表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

24/33

24 先の水音


公爵さまが次に見せてくれたのは、川だった。

冬の水は低く、流れも穏やかだった。岸の草は色を失い、薄い氷が石のあいだに残っている。けれど川沿いの道へ入ってから、公爵さまの目は忙しく動いていた。


「春には、あの石の三段目まで水が上がる」


窓の向こうの橋を示される。


「雪解けで、ですか」


「ああ。山の雨が重なれば、さらに上がる」


橋の下は細い流れだが、欄干は高く、太い橋脚には何度も補修した跡があった。


「流木が詰まれば、水が町へ逃げる」


振り返れば、霜花刺しの工房の煙突は、もう白い空の下に小さく見えるだけだった。


「あの工房も」


「下流だ」


公爵さまは短く答えた。


「一度水が入れば、布も糸も使えなくなる。職人が仕事を失えば、注文は別の土地へ流れる。戻ってくるとは限らない」


先ほど見た銀の花も、それを刺す手も、一本の川で町の暮らしにつながっている。


「品を残すだけでは、足りないのですね」


「ああ」


公爵さまの視線は、流れの先にある。


「人が暮らせなければ、何も残すことはできない」


馬車が速度を落とした。道の先に、小さな村と、川べりへ突き出すように建つ低い小屋が見える。


「あれが、見せたかったものですか」


「一つは」




馬車が止まると、公爵さまは先に地面へ降りた。踏み台の下は、乾いて見えるところまで薄く泥を含んでいる。差し出された手へ、私は手を重ねた。


「足元が悪い」


地面へ下りたあとも、指を包む力は変わらなかった。村の入口では、代官と村人たちが私たちの手元へ一度だけ目をやり、深く頭を下げた。それでも、手はつないだまま。


「旦那さま、奥方さま。ようこそお越しくださいました」


公爵さまは挨拶を受けると、すぐに川辺の小屋へ向かった。


「川見小屋を先に見る」


「はい。ですが、たいへん粗末なところでございまして」


「だから見る」


代官は口をつぐみ、先に立った。小屋の前には、年嵩の男が待っていた。日に焼けた顔に深い線があり、帽子を取った指は節が太い。


「水番のオルドでございます」


「夜も入るのか」


「雪解けの時期は」


公爵さまが扉を開けた。

中へ入った途端、煙の匂いが鼻先に触れた。暖炉には火が残っているのに、部屋はあまり温かくない。壁板の継ぎ目から、細い光が何本も差している。窓際に水位の帳面、壁に鐘の縄、隅に薪と毛布があった。公爵さまは暖炉を見てから、煙突の根元へ手を伸ばした。指先に煤がつく。


