21 並ぶための支度
20話と21話を同時刻に投稿してしまいました。
読み飛ばしに、ご注意ください。
翌朝、王宮から使いが来た。
その知らせを受けたとき、私は東棟の居間で、昨日の控えを開いていた。
試作、二種。
数を限る。
値は下げない。
その脇に、私の字で。
近くで、見つけてもらう。
公爵さまの字と、私の字が、同じ紙の上に並んでいる。
昨日、工房へ行くのが「楽しみです」と口にした。
朝になれば、少し気恥ずかしくなるかと思っていたけれど、取り消したいとは思わなかった。
うん。
よい傾向である。
何の傾向かは、まだ分類しないことにする。
「奥方さま」
ミナが、扉の内側で足をそろえた。
「王宮より、お使いでございます。旦那さま宛てと、奥方さま宛てに」
差し出された銀盆には、封蝋の押された書簡が一通あった。
もう一通は公爵さまへ届けられているようだ。
王宮の封蝋。
何度も見た印だ。王妃さまのお側にいた頃は、受け取る側ではなく、整えて差し出す側だった。紙質、折り目、封蝋の厚み。ひと目で、背筋が昔の位置へ戻る。
「ありがとう」
「王妃さまからでございますか?」
ミナの声が、ほんの少し高い。
「王宮式部からね」
「あ……そうなのですね」
口元が、分かりやすく下がった。
「けれど、王妃さまのお目に触れた文かもしれないわ」
「はい!」
今度は返事まで明るい。
――本日のミナ、王宮の封蝋にたいへん弱し。
心の帳面に一行つけて、私は自分宛ての封を切った。
中身は、王宮舞踏会への正式な招待状だった。
毎年、冬の初めに催される大きな舞踏会。
ただ華やかなだけの夜ではない。誰が誰と話し、誰がどの家と距離を縮め、誰がどこで沈黙を選んだか。それだけで、翌日には王都の見えない地図が塗り替わる。
長く働いた場所へ、今度は招かれる側として戻る。
王妃さまの半歩うしろではなく、公爵さまの隣に立つ者として。
招待客の範囲を思えば、ヘイリー伯爵家の名も頭に浮かんだ。
けれど、私はそれ以上考えるのをやめ、手元の招待状に意識を戻す。
「舞踏会でございますか?」
「ええ」
ミナはもう、衣装箪笥の中身まで思い浮かべている顔だった。
「まずは公爵さまへお知らせしましょう」
「はい。返書のお支度もいたします」
言うなり、書簡箱と封蝋まで抱えた。
――本日のミナ、封蝋には弱いが、支度は早い。
たいへん頼もしいことである。
執務室では、公爵さまが、ご自分宛ての書簡をすでに開いていた。
私が入ると、顔がこちらへ上がる。
以前なら、その視線はすぐ書類へ戻っていた。近頃は、私が話し始めるまで、きちんと留まる。
昨日、同じ机の端に座ったせいか。
それとも、私が勝手にそう感じているだけか。
いずれにしても、確認を急ぐ案件ではない。
「王宮舞踏会への招待状が参りました」
「ああ」
公爵さまは、私の手元の封書を見た。
「君も出る」
「はい。公爵夫人として――」
「俺と出る」
用意していた言葉が、その先へ進めなくなった。
公爵さまは、何事もなかったようにギルバートを呼ぶ。
「仕立ての者を。今日中に」
「かしこまりました」
決まるのが早い。
たいへん早い。
「あの、公爵さま。王宮舞踏会でしたら、手持ちの衣装でも」
「だめだ」
「だめ、でございますか」
「今回は、遅れない」
今回は。
晩餐会の衣装のことを仰っているのだろう。あの頃、宝石ばかりが山のように届いたことを思い出す。鼈甲の櫛はあの日、髪へ挿した。銀のしおりは、昨日も同じ机の上にあった。
「前回は、急でございましたから」
「違う」
公爵さまは、言葉を選ぶように一度だけ間を置いた。
「俺が、君のことを知らなさすぎた。何を着るのかも、何が好きなのかも」
低い声が、机の上をまっすぐ渡ってくる。
「今回は、最初から知っていたい」
返事の置き場所が、急に狭くなった。
私は指先で招待状の角をそろえる。すでにそろっている角を、もう一度。
「……ありがとうございます。公爵家の名にふさわしいものを」
「それは仕立て屋が分かっている」
「では、王宮の場に」
「それも、君が外すことはないだろう」
差し出した実務上の理由が、二つともきれいに返された。
公爵さまは、こちらを見たまま言った。
「君が着たいものを選べ」
「わたくしが、着たいもの」
「ああ」
「ですが、私の好みだけで決めるわけには」
