22 同じ拍で
前回、20話と21話を同時刻に投稿してしまいました。
読み飛ばしに、ご注意ください。
公爵さまの手が、私の手を取った。
大きく、熱のある手だった。
先ほどまで布の端を整えていた指が、今は私の指を慎重に包んでいる。
「まず、構えからでよいのか」
「はい。左手は、そのままで。肩の力を、もう少し抜いてくださいませ」
「抜いている」
「抜けておりません」
公爵さまは真面目に頷き、なぜか先ほどより肩を強張らせた。
あら。
力を抜こうとなさるほど、力が入るらしい。
壁際では、仕立て屋が控えを胸に抱き、ギルバートが家具の位置を確かめる顔をしている。ミナは布見本を抱えたまま、祈るように指を組んでいた。
誰も口は出さない。
けれど、誰もがこちらを見ている。
「それから、右手を」
「どこへ」
「私の腰へ」
公爵さまの手が動き、腰から半掌ほど離れたところで止まった。
「公爵さま。そこでは支えになりません」
「近すぎないか」
「舞踏は、このくらい近づくものです」
「このくらい」
確認するように繰り返した次の瞬間、腰へ手が添えられ、身体が半歩ぶん引き寄せられた。
近い。
「あの、公爵さま」
「近くと言った」
「程度というものがございます」
「なら、君が決めてくれ」
腰に置かれた手はそのままに、公爵さまが私を見る。
「君が踊りやすい距離を」
本来なら、実に分かりやすい確認である。
けれど、自分の腰にある手を基準に測るとなると、急に難しくなる。
「……ほんの少しだけ、離してくださいませ」
公爵さまの手が緩んだ。
ほんの、わずかに。
「このくらいか」
「はい」
「嫌なら言え」
低い声が、すぐ近くへ落ちた。
「嫌ではございません」
考えるより先に答えていた。
腰に触れる指が、布越しにわずかに動く。
「なら、このままにする」
困るはずなのに、離してほしいとは思わなかった。
「では、足運びを。左から、三拍で一つです。一、二、三」
公爵さまが頷く。
一歩。
二歩。
三歩目の手前で、ぴたりと止まった。
裾だけが遅れて揺れ、二人のあいだへ落ちる。
「公爵さま?」
「踏む」
「まだ踏まれておりません」
「踏みそうだった」
危険を察して止まったらしい。
橋や堤を守る判断なら申し分ない。舞踏では、少し困る。
「足が近づいても、私が合わせますから」
「君が避けるのか」
「お互いに合わせるのです」
公爵さまの眉間に皺が寄った。
「俺が踏みそうになった足を、君が避ける。それでは、君ばかりが合わせる」
返す言葉が見つからなかった。
公爵さまは一度だけ足元を見て、それから私へ視線を戻した。
「俺が覚える。もう一度だ」
今度は止まらなかった。
ただし、公爵さまは床から目を離さない。
私までつられて足元を見れば、舞踏というより、二人で床板を検めているようだった。
「公爵さま。私を見てください」
すぐに灰青の視線が上がる。
正面から見つめられると、いつもより整えられた髪も、こちらの言葉を一つも逃すまいとする表情も、よく見えた。
「見た」
「そのまま、拍を」
「一、二、三」
一歩、二歩。
三歩目が、わずかに遅れる。
もう一度。
今度は二拍目で止まった。
「どうなさいました」
公爵さまは、つないだ手を見てから、また私を見た。
「君を見ていると、数が消える」
布見本の向こうで、ミナの肩が揺れた。
私は公爵さまの肩越しに壁を見る。壁は静かで、たいへん頼もしい。
「では、私の肩をご覧ください。動きが分かりますから」
「君は、私を見ろと言った」
「舞踏の一般論としてです」
「俺は、君と踊る」
低い声に、言葉を重ね損ねた。
公爵さまは私の手を取り直す。
先ほどより、指の位置が確かだった。
「君を見て踊れるようになる」
「……そうでございますか」
「そうする」
すでに決定事項らしい。
「では、数は私が」
「いや。君が先に動くと、俺はついていくだけになる」
腰の手が、私を支え直す。
「次は俺が合図を出す。先回りせずに、一度、任せてくれ」
先回り。
私は、相手が困る前に道を空ける。言葉になる前に必要なものを揃え、遅れる前に手を差し出す。
長く身についた癖は、舞踏の数歩でも顔を出すらしい。
「転びましたら」
「転ばせない」
「裾を踏まれましたら」
「踏まない」
「先ほどは、踏みそうだと」
「だから覚える」
公爵さまは少しも退かなかった。
「俺に任せてくれ」
たった数歩のことなのに、その言葉は足運びより難しく聞こえた。
腰にある手は、強すぎない。けれど、もう浮いてもいない。
「……分かりました」
「任せる、と言ってくれ」
頬へ熱が集まった。
こういうことを、皆の前で言わせるものだろうか。
ミナは布の陰に隠れ、ギルバートは小卓の書簡箱を動かし、仕立て屋は削る必要のない鉛筆を削っている。
全員が、見ていないふりをしていた。
「公爵さまに、お任せします」
「ああ」
今度は、どちらも数えなかった。
公爵さまの足が動く。
