23 霜の花を見に
公爵さまの三拍目は、もう止まらなくなった。
代わりに、止まるのは私の返事のほうになった。
舞踏の練習が日課になって、四日目。
一曲分を最後まで踊り終えても、公爵さまはつないだ手を離さなかった。
「明後日、霜花刺しの工房へ行く」
初日には床ばかり見ていた方が、今では私を見たまま、次の一歩を踏み出せる。
たいへんな上達である。
「日程が決まったのですね。では、工房で確認することを――」
「エルナ」
名前を呼ばれ、言葉が止まった。
「君は、行きたいか」
公爵夫人として必要か。
領地産業を知るうえで有益か。
そういう答えを求められていないことは、もう分かっている。
「……行きたいです」
「そうか」
「楽しみにしておりました」
「それは聞いた。今の君の返事が聞きたかった」
公爵さまの親指が、私の手の甲をゆっくりとなぞった。
「俺も、君と行きたい」
今度こそ、返事が出てこなかった。
工房へ行く。視察に同行する。
そこまでは、きちんと理解できる。
けれど、君と行きたい、と言われると、仕事の言葉だけでは受け取れなくなる。
「……はい」
ようやく答えると、公爵さまは満足したように手を離した。
離れた指先が、少しだけ惜しかった。
工房へ向かう朝は、よく晴れた。
玄関前の石畳には薄く霜が残り、朝日が当たったところから消えていく。馬車には厚い膝掛けと、手炉が二つ用意されていた。
「山側は冷える」
私が何か言うより先に、公爵さまが告げる。
「まだ、大丈夫とは申し上げておりません」
「言いそうな顔をしていた」
「顔に、そのような記載が?」
「ああ」
乗り口の前で、手を差し出される。
以前なら、作法だから、必要な介助だからと理由を並べてから取っていた。
今日は、素直に手を重ねた。
「冷たい」
「朝ですから」
「手炉を使え」
「はい」
すぐに答えると、公爵さまの眉間がわずかに緩んだ。
馬車が王都を離れる。石畳を打つ硬い音が、土の道を進むやわらかな音へ変わった。
途中、公爵さまは、雪解けに備えて橋脚を太くした橋や、道が閉じても物資が届くよう村ごとに分けた倉を教えてくださった。地図では一本の線でも、実際の道は雪や水で途切れる。公爵さまは、紙の上にはない距離を知っている。
「工房を、私に見せたいと仰いましたね」
「ああ」
「何を、いちばん見せたいのでしょう」
馬車が橋へ入り、車輪の音が少し高くなる。
「人だ」
「人」
「品だけなら屋敷にもある。帳簿も報告も、王都で読める」
公爵さまは、窓の外へ目を向けた。
「だが、刺す者の手は、そこへ行かなければ分からない」
注文が減っても、見習いを減らさなかった。一度失った手は、金を積んでもすぐには戻らない。
以前、同じ机で聞いた言葉を思い出す。
「君なら、品より先に人を見ると思った」
私は、温まった手炉の蓋へ指を置いた。
「見たいです」
言葉は、迷わず出た。
「工房も、職人の方々も。公爵さまが守ろうとしていらっしゃるものを、私も知りたいです」
公爵さまは、乱れてもいない膝掛けの端を直した。
「そうか」
声だけが、少し低くなっていた。
工房のある町は、古いというより静かだった。
低い屋根。白い壁。細い煙突。道端に干された糸の束。
冬の光の下ではどれも控えめに見える。けれど近づけば、戸口にも石段にも、長く人の手が触れてきた跡があった。
工房は町の奥にある。木の扉の取っ手は艶を帯び、石段の中央は幾人もの足でなだらかに削れていた。
馬車を降りるときも、公爵さまが手を差し出した。私は迷わず取った。
扉が開き、白髪の混じった職人頭が深く頭を下げる。その後ろでは、職人たちが針を置いて立ち上がった。
歓迎というより、値踏みを待つような緊張がある。公爵さまは、完成品を並べた卓と、奥へ寄せられた作業台を見た。
