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19/25

19 屋敷の息

エルナ視点→公爵視点です。

東棟の鍵は、思っていたより、置き場所に困るものだった。


机の上へ置くには、少し不用心な気がする。文箱へしまえば安全だけれど、それではいざという時に出しにくい。鍵用の小さな鎖につけて持ち歩くには、いかにも女主人然としている。


女主人然。

いえ。女主人なのだけれど。

そうなのだけれど。


私は、朝から鍵を手に、部屋の中で立ち尽くしていた。

古びた銀の鍵は、掌に乗せると、やはり重い。昨日、公爵さまが「君のものだ」と仰った、その言葉の重みまで、一緒に乗っているようで。


……困る。


鍵ひとつで、こんなに落ち着かなくなるとは思わなかった。王宮では、もっと大事な文書庫の鍵だって扱っていたのに。あれは、決められた棚へ戻せば済んだ。誰のものでもなく、職務のものだったから。


これは。

これは、私のものだと言われた。

そこが、いけない。


扉が控えめに鳴った。


「どうぞ」


入ってきたミナは、盆を持っていた。朝のお茶と、小さな菓子。それから、いつもより少しだけ、そわそわした顔。


「あの、奥方さま。東棟へ、お移りになるお支度は、いつから始めましょう」


私は、鍵を握ったまま瞬いた。


「……お移り」


「はい。旦那さまより、東棟は奥方さまのお部屋だと、皆にお達しがございましたので。ギルバートさまも、まずは奥方さまのご都合を、と」


そうだった。

そうなるのだった。


部屋をいただくということは、そこへ移るということ。東棟を整えるということは、そこに人が出入りし、荷が動き、布が掛けられ、灯りが入るということだ。


胸の中で、昨日から散らかっていたものが、少しだけ、棚に収まりはじめる。


よし。

これは、仕事だ。


「ミナ。荷を動かす前に、東棟でどう過ごすことになるのか、ひとつずつ確かめたいの」


「どう過ごすか、でございますか」


「ええ。朝はどこでお茶をいただくのか。本を読むなら、どの窓辺がよいのか。冬の夜には、どこまで暖炉の熱が届けば心地よいのか。まず、それを決めましょう」


それから私は、部屋を世話してくれる人たちのことを思った。


「その暮らしを、毎日無理なく支えてもらえるように、窓を開ける方や、暖炉を見る方の動きも確かめたいわ。家具を置いてからでは、直すのが大変でしょう?」


言いながら、少し懐かしくなった。王宮でも、部屋を整えるときに最初に考えたのは、王妃さまがそこでどうお過ごしになるかだった。朝の書き物、昼の応対、夜の休息。その一つひとつが心地よく運ぶように、灯りや家具を置き、侍女たちの手順を整えたものだ。


「では、まず東棟へ参りましょう」


そう言うと、ミナは、ぱあっと顔を明るくした。


「はい、奥方さま!」


返事が少し早い。かわいい。


私は、鍵をそっと握り直した。





東棟の扉を開けると、朝の空気がまだ部屋の中に残っていた。


昨日、私が見た窓は、きちんと閉められている。床には足跡ひとつなく、布をかけられた家具は、昨日より少しだけ端へ寄せられていた。誰かが、出入りしやすいように動かしてくれたらしい。


