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22/33

22 同じ拍で

前回、20話と21話を同時刻に投稿してしまいました。

読み飛ばしに、ご注意ください。

公爵さまの手が、私の手を取った。


大きく、熱のある手だった。

先ほどまで布の端を整えていた指が、今は私の指を慎重に包んでいる。


「まず、構えからでよいのか」


「はい。左手は、そのままで。肩の力を、もう少し抜いてくださいませ」


「抜いている」


「抜けておりません」


公爵さまは真面目に頷き、なぜか先ほどより肩を強張らせた。


あら。

力を抜こうとなさるほど、力が入るらしい。


壁際では、仕立て屋が控えを胸に抱き、ギルバートが家具の位置を確かめる顔をしている。ミナは布見本を抱えたまま、祈るように指を組んでいた。


誰も口は出さない。

けれど、誰もがこちらを見ている。


「それから、右手を」


「どこへ」


「私の腰へ」


公爵さまの手が動き、腰から半掌ほど離れたところで止まった。


「公爵さま。そこでは支えになりません」


「近すぎないか」


「舞踏は、このくらい近づくものです」


「このくらい」


確認するように繰り返した次の瞬間、腰へ手が添えられ、身体が半歩ぶん引き寄せられた。


近い。


「あの、公爵さま」


「近くと言った」


「程度というものがございます」


「なら、君が決めてくれ」


腰に置かれた手はそのままに、公爵さまが私を見る。


「君が踊りやすい距離を」


本来なら、実に分かりやすい確認である。

けれど、自分の腰にある手を基準に測るとなると、急に難しくなる。


「……ほんの少しだけ、離してくださいませ」


公爵さまの手が緩んだ。

ほんの、わずかに。


「このくらいか」


「はい」


「嫌なら言え」


低い声が、すぐ近くへ落ちた。


「嫌ではございません」


考えるより先に答えていた。


腰に触れる指が、布越しにわずかに動く。


「なら、このままにする」


困るはずなのに、離してほしいとは思わなかった。


「では、足運びを。左から、三拍で一つです。一、二、三」


公爵さまが頷く。


一歩。

二歩。


三歩目の手前で、ぴたりと止まった。

裾だけが遅れて揺れ、二人のあいだへ落ちる。


「公爵さま?」


「踏む」


「まだ踏まれておりません」


「踏みそうだった」


危険を察して止まったらしい。

橋や堤を守る判断なら申し分ない。舞踏では、少し困る。


「足が近づいても、私が合わせますから」


「君が避けるのか」


「お互いに合わせるのです」


公爵さまの眉間に皺が寄った。


「俺が踏みそうになった足を、君が避ける。それでは、君ばかりが合わせる」


返す言葉が見つからなかった。


公爵さまは一度だけ足元を見て、それから私へ視線を戻した。


「俺が覚える。もう一度だ」


今度は止まらなかった。

ただし、公爵さまは床から目を離さない。

私までつられて足元を見れば、舞踏というより、二人で床板を検めているようだった。


「公爵さま。私を見てください」


すぐに灰青の視線が上がる。


正面から見つめられると、いつもより整えられた髪も、こちらの言葉を一つも逃すまいとする表情も、よく見えた。


「見た」


「そのまま、拍を」


「一、二、三」


一歩、二歩。

三歩目が、わずかに遅れる。


もう一度。

今度は二拍目で止まった。


「どうなさいました」


公爵さまは、つないだ手を見てから、また私を見た。


「君を見ていると、数が消える」


布見本の向こうで、ミナの肩が揺れた。

私は公爵さまの肩越しに壁を見る。壁は静かで、たいへん頼もしい。


「では、私の肩をご覧ください。動きが分かりますから」


「君は、私を見ろと言った」


「舞踏の一般論としてです」


「俺は、君と踊る」


低い声に、言葉を重ね損ねた。


公爵さまは私の手を取り直す。

先ほどより、指の位置が確かだった。


「君を見て踊れるようになる」


「……そうでございますか」


「そうする」


すでに決定事項らしい。


「では、数は私が」


「いや。君が先に動くと、俺はついていくだけになる」


腰の手が、私を支え直す。


「次は俺が合図を出す。先回りせずに、一度、任せてくれ」


先回り。


私は、相手が困る前に道を空ける。言葉になる前に必要なものを揃え、遅れる前に手を差し出す。

長く身についた癖は、舞踏の数歩でも顔を出すらしい。


「転びましたら」


「転ばせない」


「裾を踏まれましたら」


「踏まない」


「先ほどは、踏みそうだと」


「だから覚える」


公爵さまは少しも退かなかった。


「俺に任せてくれ」


たった数歩のことなのに、その言葉は足運びより難しく聞こえた。


腰にある手は、強すぎない。けれど、もう浮いてもいない。


「……分かりました」


「任せる、と言ってくれ」


頬へ熱が集まった。

こういうことを、皆の前で言わせるものだろうか。


ミナは布の陰に隠れ、ギルバートは小卓の書簡箱を動かし、仕立て屋は削る必要のない鉛筆を削っている。


全員が、見ていないふりをしていた。


「公爵さまに、お任せします」


「ああ」


今度は、どちらも数えなかった。


公爵さまの足が動く。