「取り繕わなくていい。夫人に、普段の仕事を見せたい」
職人頭の肩から、わずかに力が抜けた。
「差し支えなければ、作業中のものも拝見してよろしいでしょうか」
「完成品ではなく?」
「途中を見なければ、何を残すべきなのかも分からないと思うのです」
職人頭が、公爵さまを見る。
「いつも通りでいい」
その一言で、工房の中に針の音が戻った。案内された作業台には、灰白の布が張られていた。その上を、細い銀糸が走っている。正面から見ると、模様は布に沈んでいた。職人が台を窓辺へ傾ける。すると、銀糸が光を拾った。花びらの縁、細い枝、最後に小さな花の全体が浮かび上がる。
「……きれい」
考えるより先に、声が出た。
「光らせているのではないのですね」
「光らせすぎますと、霜ではなくなりますので」
布の角度が戻ると、花はまた目立たなくなる。
「光が来たときにだけ、見えるのですね」
派手に目を引くのではない。手に取った人が、近くで見つける花だ。
職人頭は、布を見たまま深く頷いた。
隣の台には、同じ花の試し刺しが並んでいた。一枚だけ、糸の揃いがわずかに乱れている。
その前にいた若い職人が、指を組み直した。
「こちらも見せていただける?」
「まだ、お見せできるものでは」
「今の仕事を拝見したいのです」
受け取った布には、小さな針穴がいくつも残っていた。一度進めた糸をほどき、刺し直した跡だ。
「何度も直したのですね」
「はい。まだ揃わなくて、時間もかかります」
「けれど、急いで先へ進まず、きちんと戻った。丁寧な仕事だと思います」
若い職人が、顔を上げた。
「遅くても、戻って直せます。雑なまま進めれば、あとで花全体が歪みますもの」
舞踏の三拍目を思い出したが、口には出さなかった。
「続きを拝見するのが楽しみです」
布を返すと、若い職人は今度は迷わず頭を下げた。
「はい」
先ほどより、よく通る返事だった。
職人頭が、完成品の入った箱を開いた。細い縁飾り。小さな房。手袋を留める紐。どれも美しい。けれど、長いこと出荷されていない品もある。
「近頃は、王都では好まれぬと聞きます。もっと大きな花を、もっと鮮やかな糸を。銀糸を減らし、値を下げたほうがよいとも」
「それでは、霜花刺しではなくなる」
公爵さまの声が低くなった。
「承知しております。ですが、注文がなければ若い者を残せませぬ。古くさい。その一言で、手にも取っていただけないのです」
私は、先ほどの布へ目を戻した。
何度もほどいた針穴。布を支えていた、傷のある指。
「……悲しいです」
「何が、悲しい」
公爵さまの問いは短かった。
曖昧な言葉のまま逃がさない問いだった。
「これほど美しいものが、見られもしないまま、古いという言葉だけで消えていくことが、です」
箱の縁へ置いた指に、木の硬さが伝わる。
「それに、悔しいです」
「君が?」
「はい。私が、です」
工房の針音が止まった。
「この花を知らない方がいることではありません。知らないままでも済む見せ方しか、これまでなかったことが悔しいのです」
私は、箱から細いリボンを一本取った。
「遠くから見るもので、華やかな品と競わせるのはやめましょう。手に取るものにします」
礼状に添える栞と、細いリボン。
まずは二つだけ。
数を限り、値は下げない。由来を記した札を添え、冬の茶会を開く方々へ少しずつ届ける。
先日、公爵さまと同じ紙の上で決めた案を伝えた。
「近くで、見つけていただくために」
職人頭が、箱の縁を握った。
「それは、わしらの手で作れるものでございましょうか」
「それをうかがいに参りました。刺し目を崩さず作れる数を、教えてください」
職人たちが、作業台を見ながら言葉を交わす。
「初めは、合わせて二十ほどなら。見習いには地の支度と枝の一部を。花は熟練の者が刺します」