「昨日は、楽しみだと言った」
しおりの石を見られたときより、今のほうが落ち着かない。
公爵さまは、昨日の私の言葉を、きちんと覚えている。
「今日も、君の言葉で選べ」
――本日の公爵さま、言葉の差し戻しも早い。
書類なら「再提出」と印を押されたようなものである。
心の帳面へ書くには、少々不敬なので保留とする。
「承知いたしました」
「承知ではなく」
今度は、返事そのものが差し戻された。
公爵さまの口元が、ごくわずかに緩んだように見えた。
「選んでくれ」
「……はい」
ようやく返すと、公爵さまは頷いた。
「俺は、君に合わせる」
「公爵さまが、わたくしに?」
「君と並ぶための衣装だ」
今度は、言葉を公務の棚へ戻すこともできなかった。
私は、招待状の角から手を離した。
これ以上そろえれば、紙のほうが困る。
仕立ての者は、その日の午後、本当にやって来た。
東棟の居間に、布見本が次々と広げられる。
絹。薄絹。光を含む織物。刺繍糸。リボン。小さな飾り金具。
布が一枚増えるたび、ミナが半歩ずつ前へ出た。
「ミナ」
「はいっ」
「あと二枚で、仕立て屋さんのお膝に乗るわ」
ミナは音もなく一歩下がった。
「申し訳ございません」
「気持ちは分かるわ」
仕立て屋は笑いをこらえるように口元を整えた。落ち着いた年配の女性で、物腰は柔らかく、視線は鋭い。人を飾り立てるのではなく、どの場で、どう動き、どう見えるかを考える職人の目だった。
よい方だ。
「王宮の大広間は、中央と壁際で灯りが大きく違います。淡い石床でございますから、重い色は裾が沈み、軽い色は水晶灯に負けます。歩いたときに表情の出る布がよろしゅうございます」
「ええ。王妃さまのお近くでは、正面から強く光りすぎるものも避けたいですね」
「よくご存じで」
「以前、勤めておりましたので」
答えながら、私は並べられた布を見た。
いつもなら、まず場にふさわしい色を残し、次に動線と灯りを考え、最後に自分をそこへ当てはめる。
けれど今日は、着たいものを選べと言われている。
困った。
自分の好みというものは、役目より分類が難しい。
仕立て屋が三枚目の布を広げたとき、私の手は、見本の山の端にある一枚へ伸びていた。
光の向きで、灰にも、深い青にも見える。
派手ではない。けれど沈みもしない。冬の朝、まだ空と霜の境が曖昧な時刻のような色だった。
指先で触れると、布は軽く、なめらかだった。
「それだな」
公爵さまが言った。
「まだ、何も申し上げておりませんが」
「三度見た」
「三度」
「最初に並べたとき。仕立て屋が灯りの話をしたとき。今」
そこまで見られていたとは思わなかった。
頬のあたりだけが、居間の暖炉より一足先に温まる。
仕立て屋が、その布を大きく広げた。
「お好きでいらっしゃいますか?」
格式に合う。
王宮の灯りにも耐える。
王妃さまの御前で出すぎない。
理由はいくつも、すぐに並べられた。
けれど、公爵さまが待っている。
今日も、私の言葉で。
「……好きです」
言ってしまえば、思ったより短かった。
「そうか」
公爵さまの声が、少し柔らかくなる。
「知っていた」
「え?」
公爵さまの視線が、居間の小卓へ向いた。
朝の工房資料を押さえるため、銀のしおりを置いたままにしてある。花の透かし彫り。小さな石。
「昨日、落ち着く色だと言っていた」
「しおりの石と、この布は、まったく同じでは」
「よく似ている」
仕立て屋が、布を私の肩へ当てた。
「旦那さまの瞳のお色にも、よく似ておりますね」
言葉の行き先が、一度に増えた。
しおり。
布。
公爵さまの瞳。
そして、好き、と言ったばかりの私。
私は布目を確かめるふりをした。織りはたいへん細かい。今この場で確認する必要がないほど、たいへん細かい。
公爵さまが一歩近づき、仕立て屋の持つ布の端を取った。
肩から落ちかけた灰青を、まっすぐに整える。
指が私に触れたわけではない。
触れていないのに、その数寸ばかりの距離が、やけに正確に分かった。
公爵さまは、布と私を見比べた。
「やはり、似合う」
「公爵家の夫人として、落ち着きもございますし」
「また家の話に戻るのか」
だめだわ、見逃してくださらない。
「俺は、君に似合うと言っている」
喉が、返事の仕事を一時放棄した。
代わりに、指が布の端をつまむ。強く引けば皺になるので、ごく慎重に。