いいわ。

こういう小さな手が、部屋を生きた場所にしていく。


「奥方さま」


扉の外から、若いメイドが顔を出した。片手に窓まわりの掃除道具を提げている。昨日、廊下で台車を押していた娘だ。私と目が合うなり、慌てて深く頭を下げた。


「窓を整えるよう、申しつかりまして」


「ええ。入ってちょうだい。お名前は?」


「あ、アンナでございます」


アンナは窓へ近づき、窓掛けを開いて、留め金の具合を確かめた。朝の光が、床へ長く差し込む。


「この光、晴れた日にはどこまで来るの?」


アンナは、少し驚いたように振り返った。


「昨日は、あちらの床板の継ぎ目まで参りました。窓辺へ椅子を置きますと、午前のうちは少し眩しいかもしれません」


私は、窓辺から部屋の奥を見た。


たしかに、本を読む椅子を窓へ寄せすぎれば、朝の光がまともに目へ入る。けれど、半歩だけ内側なら、手元は明るいまま、眩しさだけを避けられそうだ。


「では、椅子はあの柱の手前へ。午後には窓辺へ寄せられるよう、あまり重すぎないものを選びましょう」


「はい」


「朝の光のことは、これからもあなたに訊ねるわ。実際に使ってみて眩しければ、また動かしましょう」


アンナは、もう一度窓と柱を見比べた。


「では、午後に動かしやすい幅も残しておきます」


「ええ。お願い」


まだ椅子ひとつ置いていないのに、窓辺で本を開く朝が、少しだけ見えた。




次に来たのは、暖炉を見る下男だった。

年は若いけれど、灰を扱う動きが静かで、火箸の置き方にも癖がない。けれど、道具箱を置く場所が決まっていないらしく、入口で一度足が止まった。


彼は暖炉の前へ進み、道具箱を床へ置き、火格子を検める。それから、箱を持ち上げようとして、窓辺へ布を運ぶアンナとぶつかりかけた。


二人とも、慌てて下がる。


「あ、申し訳ございません」


「こちらこそっ」


二人が同時に謝った。


あら。

よくない。


謝罪が同時に出る場所は、だいたい動線が悪い。


「少し待って。毎朝、同じところで行き合うの?」


アンナと下男は、顔を見合わせた。


「窓を開ける時刻と、灰を下げる時刻が近うございますので」


「窓が先に開きますと、風で灰が舞うことがございます」


下男が答える。

アンナが、はっとした顔をした。


「では、私が先に窓を開けてしまうのは、よくないのですね」


「いや、その。窓掛けを開かないと暗くて、火格子が見えにくいことも」


今度は、下男が困った顔になる。


なるほど。

どちらかが悪いのではない。二人の仕事のあいだに、順番がないのだ。


「お名前は?」


「トムでございます」


「トム。灰を下げるのに、どのくらいかかる?」


「火が落ち着いていれば、四半刻もかかりません」


「アンナ。そのあいだに、隣の部屋の窓をお願いできる?」


「はい。こちらへ戻るころには、灰が下がっていますね」


「では、まず一週間、その順で試しましょう。合わなければ変えればいいわ」


私は暖炉の右脇、壁際のくぼみを示した。そこには今、仮の花台が置かれている。


「それから、毎朝使う道具を、毎朝倉庫まで戻す必要はないわね。花台は窓辺へ寄せて、このくぼみに低い扉付きの収納を置きましょう」


「暖炉道具を、こちらへ置いてよろしいのでしょうか」


「ええ。必要なものが必要なところへ納まっているほうが、部屋も仕事も乱れないもの」


トムは、くぼみの幅を目で測った。


「灰入れも、下の段へ収まりそうです」


「では、その寸法もお願い。灰を舞わせない手つきなら、東棟の朝の火も安心して任せられるわ」


トムは背筋を伸ばした。


「はい」


今度の返事は、力みすぎず、けれど、まっすぐだった。


——東棟の朝、順番よし。収納は採寸待ち。まずは一週間。


うん。

心の帳面にも、試用中、と書いておこう。




午前のうちに、東棟には何人もの使用人が出入りした。


燭台は背の高いものをやめて、低いものを二つに。敷物は扉の手前で止め、盆を持つ足が引っかからないように。本棚を入れる壁は少し心もとないから、ギルバートに確認を。花は、立派なものを一度飾るより、毎日替えられる小さなものを。


決めるたびに、私は、それを使う人へ訊ねた。

そして、すぐには決めきらず、まず試すことにした。


「奥方さま」


扉の近くで、ギルバートが礼をした。

いつの間に来ていたのだろう。相変わらず、足音がしない。


「東棟へ入れる品の控えでございます」


差し出された紙には、家具、布、灯り、茶器、花器、書き物机、本棚、寝具。必要な品々が、きちんと分けられていた。過不足は、ほとんどない。さすがだ。小卓をひとつ増やす件だけ書き添えて、まずは屋敷で眠っているものを探してもらうことにする。


