まる。
居間には、暖炉の火の音だけが残った。
「もう一曲」
公爵さまが言った。
「お直しの前に、でございますか」
「ああ」
「確認は、済みましたけれど」
「確認ではない」
まっすぐに、言われてしまった。
「俺が、君と踊りたい」
差し出された手を、私は、取った。理由は、探さなかった。探さなくても、手が先に出るようになったのは、いつからだったろう。窓の外は、もう夕暮れだった。灰青の空。冬の、いちばん短い光が、床を斜めに渡っている。
今度の一曲は、さっきよりも、ゆっくりだった。
仕立て屋の鉛筆もない。裾の検分もない。ただ、火の音と、同じ拍だけがある。
腰へ戻った手は先ほどと同じ位置なのに、人目がなくなっただけで、熱の意味まで変わったように思えた。
回るたび、灰青と紺が、触れそうになって、離れる。胸元まで近づき、離れるたび、次の拍が待ち遠しくなる。離れても、拍は切れない。
最後の位置で、止まった。
止まったのに、手は、離れなかった。
重ねた手が、目の高さの近くにある。灰青の袖と、紺の袖が、並んでいる。
その、袖口の内側で。
二輪の花が、向かい合っていた。
私の袖に、一輪。公爵さまの袖に、一輪。あいだを、それぞれの銀の線が、手首のほうへ伸びている。手を重ねた、いまだけ。この近さの、いまだけ、二輪はひとつの図案になる。
手を重ねたとき、近くにいる方だけが気づくように。
工房で聞いた言葉が、そのまま、ここにあった。
「……見つけました」
私は、言った。
「近くで」
公爵さまの目が、袖口から、私へ移った。
灰青の目だった。しおりの石の色。布の色。ずっと、落ち着く色だと思ってきた。落ち着く、というのは、たぶん、正確ではなかった。この色の前でだけ、私は、落ち着かなくて、いいのだ。
踊りは終わっているのに、腰に残った手は離れなかった。
見上げた先で、公爵さまの視線が、私の目から唇へ落ちた。
「エルナ」
「はい」
「触れたい」
短かった。飾りも、前置きも、ない。
「……いやなら、言ってくれ」
腰の手は、動かない。重ねた手も、そのまま。いやなら言え、と、この方はいつも仰る。堤でも、馬車でも、舞踏の一歩目でも。そして、私が言うまで、本当に、動かない。
いやでは、なかった。
いやではないどころか。
「……いやでは、ありません」
声が、思ったより小さくなった。けれど、届いたらしい。
公爵さまの手が、頬に触れた。剣を持つ方の、硬い手のひら。なのに、触れ方は、壊れものを扱うときよりも、なお慎重だった。
頬と腰を支えられ、私は自分で立っているのに、少しだけ身体を任せてもよい気がした。
顔が、近づく。
私は、目を閉じた。
唇に、触れた。
一度。ほんの、短く。冬の窓に、指先で触れるくらいの。
けれど、触れた場所から胸の奥へ、思いがけない熱が移った。
離れていく。
その、離れていく気配に——手が、勝手に動いた。
紺の上着の端を、指が、つかんでいた。
公爵さまが、止まる。
引き留めてしまった。引き留めて、しまってから、考えた。考えて、分かった。これは、間違いではない。手が先に動いただけで、答えは、私のものだ。
私は、上着の端をつかんだまま、爪先を、少しだけ上げた。
公爵さまの息が止まるのが、触れる前から分かった。
今度は、私から、唇を重ねた。
同じくらい、短く。同じくらい、そっと。いただいたものへ、同じ拍で応えるように。
触れた瞬間、腰にある手へわずかに力がこもった。引き寄せるのではなく、爪先立ちになった私の身体を支えるように。
唇が離れ、目を開けると、公爵さまが、私を見ていた。
見たことのない顔だった。驚いて、それから、その驚きの置き場所に困って、それでも、目だけは逸らさない。雨の日の、大きな犬。いつかの晩餐会で、失礼にも、そう思った顔。あの顔が、いま、雨上がりになっている。
「……返って、きた」
「はい。お返ししない理由が、見つかりませんでしたので」
我ながら、色気のない返事である。けれど、公爵さまは、笑った。声を立てずに、けれど、はっきりと。この方の笑った顔を、私は、まだ数えるほどしか見ていない。数えるほどしかないものは、一つ増えるたび、よく分かる。
窓の外で、灰青の空が、藍へ変わっていく。
袖口の花は、もう、暗くて見えない。
見えなくても、そこにあることを、二人とも知っている。
上着の端を、私はまだ、つかんだままだった。皺になる、と頭の隅で誰かが言ったけれど、聞こえないふりをした。今夜のお直しは、どうせ、左の袖口だけではなくなったのだ。
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