20 同じ机の端
書類。
その言葉で、私はすっかり、背筋を伸ばしてしまった。
書類である。
紙。
分類。
確認。
照合。
たいへん落ち着く響きだ。領地から届いた報告書の整理や、商人からの書簡の分類、収支の数字の確認なら、王宮でも、実家でも、似たことをしてきた。役に立てるかもしれない。
午後から執務室へうかがう約束をすると、公爵さまは、私室へはお入りにならないまま戻っていかれた。
わざわざ、書類のことを伝えるためだけに、こちらまでいらしたらしい。
たいへん、律儀なお方である。
執務室の扉の前で、ギルバートが礼をした。
「奥方さま。旦那さまがお待ちでございます」
「ありがとう」
公爵さまは、机の前に立っていた。
机の上には、いくつもの書類の束が積まれている。けれど、乱雑ではない。数字の脇には、照合を終えた印。返書を待つものには日付。差し戻すものには、短い理由が添えられている。どの紙にも、一度目を通しただけではない跡があった。きれいに、整っている。私が分類し直すところなど、ほとんどない。
「座ってくれ」
公爵さまが、机の脇に椅子を示した。
机の向かいではない。
同じ机の、端。
近い。
近い、けれど、同じ紙を見るには、とてもよい位置だった。向かい合えば、書類を渡すたびに腕を伸ばさなければならない。脇なら、二人で同じ行を追える。
そう。
仕事に、とてもよい。
私は、きちんと礼をして、椅子へ腰を下ろした。
「分類を、お手伝いすればよろしいのでしょうか」
「いや」
公爵さまは、三つの書類を机の中央へ置いた。
工房の収支。
職人についての報告。
商人からの書簡。
「分類は済んでいる」
「では」
「君なら、これをどう見る」
言われて、私は少しだけ目を見開いた。
整理してほしい、ではない。見るようにと、言われた。
私は、いちばん上の収支写しへ目を落とした。
「霜花刺しの工房ですね」
「ああ」
出荷された品の数は、前年より減っている。けれど、工房へ出された金額は、反対に増えていた。
「糸の値が上がったのでしょうか」
「違う」
公爵さまの指が、職人の報告へ移った。
「見習いを減らさなかった」
私は、顔を上げた。
「注文が減っているのに、でございますか」
「注文が戻ってから人を集めても、遅い。刺す手を失えば、金では戻せない」
公爵さまは、淡々と言った。
「この冬は、領から補う」
数字の増え方には、理由があった。
見落としていたのではない。
分かったうえで、増やしていたのだ。
私は、もう一度、職人の報告へ目を落とした。名前が並んでいる。熟練の者。若い者。まだ見習いの者。
紙の上の支出ではなく。人の手を、残すために。
胸の奥が、少し静かになった。
「こちらの商会は」
次の書簡を開く。
王都で売るならば、銀糸を減らし、模様を大きくし、値を下げるべきだと記されている。
書簡の余白には、公爵さまの字で、短く一語。
不可。
「お断りになるのですね」
「ああ」
「なぜ、と申し上げても?」
公爵さまの眉間に、わずかに力が入った。
「それでは、霜花刺しではなくなる」
短い答えだった。けれど、十分だった。
銀糸を減らし、大きな花にして、遠くからでも目立つものにする。
たしかに、それなら王都の店先では目を引くかもしれない。
けれど。
「私も、そう思います」
公爵さまが、こちらを見た。
「そうか」
「はい。あの刺繍は、大きく見せるためのものではありません」
私は、晩餐会の席札を思い出した。
客の指先。
ほどかれた細いリボン。
光を受けて、初めて浮かんだ霜の花。
「晩餐会で、お客さま方は、最初からあの刺繍をご覧になっていたわけではありません」
「では、なぜ気づいた」
「ほどいたからです」
公爵さまが、わずかに目を細めた。
「手に取って、指で触れて、近くで見た。それで初めて、花があると気づかれたのです」
私は、紙の端へ指を置いた。
「遠くから見せるのではなく、近くで見つけてもらう品なのだと思います」
公爵さまは、何も言わなかった。
けれど、視線は私から逸れなかった。
「続けてくれ」
その声が、低く落ちた。
「たとえば、礼状に添える栞。扇の房飾り。手袋を留める細い紐。冬の茶会で、菓子包みに結ぶリボン。大きな布で競うのではなく、手元に残る小さなものにすれば、あの繊細さが――」
「四つは多い」
私は、口を止めた。
「多い、でございますか」
「ああ」
公爵さまは、職人の報告を私のほうへ寄せた。
「熟練の手は少ない。見習いを含めても、同時に品を増やせば、刺し目が崩れる」
言われて、職人の人数を見直す。
その通りだった。
使い道を思いつくことと、実際に作れることは違う。
「では、まず二つだけに」
私は、先ほど挙げたものを、頭の中で並べ直した。
「礼状に添える栞と、細いリボン。どちらも今の幅を大きく変えずに作れます」
「数は絞る」
「はい。広く売り出すのではなく、まずは冬の茶会を開かれる方々へ。由来を記した小さな札を添えて、見本として」
「値は下げない」
公爵さまが言った。
「はい」
私は頷いた。
「安くすれば、繊細であることが、弱みに見えてしまいます」
公爵さまは、ペンを取った。
試作、二種。
数を限る。
値は下げない。
その脇へ、私は小さく書き添えた。
近くで、見つけてもらう。
公爵さまの字と、私の字が、同じ紙の上に並んだ。
向かい合った書類ではなく。
同じ向きから見た、同じ一枚に。
工房の報告へ目印をつけようと、私は収支写しに仮に挟んでいたしおりを抜いた。
薄い銀のしおり。
花の透かし彫りに、小さな石がひとつ。
公爵さまの視線が、その上で止まった。
「使っているのか」
「はい。紙を傷めませんし、薄いのに見失いにくくて。花の透かしも、指にかかりやすく――」
そこまで言って、気づいた。
私は、贈り物に対して、実用性の話ばかりしている。
「もちろん、美しいお品です。その、小さな石の色も」
公爵さまの瞳に、少し似ている。
そう思って、言葉が止まった。
「……落ち着く色で」
公爵さまは、しばらく何も仰らなかった。
「そうか」
低い声だった。
「大切に使わせていただいております」
公爵さまは、もう一度しおりを見た。
なぜか、今度はこちらのほうが落ち着かない。
私は、工房の報告へ目を戻した。
「それで、実物をもう少し拝見したいのですが」
私は、その紙を見ながら言った。
「席札に使ったものだけでは、作れる幅が分かりませんから」
「工房を?」
「はい」
公爵さまは、少しだけ考えた。
「近いうちに、視察を組む」
私は、顔を上げた。
「わたくしも、でございますか」
「ああ」
公爵さまは、まっすぐこちらを見た。
「君に見てほしいと言った」
胸の奥へ、言葉が落ちる。
「たいへん、勉強になるかと存じます」
そう答えると、公爵さまの目元が、ほんのわずかに曇った。
あら。
また、何か言葉を間違えたかしら。
私は、少し考えた。
「それに」
公爵さまが、こちらを見る。
「楽しみです」
言ってから、自分でも少し驚いた。
務めだからでもなく。
役に立てそうだからでもなく。
楽しみ。
公爵さまの目元が、今度こそわずかに和らいだ。
「そうか」
低い声だった。
「なら、よかった」




