24 先の水音
公爵さまが次に見せてくれたのは、川だった。
冬の水は低く、流れも穏やかだった。岸の草は色を失い、薄い氷が石のあいだに残っている。けれど川沿いの道へ入ってから、公爵さまの目は忙しく動いていた。
「春には、あの石の三段目まで水が上がる」
窓の向こうの橋を示される。
「雪解けで、ですか」
「ああ。山の雨が重なれば、さらに上がる」
橋の下は細い流れだが、欄干は高く、太い橋脚には何度も補修した跡があった。
「流木が詰まれば、水が町へ逃げる」
振り返れば、霜花刺しの工房の煙突は、もう白い空の下に小さく見えるだけだった。
「あの工房も」
「下流だ」
公爵さまは短く答えた。
「一度水が入れば、布も糸も使えなくなる。職人が仕事を失えば、注文は別の土地へ流れる。戻ってくるとは限らない」
先ほど見た銀の花も、それを刺す手も、一本の川で町の暮らしにつながっている。
「品を残すだけでは、足りないのですね」
「ああ」
公爵さまの視線は、流れの先にある。
「人が暮らせなければ、何も残すことはできない」
馬車が速度を落とした。道の先に、小さな村と、川べりへ突き出すように建つ低い小屋が見える。
「あれが、見せたかったものですか」
「一つは」
馬車が止まると、公爵さまは先に地面へ降りた。踏み台の下は、乾いて見えるところまで薄く泥を含んでいる。差し出された手へ、私は手を重ねた。
「足元が悪い」
地面へ下りたあとも、指を包む力は変わらなかった。村の入口では、代官と村人たちが私たちの手元へ一度だけ目をやり、深く頭を下げた。それでも、手はつないだまま。
「旦那さま、奥方さま。ようこそお越しくださいました」
公爵さまは挨拶を受けると、すぐに川辺の小屋へ向かった。
「川見小屋を先に見る」
「はい。ですが、たいへん粗末なところでございまして」
「だから見る」
代官は口をつぐみ、先に立った。小屋の前には、年嵩の男が待っていた。日に焼けた顔に深い線があり、帽子を取った指は節が太い。
「水番のオルドでございます」
「夜も入るのか」
「雪解けの時期は」
公爵さまが扉を開けた。
中へ入った途端、煙の匂いが鼻先に触れた。暖炉には火が残っているのに、部屋はあまり温かくない。壁板の継ぎ目から、細い光が何本も差している。窓際に水位の帳面、壁に鐘の縄、隅に薪と毛布があった。公爵さまは暖炉を見てから、煙突の根元へ手を伸ばした。指先に煤がつく。
「煙が戻るな」
水番が帽子を握り直した。
「風向きによっては、少し。ですが、まだ使えますので」
「壁も」
「板を当てれば、春までは」
「使えることと、耐えさせることは違う」
小屋の中が静かになった。水番は、すぐには顔を上げなかった。
「わしらは、慣れておりますので」
「慣れなくていい」
公爵さまの声は低かった。怒っているわけではない。けれど、毅然として厳しい声だった。
「水を見る者が寒さと煙で目を曇らせれば、困るのは村だ。煙突と壁を直せ。寝台も替える」
「寝台まで、でございますか」
「水を見る者が寒さで目を曇らせたら、村が危うい。春までに直す。薪も増やせ」
口調は厳しいけれど、言っていることは、働き手への気遣いだった。代官が、急いで手元の書へ書きつける。
私は窓際の帳面を開いた。
日付。
水位。
数字は丁寧。けれど、数字の他にはなにもない記録。私には、この数字だけでは、何があったのかまで推し量れない。
「雨や雪の記録は、別にございますか」
水番が首を横に振った。
「わしが覚えております。雨が何日続いたかも、風がどちらから来たかも」
「オルドさんがいらっしゃるあいだは、それで足りますね」
「はい」
「では、次の方へは、何を渡しますか」
水番の指が、帽子の縁で止まった。長く続けた仕事ほど身体が覚える。だからこそ、次の人へ渡す形が要る。
「時刻、雨や雪の有無、風向き。それから、水の色もあるとよいかもしれません。上流で土が崩れれば、先に濁りますもの」
公爵さまが帳面を覗き込んだ。
「書式を作れるか」
「はい。屋敷へ戻りましたら」
「ここで使えるものにしてくれ。項目が多すぎれば続かない」
「承知いたしました」
水番が、帳面を両手で持ち直した。
