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20/31

20 同じ机の端

書類。


その言葉で、私はすっかり、背筋を伸ばしてしまった。


書類である。


紙。

分類。

確認。

照合。


たいへん落ち着く響きだ。領地から届いた報告書の整理や、商人からの書簡の分類、収支の数字の確認なら、王宮でも、実家でも、似たことをしてきた。役に立てるかもしれない。


午後から執務室へうかがう約束をすると、公爵さまは、私室へはお入りにならないまま戻っていかれた。

わざわざ、書類のことを伝えるためだけに、こちらまでいらしたらしい。


たいへん、律儀なお方である。






執務室の扉の前で、ギルバートが礼をした。


「奥方さま。旦那さまがお待ちでございます」


「ありがとう」



公爵さまは、机の前に立っていた。

机の上には、いくつもの書類の束が積まれている。けれど、乱雑ではない。数字の脇には、照合を終えた印。返書を待つものには日付。差し戻すものには、短い理由が添えられている。どの紙にも、一度目を通しただけではない跡があった。きれいに、整っている。私が分類し直すところなど、ほとんどない。


「座ってくれ」


公爵さまが、机の脇に椅子を示した。


机の向かいではない。

同じ机の、端。


近い。


近い、けれど、同じ紙を見るには、とてもよい位置だった。向かい合えば、書類を渡すたびに腕を伸ばさなければならない。脇なら、二人で同じ行を追える。


そう。


仕事に、とてもよい。


私は、きちんと礼をして、椅子へ腰を下ろした。


「分類を、お手伝いすればよろしいのでしょうか」


「いや」


公爵さまは、三つの書類を机の中央へ置いた。


工房の収支。

職人についての報告。

商人からの書簡。


「分類は済んでいる」


「では」


「君なら、これをどう見る」


言われて、私は少しだけ目を見開いた。

整理してほしい、ではない。見るようにと、言われた。


私は、いちばん上の収支写しへ目を落とした。


「霜花刺しの工房ですね」


「ああ」


出荷された品の数は、前年より減っている。けれど、工房へ出された金額は、反対に増えていた。


「糸の値が上がったのでしょうか」


「違う」


公爵さまの指が、職人の報告へ移った。


「見習いを減らさなかった」


私は、顔を上げた。


「注文が減っているのに、でございますか」


「注文が戻ってから人を集めても、遅い。刺す手を失えば、金では戻せない」


公爵さまは、淡々と言った。


「この冬は、領から補う」


数字の増え方には、理由があった。


見落としていたのではない。

分かったうえで、増やしていたのだ。


私は、もう一度、職人の報告へ目を落とした。名前が並んでいる。熟練の者。若い者。まだ見習いの者。


紙の上の支出ではなく。人の手を、残すために。

胸の奥が、少し静かになった。


「こちらの商会は」


次の書簡を開く。

王都で売るならば、銀糸を減らし、模様を大きくし、値を下げるべきだと記されている。

書簡の余白には、公爵さまの字で、短く一語。


不可。


「お断りになるのですね」


「ああ」


「なぜ、と申し上げても?」


公爵さまの眉間に、わずかに力が入った。


「それでは、霜花刺しではなくなる」


短い答えだった。けれど、十分だった。

銀糸を減らし、大きな花にして、遠くからでも目立つものにする。

たしかに、それなら王都の店先では目を引くかもしれない。


けれど。


「私も、そう思います」


公爵さまが、こちらを見た。


「そうか」


「はい。あの刺繍は、大きく見せるためのものではありません」


私は、晩餐会の席札を思い出した。


客の指先。

ほどかれた細いリボン。

光を受けて、初めて浮かんだ霜の花。


「晩餐会で、お客さま方は、最初からあの刺繍をご覧になっていたわけではありません」


「では、なぜ気づいた」


「ほどいたからです」


公爵さまが、わずかに目を細めた。


「手に取って、指で触れて、近くで見た。それで初めて、花があると気づかれたのです」


私は、紙の端へ指を置いた。


「遠くから見せるのではなく、近くで見つけてもらう品なのだと思います」


公爵さまは、何も言わなかった。

けれど、視線は私から逸れなかった。


「続けてくれ」


その声が、低く落ちた。


「たとえば、礼状に添える栞。扇の房飾り。手袋を留める細い紐。冬の茶会で、菓子包みに結ぶリボン。大きな布で競うのではなく、手元に残る小さなものにすれば、あの繊細さが――」


「四つは多い」


私は、口を止めた。


「多い、でございますか」


「ああ」


公爵さまは、職人の報告を私のほうへ寄せた。


「熟練の手は少ない。見習いを含めても、同時に品を増やせば、刺し目が崩れる」


言われて、職人の人数を見直す。

その通りだった。

使い道を思いつくことと、実際に作れることは違う。


「では、まず二つだけに」


私は、先ほど挙げたものを、頭の中で並べ直した。


「礼状に添える栞と、細いリボン。どちらも今の幅を大きく変えずに作れます」


「数は絞る」


「はい。広く売り出すのではなく、まずは冬の茶会を開かれる方々へ。由来を記した小さな札を添えて、見本として」


「値は下げない」


公爵さまが言った。


「はい」


私は頷いた。


「安くすれば、繊細であることが、弱みに見えてしまいます」


公爵さまは、ペンを取った。


試作、二種。

数を限る。

値は下げない。


その脇へ、私は小さく書き添えた。


近くで、見つけてもらう。


公爵さまの字と、私の字が、同じ紙の上に並んだ。


向かい合った書類ではなく。

同じ向きから見た、同じ一枚に。


工房の報告へ目印をつけようと、私は収支写しに仮に挟んでいたしおりを抜いた。


薄い銀のしおり。

花の透かし彫りに、小さな石がひとつ。


公爵さまの視線が、その上で止まった。


「使っているのか」


「はい。紙を傷めませんし、薄いのに見失いにくくて。花の透かしも、指にかかりやすく――」


そこまで言って、気づいた。

私は、贈り物に対して、実用性の話ばかりしている。


「もちろん、美しいお品です。その、小さな石の色も」


公爵さまの瞳に、少し似ている。

そう思って、言葉が止まった。


「……落ち着く色で」


公爵さまは、しばらく何も仰らなかった。


「そうか」


低い声だった。


「大切に使わせていただいております」


公爵さまは、もう一度しおりを見た。

なぜか、今度はこちらのほうが落ち着かない。


私は、工房の報告へ目を戻した。


「それで、実物をもう少し拝見したいのですが」


私は、その紙を見ながら言った。


「席札に使ったものだけでは、作れる幅が分かりませんから」


「工房を?」


「はい」


公爵さまは、少しだけ考えた。


「近いうちに、視察を組む」


私は、顔を上げた。


「わたくしも、でございますか」


「ああ」


公爵さまは、まっすぐこちらを見た。


「君に見てほしいと言った」


胸の奥へ、言葉が落ちる。


「たいへん、勉強になるかと存じます」


そう答えると、公爵さまの目元が、ほんのわずかに曇った。


あら。


また、何か言葉を間違えたかしら。

私は、少し考えた。


「それに」


公爵さまが、こちらを見る。


「楽しみです」


言ってから、自分でも少し驚いた。


務めだからでもなく。

役に立てそうだからでもなく。


楽しみ。


公爵さまの目元が、今度こそわずかに和らいだ。


「そうか」


低い声だった。


「なら、よかった」

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