腰の手が、次の方向を先に教える。

私は考える前に一歩を出した。


二歩。

三歩。


止まらない。


次の一歩で先へ回ろうとした私を、公爵さまの手が留めた。


「まだだ」


「はい」


「今」


支えられたまま向きが変わる。

裾が円を描き、遅れて足元へ戻った。


思ったより速い。

けれど、怖くはない。


最後の位置へ戻ったとき、私は公爵さまの肩を、教本どおりより少し強くつかんでいた。


「……できましたね」


「ああ」


公爵さまは、すぐには手を離さなかった。

私も、離してくださいとは言わなかった。


「公爵さまは、踊れないわけではないのですね」


「踊れないとは言っていない」


「必要なら踊る、と」


「君と踊ったことがなかった」


「それは、皆さま同じでは」


「同じではない」


腰の手が離れる。

そのことを少し物足りなく思った自分には、気づかなかったことにした。


「音があれば、もう少しましだ」


「では、音楽室へ参りましょう」


返事は早かった。


音楽室には、午後の光がまだ残っていた。


壁際の台には、晩餐会の夜に公爵さまが弾いた、飴色のバイオリンが置かれている。


『冬夜の踊り』。


公爵さまは迷わず楽器を取り、弓を構えた。

舞踏のときのためらいはない。


私はピアノの前へ座り、低い和音を一つ鳴らした。

呼吸を合わせるための音。


弓が動く。


最初の一音は少し硬い。

けれど、止まらない。

二巡り目で音が伸び、三巡り目には、曲が自分で前へ進み始めた。


私は伴奏を重ねる。

急かさず、遅れず、公爵さまの音が戻れる場所を下から支える。


一、二、三。

一、二、三。


さきほど消えた拍が、部屋いっぱいに満ちていく。


公爵さまの身体には、きちんと音がある。

ただ、私と向かい合うと、それを忘れる。


それは、どう受け取ればよいのだろう。


最後の音がほどけると、公爵さまは弓を下ろした。


「戻ろう」


「もう一度、踊るのですか」


「音を思い出せと言ったのは君だ」


「はい」


「思い出した。今度は止まらない」


宣言だった。


公爵さまは楽器を戻し、扉を開けたあと、当然のように手を差し出した。

音楽室から東棟までは、手を借りるほど遠くない。


それでも私は、その手を取った。


東棟へ戻ると、居間の中央は空けられたままだった。


ミナが茶器を運び、ギルバートは小卓に置かれた書簡へ目を落としている。

黒に近い青の封蝋。外務の印だった。


「旦那さま。お急ぎのものが一通ございます」


「使節団の先触れか」


「名簿の差し替えにございます。本日中にご確認いただければ」


公爵さまは、差し出された書簡を受け取らなかった。


「一曲のあとだ」


ギルバートが深く礼をする。


「かしこまりました」


公爵さまが私へ向き直る。


「待たせた」


待っていたつもりはなかった。

けれど、その言葉を否定する気にもならなかった。


手を重ねる。

腰へ手が来る。

今度は、どちらも迷わない。


「数えますか」


「数えない」


「では、何を」


「君を見る」


あまりにまっすぐで、今度は私の一歩が遅れた。


「エルナ」


「はい」


「今だ」


足が動く。


実際には、何も鳴っていない。

暖炉の火、衣擦れ、遠い廊下の足音。

それでも、二人のあいだには同じ拍が残っていた。


一、二、三。


公爵さまが進み、私が下がる。

次の拍で向きを変え、裾が遅れて広がる。


先回りをしない。

腰の手が示すまで、待つ。


待っても、置いていかれない。


そう気づいた瞬間、肩の力が抜けた。


公爵さまの動きも変わる。

私が合わせるのを待つのではなく、次の場所へ迷いなく導いてくれる。

強引ではない。けれど、迷わせもしない。


回る。

戻る。

もう一度。


三拍目で、公爵さまの口元が少しだけほどけた。


それを見た私の足が、半歩遅れる。


「エルナ」


「申し訳ございません」


「俺を見ていると、数が消えるか」


先ほどの言葉を返された。


「……少しだけ」


今度こそ、公爵さまが笑った。


短い一巡の終わりで、二人の足がそろう。

途中で止まったのではない。決めたところまで、一緒に進み切った。


「どうだ」


「最初より、ずっとよくなりました」


「そうではない」


公爵さまは、つないだ手を離さない。


「楽しかったか」


有意義でした。

王宮舞踏会へ向けた確認としては順調です。

明日以降の課題も明確になりました。


使い慣れた答えが頭に並ぶ。

けれど、どれも今は違う気がした。


「……楽しかったです」


「そうか」


低い声が、先ほどの音楽より近く響く。


「俺もだ」


腰の手が離れる。

それでも、つないだ手は残った。


「明日も教えてくれ」


明日の予定を頭に並べかけて、やめた。

午前の執務も、工房資料も、外務の照会も、今は関係ない。


「はい」


それだけ答えてから、もう一つ付け加えた。


「私も、明日も踊りたいです」


公爵さまの指が、私の手を包み直す。


「では、決まりだ」


紙にも帳面にも書かれていない予定が、一つ増えた。

けれど、忘れる心配はなかった。

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