「わしにも、書けるものでしょうか」
「もちろんです。今の字は、とても読みやすいですもの」
日付の列を指す。
太い指で書かれた数字は、一つずつ形が揃っていた。
「増やすのは四つほどです。まず一緒に試して、要らないものは減らしましょう」
水番の肩から力が抜けた。
「それなら」
「頼めるか」
公爵さまが尋ねる。
「はい。やってみます」
先ほどまでの我慢とは違う、前向きな返事だった。
使えることと、耐えさせることは違う。
その言葉が、なぜか耳に残った。
小屋の裏手には、低い堤が続いていた。乾いた石が並んでいるところの一か所だけ、下の土がえぐれている。公爵さまは泥へ靴を入れ、そこまで下りていった。代官が慌てて追う。私も進もうとすると、公爵さまが振り返った。
「エルナ。手を」
「足元は見えております」
「見えていても滑る」
差し出された手を取る。
公爵さまは、指先だけではなく、私の腕にも手を添えて支えてくれた。
一段、石を下りる。
足を置いた先で土が滑り、公爵さまの腕が私を引き寄せた。肩が触れそうな距離で止まる。外套越しにも、支える腕の強さと、すぐ近くにある身体の熱が分かった。
「だから言った」
「まだ、何も申し上げておりません」
「自分で下りられた、と言うところだった」
顔を読む腕まで上げていらっしゃる。
「……下りられました」
「知っている」
公爵さまは手を離さないまま言った。
「だが、俺が支えたい」
足元より先に、こちらの呼吸が危うくなった。代官も水番も、そろって川だけを見ている。よい所作である。
「ここは、昨年より下がっている」
公爵さまが言った。代官が石の際を確かめる。
「申し訳ございません。次の定例報告で」
「水は報告の日を待たない。明日、人を入れろ」
「街道門と重なります。王都からのお客さまが通る門でございますので、見栄えが…」
公爵さまは、代官を見た。
代官は、すぐに口を閉じた。
「まずここだ。春までに終える」
迷いがない。華やかな門でも、大きな建物でもない。冬の川辺で、まだ誰にも褒められない石を先に直す。公爵さまは、起きてから困ることより、まだ起きていない困りごとを見ている。
川は静かなまま流れていた。
その先にある春の水音を、この方はもう聞いているのだと思った。
視察を終えると、村の小さな詰所で茶が出された。干した草と蜜を入れた素朴な飲み物で、冷えた指へじんわりと熱が戻る。
公爵さまは、湯気の向こうで代官の報告を聞いていた。
小屋の修繕。
堤へ入れる人足。
雪解けの見張りを一人増やすこと。
工房の町まで警報を届ける順番。
必要なものはその場で決め、分からないことは期限を定めて調べさせる。曖昧なまま残すものがない。
「公爵さまは」
報告が途切れたところで、私は口を開いた。
「先の水音を、聞いていらっしゃるのですね」
代官がこちらを見た。
公爵さまは、杯へ伸ばしかけた手を止めた。
「まだ水が来ていないうちに、橋も、堤も、人の眠る場所もご覧になる。水が来てからでは、遅いから」
私は、持っていた杯の縁を一度なぞった。
「当主とは、こういうお仕事なのですね」
公爵さまは、しばらく何も言わなかった。
「そう見えたか」
「はい」
返事はすぐに出た。
「とても、尊敬いたします」
公爵さまは杯を持ち上げ、口をつけずにまた置いた。
「君にそう言われるのは、うれしい」
穏やかな声だった。
「来てくれて、よかった」
「お役に立てたなら」
「ああ、役に立った。帳面のことも、工房のことも。君がいなければ、俺は違うものを見落としていた。だが、それだけではない」
私は、杯から顔を上げた。
「君に見せたかった。君が何を見るのか、知りたかった」
一度、言葉を切る。
「君と一緒に、見たかった」
詰所の外で、薪を置く乾いた音がした。そのあとには、川の流れだけが残る。公爵さまは、返事を待っていた。
「私も」
杯を置く。
「公爵さまと来られて、よかったです」
公爵さまの眉間が、少しほどけた。
「そうか」
たった一言なのに、今日のどの決裁より大切そうに聞こえた。