「……ありがとうございます」
今度は、それだけにした。
公爵さまは、満足したように布から手を離した。
「それがいい」
仕立て屋は、何も見ていない顔で控えへ印をつけた。
さすが、よい職人である。
「旦那さまは、一段深い紺を基調になさるとよろしいでしょう。奥方さまのお召し物には、その深い色を袖口と背の切り替えへ。旦那さまのお召し物には、こちらの灰青を襟元と袖へ」
「互いの色を、でございますか」
私が尋ねると、仕立て屋は二枚の布を隣り合わせた。
「はい。遠目には、それぞれのお召し物。近くで見れば、同じ組み合わせだと分かる程度に」
「近くで、見つけてもらう」
昨日、紙へ書いた言葉が、思いがけないところへ戻ってきた。
「まさに、そのように」
「それでいい」
公爵さまは迷わなかった。
「公爵さまのお好みも、もう少し」
「今、言った」
「え?」
「君に合わせるのが、俺の希望だ」
また、返事が実務へ逃げ損ねた。
私は二枚の布を見た。位置を直す必要などないのに、灰青と深い紺の端を、きっちり同じ高さへそろえる。
仕立て屋が、銀糸の束を取り出した。
「刺繍は、いかがいたしましょう」
私はいちばん細い糸へ触れた。
「霜花刺しを使えないでしょうか」
公爵さまがこちらを見る。
「新しく急がせるのではなく、すでに仕上がっている細い縁飾りがあれば。袖口の内側へ、ごく少しだけ。手を動かしたときに、花が見えるくらいに」
「工房へ確認する」
公爵さまはすぐに答えた。
「だが、無理はさせない」
「はい。なければ、今回は意匠だけを写しましょう」
職人の手を守ること。
近くで見つけてもらうこと。
昨日、同じ紙で決めたことが、今日の衣装へつながっていく。
仕立て屋の控えには、二人分の布と、銀の花が並んだ。
昨日は、同じ紙に二人の字。
今日は、同じ控えに二人の色。
公爵さまと並ぶということが、少しずつ形になっていく。
「仕上がりましたら、裾の動きも確認いたします」
仕立て屋が、採寸紐をまとめながら言った。
「歩くだけでなく、回ったところも拝見できれば」
「回る」
公爵さまの声が、わずかに硬くなった。
「舞踏会でございますから」
「そうか」
返事が、急に慎重である。
私は、公爵さまの横顔を見た。
「舞踏は、あまりお好きではございませんか」
「必要なら踊る」
必要なら。
たいへん、舞踏会向きとは言いがたい答えである。
「王宮舞踏会では、少なくとも一曲は」
「最初の一曲は、俺とだ」
話の向きが、思っていたより鋭くこちらへ返ってきた。
仕立て屋の鉛筆が紙の上で動きをやめて、ミナは布見本を抱え直し、ギルバートは視線を帳面へ落とした。
「もちろん、公爵夫妻として」
「そういう返事ではない」
今日は、本当に逃がしてくださらない。
公爵さまは、私の前へ半歩だけ進んだ。
「君は、俺と踊りたいか」
王宮で必要か。
公爵夫妻として正しいか。
社交上、どう見えるか。
使い慣れた答えは、どれも問われていなかった。
公爵さまは急かさない。
けれど、代わりの答えを用意してもくださらない。
私は、二枚の布を見た。
灰青と、深い紺。
近くで見れば、一組だと分かる色。
「……踊ってみたいです」
語尾が、少し頼りなくなった。
けれど、取り消したいとは思わなかった。
公爵さまの肩から、わずかに力が抜けた。
「俺もだ」
短い答えだった。
短いのに、布も糸もないところまで整えられてしまった気がする。
「では、仕上がりの日に、動きのご確認を」
仕立て屋が、ようやく鉛筆を動かした。
「いや」
公爵さまが言う。
「今からだ」
「今から、でございますか」
「最後に踊ったのが、いつか思い出せない」
それは、たいへん重要な情報だった。
「でしたら、なおさら、順を追って」
「君が教えてくれ」
公爵さまはギルバートへ顔を向けた。
「中央を空けろ」
「かしこまりました」
長椅子が壁際へ寄せられ、低い卓が運ばれていく。
ミナまで、たいへん手際よく布見本を抱えて下がった。
皆、こういうときだけ動きが早い。
公爵さまが、私へ手を差し出す。
「踊ってみたいと言っただろう」
「……はい」
「なら、まず一歩だ」
差し出された手と、空いた床を見比べる。
並ぶためには、衣装だけでは足りないらしい。
同じ方向へ進むには、まず、同じ拍を覚えなければならない。
私は、その手へ指先を伸ばした。