腰の手が、次の方向を先に教える。
私は考える前に一歩を出した。
二歩。
三歩。
止まらない。
次の一歩で先へ回ろうとした私を、公爵さまの手が留めた。
「まだだ」
「はい」
「今」
支えられたまま向きが変わる。
裾が円を描き、遅れて足元へ戻った。
思ったより速い。
けれど、怖くはない。
最後の位置へ戻ったとき、私は公爵さまの肩を、教本どおりより少し強くつかんでいた。
「……できましたね」
「ああ」
公爵さまは、すぐには手を離さなかった。
私も、離してくださいとは言わなかった。
「公爵さまは、踊れないわけではないのですね」
「踊れないとは言っていない」
「必要なら踊る、と」
「君と踊ったことがなかった」
「それは、皆さま同じでは」
「同じではない」
腰の手が離れる。
そのことを少し物足りなく思った自分には、気づかなかったことにした。
「音があれば、もう少しましだ」
「では、音楽室へ参りましょう」
返事は早かった。
音楽室には、午後の光がまだ残っていた。
壁際の台には、晩餐会の夜に公爵さまが弾いた、飴色のバイオリンが置かれている。
『冬夜の踊り』。
公爵さまは迷わず楽器を取り、弓を構えた。
舞踏のときのためらいはない。
私はピアノの前へ座り、低い和音を一つ鳴らした。
呼吸を合わせるための音。
弓が動く。
最初の一音は少し硬い。
けれど、止まらない。
二巡り目で音が伸び、三巡り目には、曲が自分で前へ進み始めた。
私は伴奏を重ねる。
急かさず、遅れず、公爵さまの音が戻れる場所を下から支える。
一、二、三。
一、二、三。
さきほど消えた拍が、部屋いっぱいに満ちていく。
公爵さまの身体には、きちんと音がある。
ただ、私と向かい合うと、それを忘れる。
それは、どう受け取ればよいのだろう。
最後の音がほどけると、公爵さまは弓を下ろした。
「戻ろう」
「もう一度、踊るのですか」
「音を思い出せと言ったのは君だ」
「はい」
「思い出した。今度は止まらない」
宣言だった。
公爵さまは楽器を戻し、扉を開けたあと、当然のように手を差し出した。
音楽室から東棟までは、手を借りるほど遠くない。
それでも私は、その手を取った。
東棟へ戻ると、居間の中央は空けられたままだった。
ミナが茶器を運び、ギルバートは小卓に置かれた書簡へ目を落としている。
黒に近い青の封蝋。外務の印だった。
「旦那さま。お急ぎのものが一通ございます」
「使節団の先触れか」
「名簿の差し替えにございます。本日中にご確認いただければ」
公爵さまは、差し出された書簡を受け取らなかった。
「一曲のあとだ」
ギルバートが深く礼をする。
「かしこまりました」
公爵さまが私へ向き直る。
「待たせた」
待っていたつもりはなかった。
けれど、その言葉を否定する気にもならなかった。
手を重ねる。
腰へ手が来る。
今度は、どちらも迷わない。
「数えますか」
「数えない」
「では、何を」
「君を見る」
あまりにまっすぐで、今度は私の一歩が遅れた。
「エルナ」
「はい」
「今だ」
足が動く。
実際には、何も鳴っていない。
暖炉の火、衣擦れ、遠い廊下の足音。
それでも、二人のあいだには同じ拍が残っていた。
一、二、三。
公爵さまが進み、私が下がる。
次の拍で向きを変え、裾が遅れて広がる。
先回りをしない。
腰の手が示すまで、待つ。
待っても、置いていかれない。
そう気づいた瞬間、肩の力が抜けた。
公爵さまの動きも変わる。
私が合わせるのを待つのではなく、次の場所へ迷いなく導いてくれる。
強引ではない。けれど、迷わせもしない。
回る。
戻る。
もう一度。
三拍目で、公爵さまの口元が少しだけほどけた。
それを見た私の足が、半歩遅れる。
「エルナ」
「申し訳ございません」
「俺を見ていると、数が消えるか」
先ほどの言葉を返された。
「……少しだけ」
今度こそ、公爵さまが笑った。
短い一巡の終わりで、二人の足がそろう。
途中で止まったのではない。決めたところまで、一緒に進み切った。
「どうだ」
「最初より、ずっとよくなりました」
「そうではない」
公爵さまは、つないだ手を離さない。
「楽しかったか」
有意義でした。
王宮舞踏会へ向けた確認としては順調です。
明日以降の課題も明確になりました。
使い慣れた答えが頭に並ぶ。
けれど、どれも今は違う気がした。
「……楽しかったです」
「そうか」
低い声が、先ほどの音楽より近く響く。
「俺もだ」
腰の手が離れる。
それでも、つないだ手は残った。
「明日も教えてくれ」
明日の予定を頭に並べかけて、やめた。
午前の執務も、工房資料も、外務の照会も、今は関係ない。
「はい」
それだけ答えてから、もう一つ付け加えた。
「私も、明日も踊りたいです」
公爵さまの指が、私の手を包み直す。
「では、決まりだ」
紙にも帳面にも書かれていない予定が、一つ増えた。
けれど、忘れる心配はなかった。