帰りの馬車では、約束どおり、公爵さまが工房と村で見たことを話してくださった。私は文箱を膝に置き、順に書き留める。公爵さまは、私が書き終えるまで待ってから次へ進んだ。一通りまとめると、公爵さまが窓の外を見た。
「今回は、ここまでだ」
「領地の視察が、ですか」
「今回はここだけが。本来なら、領都も見せたかった」
「領都」
「幼少期は、そこで暮らしていた」
公爵さまが幼いころを過ごした場所。
その事実だけで、知らない街が急に近くなった。
「どのような街なのですか」
「川と市がある。春は馬市。夏は南から商人が来る。秋は穀物の荷で道が詰まる」
「冬は?」
「よく凍る。朝は、井戸の縁まで白くなる」
見たい。
今度は、勉強になるからでも、領地を把握するためでもなかった。
ただ、その井戸を見たいと思った。
「どの季節がいい」
尋ねられ、一度は仕事に適した季節を考えた。けれど、公爵さまが求めているのは、そういう答えではない。
「……冬の井戸を、見てみたいです」
「分かった」
「けれど、春の馬市も」
「春にも行く」
「夏の商人も、秋の荷も、気になります」
「では、季節ごとに行こう」
あまりに簡単に決められた。
「全部、でございますか」
「ああ。一つに減らす必要はない」
公爵さまの隣で、春から冬までの季節が並んだ。今日だけでは終わらない約束だった。
私は文箱を閉じた。
「君の故郷は」
公爵さまが、ふいに尋ねた。
「どの季節が、いちばんいい」
私は、膝掛けの房を指で整えた。答えが半拍おくれてしまったのは、そのせいだわ。
「春、でしょうか」
声も、きちんと出せている。
「白い花が咲きます。庭の南側に、古い木がございまして」
父の執務室の窓から見えた木。
妹が花を髪へ挿して笑った庭。
いつか私が座るのだと言われていた机。
その席には、今は別の人が座っている。
「見てみたい」
公爵さまは、何も知らずに言った。
「いずれ、君が育った場所へも行きたい。急な結婚だった。ヘイリー伯爵へも、きちんと挨拶を」
「そうでございますね」
膝掛けの房は、もう揃っている。
それでも私は、端からもう一度整えた。
「機会を見て、日程を調整いたしましょう。その前に王宮舞踏会の支度もございます。工房から届く縁飾りを仕立て屋へ。それから、今日の修繕費を――」
「エルナ」
名前を呼ばれ、指が止まった。
「はい」
「今の声は、違う」
「違う、とは」
「君が、自分のことを話さないときの声だ」
馬車の車輪が、小さな石を踏んだ。
文箱の金具が、ことりと鳴る。
公爵さまは、視線を逸らさない。
「故郷へ行きたくないのか」
「そのようなことでは」
「では、何がある」
答えを探した。
父。
母。
妹。
あの人。
家。
机。
どれも、今ここで口にすれば形が崩れそうだった。
「……何でもございません」
公爵さまの眉間に、深い線が戻る。
「何でもない声ではなかった」
言い切られ、逃げる言葉がなくなった。
けれど、公爵さまはそれ以上問いを重ねなかった。
「今は、言わなくていい」
川の音が、馬車のすぐ近くを流れている。
「話せるまで待つ。だが、何でもないとは思わない」
私は、膝掛けの房から手を離した。
「君が望まない場所へ、家の都合で連れていくことはしない」
「ですが、公爵家としてのご挨拶が」
どこか安堵する気持ちと、仕事を滞らせてはいけないという気持ちがせめぎ合う。
「急がない」
公爵さまは静かに言った。
「君が話せる日まで待つ」
いつものように、分かりました、と答えかけた。
けれど、その言葉も今は違う気がした。
「……ありがとうございます」
公爵さまが、掌を上にして手を差し出した。
「手を」
「馬車の中でございます」
「知っている」
「足元も、悪くございません」
「それも知っている」
公爵さまの手は、そのまま待っている。
「必要な介助ではございませんが」
「ああ」
公爵さまは、少しだけ指を動かした。
「俺が、手を取りたい」
私は、自分の手を重ねた。
公爵さまは、故郷のことをもう尋ねなかった。
私も、まだ話せなかった。
答えが出ないままでも、馬車は王都へ向かって進んだ。
川は少しずつ遠ざかっていく。
それでも、公爵さまの手は、屋敷へ着くまで離れなかった。