「十分です」
「二十で、よろしいので?」
「二十だから、よいのです。待ってくださる方へ、一つずつ届けましょう」
公爵さまが、職人頭へ向き直った。
「見習いを減らすな。急がせるな。刺し目を崩して数を作るくらいなら、出さなくていい。その手を壊すな」
「しかし、領からの補いを、いつまでも」
「手を残すための時間だ」
公爵さまは、私を見た。
「そのあいだに、俺たちが道を作る」
俺たち。
同じ机に並んだ二人の字が、胸に浮かんだ。
「はい」
今度の返事には、迷いがなかった。
「奥方さま」
年配の女性職人が、古い図案帳を持ってきた。
丸い花。細い花。枝へ絡む花。
頁をめくるたび、少しずつ形が違う。
一枚の図案で、指が止まった。細い枝の先に二輪の花が向かい合い、一本の銀の線でつながっている。
「昔、婚礼の手袋や袖口へ刺した図案でございます」
「婚礼の」
「手を重ねたとき、近くにいる方だけが気づくように、と」
先日決めた衣装が浮かぶ。灰にも深い青にも見える布。その袖口へ入れる霜花刺し。公爵さまが隣から図案帳を覗き込み、二輪の花を指した。
「これがいい。君の袖と、俺の袖に」
工房の皆さまが、一斉に手元へ目を落とした。
「旦那さまのお召し物にも?」
「できるか。無理なら要らない」
女性職人は図案を確かめた。
「この図案の見本として刺した細い縁が、二本残っております。長さを整え、仕立て屋さまと調整すれば、お使いいただけます」
「では、その二本を。新しく急がせるのはやめましょう」
「承知いたしました」
私は、図案へ視線を戻した。
「公爵さまは、なぜこちらを?」
「君が、きれいだと言った花だからだ」
公爵さまの指が、二輪をつなぐ線へ移る。
「君が選んだものを、俺も身につけたい」
工房から、とうとう針の音まで消えた。
私は、向かい合う二輪の花を見た。
「私も、この花がよいです」
公爵さまの目元が、わずかに和らいだ。
「そうか」
工房を出るころには、入ったときの張りつめた空気は残っていなかった。若い職人は試し刺しの台を窓へ戻し、年配の女性職人は婚礼の図案を写す紙を選んでいる。
「奥方さま。また、お越しいただけますでしょうか」
職人頭に尋ねられ、私はすぐに答えた。
「ええ。参ります。あの花の続きを、見たいですから」
若い職人が、まっすぐ頭を下げた。
扉の外には、冬の空気が待っていた。
石段には、まだ霜が残っている。
公爵さまが差し出した手を取り、二段を下りる。平らな道へ出ても、つないだ指は離れなかった。
公爵さまが離さないのか。
私が離していないのか。
見れば、私の指も、きちんと公爵さまの手を握っている。
「石段は、もう終わりました」
「ああ。手を離すか」
作法でも、介助でもない。
今度は、私が決める番だった。
「このままで、お願いいたします」
公爵さまの指が、私の手を包み直した。
「分かった」
町の人がこちらへ頭を下げる。けれど、もう手を離す理由にはならなかった。
馬車へ戻り、忘れないうちに書き留めようと文箱を開きかけた。
公爵さまの手が、その蓋を押さえる。
「道が悪くて揺れる。あとで俺が話す」
「公爵さまが?」
「ああ。同じものを見た」
私は、文箱から手を離した。
「では、あとで一緒にまとめましょう」
公爵さまは頷いた。
馬車が動き出す。けれど、王都へ戻る道とは違う方向へ曲がった。窓の外に、細い川が見える。冬の光を受けて、水面が白く揺れていた。
「こちらは」
「もう一か所、寄る」
公爵さまは、流れの先を見た。
「君に、見せたいものがある」
また、その言葉だった。
けれど今度は、返事に時間はかからなかった。
「はい」
私は文箱を閉じたまま、窓の外を見た。
霜の花を見に来た旅は、花だけでは終わらないらしい。