「煙が戻るな」


水番が帽子を握り直した。


「風向きによっては、少し。ですが、まだ使えますので」


「壁も」


「板を当てれば、春までは」


「使えることと、耐えさせることは違う」


小屋の中が静かになった。水番は、すぐには顔を上げなかった。


「わしらは、慣れておりますので」


「慣れなくていい」


公爵さまの声は低かった。怒っているわけではない。けれど、毅然として厳しい声だった。


「水を見る者が寒さと煙で目を曇らせれば、困るのは村だ。煙突と壁を直せ。寝台も替える」


「寝台まで、でございますか」


「水を見る者が寒さで目を曇らせたら、村が危うい。春までに直す。薪も増やせ」


口調は厳しいけれど、言っていることは、働き手への気遣いだった。代官が、急いで手元の書へ書きつける。

私は窓際の帳面を開いた。


日付。

水位。


数字は丁寧。けれど、数字の他にはなにもない記録。私には、この数字だけでは、何があったのかまで推し量れない。


「雨や雪の記録は、別にございますか」


水番が首を横に振った。


「わしが覚えております。雨が何日続いたかも、風がどちらから来たかも」


「オルドさんがいらっしゃるあいだは、それで足りますね」


「はい」


「では、次の方へは、何を渡しますか」


水番の指が、帽子の縁で止まった。長く続けた仕事ほど身体が覚える。だからこそ、次の人へ渡す形が要る。


「時刻、雨や雪の有無、風向き。それから、水の色もあるとよいかもしれません。上流で土が崩れれば、先に濁りますもの」


公爵さまが帳面を覗き込んだ。


「書式を作れるか」


「はい。屋敷へ戻りましたら」


「ここで使えるものにしてくれ。項目が多すぎれば続かない」


「承知いたしました」


水番が、帳面を両手で持ち直した。


「わしにも、書けるものでしょうか」


「もちろんです。今の字は、とても読みやすいですもの」


日付の列を指す。

太い指で書かれた数字は、一つずつ形が揃っていた。


「増やすのは四つほどです。まず一緒に試して、要らないものは減らしましょう」


水番の肩から力が抜けた。


「それなら」


「頼めるか」


公爵さまが尋ねる。


「はい。やってみます」


先ほどまでの我慢とは違う、前向きな返事だった。


使えることと、耐えさせることは違う。

その言葉が、なぜか耳に残った。




小屋の裏手には、低い堤が続いていた。乾いた石が並んでいるところの一か所だけ、下の土がえぐれている。公爵さまは泥へ靴を入れ、そこまで下りていった。代官が慌てて追う。私も進もうとすると、公爵さまが振り返った。


「エルナ。手を」


「足元は見えております」


「見えていても滑る」


差し出された手を取る。

公爵さまは、指先だけではなく、私の腕にも手を添えて支えてくれた。


一段、石を下りる。

足を置いた先で土が滑り、公爵さまの腕が私を引き寄せた。肩が触れそうな距離で止まる。外套越しにも、支える腕の強さと、すぐ近くにある身体の熱が分かった。


「だから言った」


「まだ、何も申し上げておりません」


「自分で下りられた、と言うところだった」


顔を読む腕まで上げていらっしゃる。


「……下りられました」


「知っている」


公爵さまは手を離さないまま言った。


「だが、俺が支えたい」


足元より先に、こちらの呼吸が危うくなった。代官も水番も、そろって川だけを見ている。よい所作である。


「ここは、昨年より下がっている」


公爵さまが言った。代官が石の際を確かめる。


「申し訳ございません。次の定例報告で」


「水は報告の日を待たない。明日、人を入れろ」


「街道門と重なります。王都からのお客さまが通る門でございますので、見栄えが…」


公爵さまは、代官を見た。

代官は、すぐに口を閉じた。


「まずここだ。春までに終える」


迷いがない。華やかな門でも、大きな建物でもない。冬の川辺で、まだ誰にも褒められない石を先に直す。公爵さまは、起きてから困ることより、まだ起きていない困りごとを見ている。


川は静かなまま流れていた。

その先にある春の水音を、この方はもう聞いているのだと思った。





視察を終えると、村の小さな詰所で茶が出された。干した草と蜜を入れた素朴な飲み物で、冷えた指へじんわりと熱が戻る。


公爵さまは、湯気の向こうで代官の報告を聞いていた。


小屋の修繕。

堤へ入れる人足。

雪解けの見張りを一人増やすこと。

工房の町まで警報を届ける順番。


必要なものはその場で決め、分からないことは期限を定めて調べさせる。曖昧なまま残すものがない。


「公爵さまは」


報告が途切れたところで、私は口を開いた。


「先の水音を、聞いていらっしゃるのですね」


代官がこちらを見た。

公爵さまは、杯へ伸ばしかけた手を止めた。


「まだ水が来ていないうちに、橋も、堤も、人の眠る場所もご覧になる。水が来てからでは、遅いから」


私は、持っていた杯の縁を一度なぞった。


「当主とは、こういうお仕事なのですね」


公爵さまは、しばらく何も言わなかった。


「そう見えたか」


「はい」


返事はすぐに出た。


「とても、尊敬いたします」


公爵さまは杯を持ち上げ、口をつけずにまた置いた。


「君にそう言われるのは、うれしい」


穏やかな声だった。


「来てくれて、よかった」


「お役に立てたなら」


「ああ、役に立った。帳面のことも、工房のことも。君がいなければ、俺は違うものを見落としていた。だが、それだけではない」


私は、杯から顔を上げた。


「君に見せたかった。君が何を見るのか、知りたかった」


一度、言葉を切る。


「君と一緒に、見たかった」


詰所の外で、薪を置く乾いた音がした。そのあとには、川の流れだけが残る。公爵さまは、返事を待っていた。


「私も」


杯を置く。


「公爵さまと来られて、よかったです」


公爵さまの眉間が、少しほどけた。


「そうか」


たった一言なのに、今日のどの決裁より大切そうに聞こえた。




帰りの馬車では、約束どおり、公爵さまが工房と村で見たことを話してくださった。私は文箱を膝に置き、順に書き留める。公爵さまは、私が書き終えるまで待ってから次へ進んだ。一通りまとめると、公爵さまが窓の外を見た。


「今回は、ここまでだ」


「領地の視察が、ですか」


「今回はここだけが。本来なら、領都も見せたかった」


「領都」


「幼少期は、そこで暮らしていた」


公爵さまが幼いころを過ごした場所。

その事実だけで、知らない街が急に近くなった。


「どのような街なのですか」


「川と市がある。春は馬市。夏は南から商人が来る。秋は穀物の荷で道が詰まる」


「冬は?」


「よく凍る。朝は、井戸の縁まで白くなる」


見たい。


今度は、勉強になるからでも、領地を把握するためでもなかった。

ただ、その井戸を見たいと思った。


「どの季節がいい」


尋ねられ、一度は仕事に適した季節を考えた。けれど、公爵さまが求めているのは、そういう答えではない。


「……冬の井戸を、見てみたいです」


「分かった」


「けれど、春の馬市も」


「春にも行く」


「夏の商人も、秋の荷も、気になります」


「では、季節ごとに行こう」


あまりに簡単に決められた。


「全部、でございますか」


「ああ。一つに減らす必要はない」


公爵さまの隣で、春から冬までの季節が並んだ。今日だけでは終わらない約束だった。

私は文箱を閉じた。


「君の故郷は」


公爵さまが、ふいに尋ねた。


「どの季節が、いちばんいい」


私は、膝掛けの房を指で整えた。答えが半拍おくれてしまったのは、そのせいだわ。


「春、でしょうか」


声も、きちんと出せている。


「白い花が咲きます。庭の南側に、古い木がございまして」


父の執務室の窓から見えた木。

妹が花を髪へ挿して笑った庭。

いつか私が座るのだと言われていた机。

その席には、今は別の人が座っている。


「見てみたい」


公爵さまは、何も知らずに言った。


「いずれ、君が育った場所へも行きたい。急な結婚だった。ヘイリー伯爵へも、きちんと挨拶を」


「そうでございますね」


膝掛けの房は、もう揃っている。

それでも私は、端からもう一度整えた。


「機会を見て、日程を調整いたしましょう。その前に王宮舞踏会の支度もございます。工房から届く縁飾りを仕立て屋へ。それから、今日の修繕費を――」


「エルナ」


名前を呼ばれ、指が止まった。


「はい」


「今の声は、違う」


「違う、とは」


「君が、自分のことを話さないときの声だ」


馬車の車輪が、小さな石を踏んだ。

文箱の金具が、ことりと鳴る。


公爵さまは、視線を逸らさない。


「故郷へ行きたくないのか」


「そのようなことでは」


「では、何がある」


答えを探した。


父。

母。

妹。

あの人。

家。

机。


どれも、今ここで口にすれば形が崩れそうだった。


「……何でもございません」


公爵さまの眉間に、深い線が戻る。


「何でもない声ではなかった」


言い切られ、逃げる言葉がなくなった。

けれど、公爵さまはそれ以上問いを重ねなかった。


「今は、言わなくていい」


川の音が、馬車のすぐ近くを流れている。


「話せるまで待つ。だが、何でもないとは思わない」


私は、膝掛けの房から手を離した。


「君が望まない場所へ、家の都合で連れていくことはしない」


「ですが、公爵家としてのご挨拶が」


どこか安堵する気持ちと、仕事を滞らせてはいけないという気持ちがせめぎ合う。


「急がない」


公爵さまは静かに言った。


「君が話せる日まで待つ」


いつものように、分かりました、と答えかけた。

けれど、その言葉も今は違う気がした。


「……ありがとうございます」


公爵さまが、掌を上にして手を差し出した。


「手を」


「馬車の中でございます」


「知っている」


「足元も、悪くございません」


「それも知っている」


公爵さまの手は、そのまま待っている。


「必要な介助ではございませんが」


「ああ」


公爵さまは、少しだけ指を動かした。


「俺が、手を取りたい」


私は、自分の手を重ねた。


公爵さまは、故郷のことをもう尋ねなかった。

私も、まだ話せなかった。


答えが出ないままでも、馬車は王都へ向かって進んだ。


川は少しずつ遠ざかっていく。

それでも、公爵さまの手は、屋敷へ着くまで離れなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