「それから、東棟へ出入りする方々を、一週間だけ固定できますか」


「理由をうかがっても?」


まっすぐな問いだった。

ギルバートは、理由のない指示に従う人ではない。ただ、理由があれば、早い。


「人が毎日替わると、部屋の癖が誰の手にも残りません。まず同じ方々に入っていただいて、窓の固さも、床のきしみも、灯りの影も、確かめたいのです」


「一週間ののち、正式にお決めになると」


「いいえ。一週間のあいだに困ったことを、皆に教えてもらいます」


ギルバートが、わずかに目を上げた。


「東棟の裏口に、小さな帳面を置いていただけますか。窓が固い、道具が邪魔、灯りが眩しい。気づいた方が、一行だけ書けるものを」


「使用人が、奥方さまのお部屋について書きつけるのでございますか」


「私を採点する帳面ではありません。部屋を採点する帳面です」


言ってから、少しおかしくなった。


「決めたことが合わなければ、直せばよいのですもの。黙って我慢されるより、ずっと助かります」


ギルバートは、一拍だけ黙った。

それから、深く頭を下げた。


「承知いたしました。東棟の控え帳を用意いたします」


「ありがとう。無理のない範囲で」


「もちろんでございます」


ギルバートが下がったあと、アンナが隣室から戻ってきた。


「トム、こちらの窓掛けは開けました。窓は、まだです」


暖炉の前から、トムが顔を上げる。


「こちらは灰を下げました。もう開けて大丈夫です」


「分かりました」


アンナが窓を開ける。

朝の空気が入り、けれど灰は舞わなかった。


二人とも、私を見なかった。

ギルバートの顔色も探さなかった。

互いの声を聞いて、そのまま次の仕事へ移っていく。


それで、よい。


私が毎朝ここに立ち、ひとつずつ指を差さなくても。

この部屋が、自分で朝を迎えられるなら。


開いた窓から入った風が、生成りの布を、ふわりと揺らした。



◆ ◆ ◆


午前の終わり、執務室へ戻る途中、俺は、東棟から続く回廊で足を止めた。


いつもと、音が違う。


「こちらは灰を下げました。もう開けて大丈夫です」


「分かりました」


若い声が二つ。

続いて、窓の開く音。風が布を揺らす音。


廊下の先では、メイドが次の布を抱え、暖炉番の下男が道具箱を壁際へ寄せている。どちらも、誰かの指図を待ってはいなかった。


晩餐会の夜は、皆がエルナを見ていた。

困るたび、あの人の目を探し、短い答えを受け取って、それぞれの持ち場へ戻っていった。


今は、見ていない。

見なくても、動いている。


「旦那さま」


横から、ギルバートの声がした。

悪事を見咎められたかのように、肩が揺れた。


「……いたのか」


「先ほどより」


家令は、何も見なかった顔をしている。

長年仕えている男の、実に腹立たしい慎み深さだった。


「東棟へ入る者を、一週間、固定いたします。奥方さまは、その間に出た不都合を控え帳へ記し、のちに見直すお考えです」


「決めて、終わりではないのか」


「合わなければ変える、と」


東棟の中を見る。


エルナは窓辺に立ち、紙へ何かを書き込んでいた。だが、部屋の者たちは、あの人の周りに集まってはいない。それぞれの場所で、自分の仕事をしている。


あの人が作っているのは、自分がいなければ動かない家ではない。

誰もが、自分の持ち場で、次の手を選べる家だ。


鍵を渡したとき、俺は、彼女に場所を与えたつもりでいた。


思い上がりだった。


鍵で開くのは、扉だけだ。

その中へ朝を入れ、暮らしの順を作り、人が迷わず動ける場所へ変えたのは、エルナ自身だった。


そして俺は、まだ扉の外に立っている。


以前、あの人は、書類の整理でも何でも手伝うと言った。

俺は、ゆっくりしていろと退けた。


慣れない家で無理をさせたくない。

そう思ったのは、嘘ではない。


だが、それだけでもなかった。


隣に座られたら、平静でいられない。

同じ書類を覗き込まれたら、文字ではなく、近くにある横顔ばかり見てしまうかもしれない。

そんな自分を見られたくなくて、俺は、あの人を気遣うような顔をして、自分を守った。


場所を与える。

役目を与える。

俺はずっと、自分が与える側にいるつもりだった。


違う。


次にするべきことは、別の役目を与えることではない。

俺が見ているものを、彼女にも見せることだ。

そして、彼女に見えているものを、俺が教えてもらう。


一方が与え、一方が受け取るのではなく。

同じものを、並んで見る。


手に持った書類へ目を落とす。


領地からの報告。商人からの書簡。収支の写し。

以前、彼女が手伝えると言ったものばかりだった。


「旦那さま」


ギルバートが、静かに訊ねる。


「お入りにならないので?」


俺は、東棟の中を見た。


入れば、また、何を言うべきか分からなくなる気がした。

だが、今日は、それを理由に戻るわけにはいかない。


「エルナ」


呼ぶと、あの人が振り返った。


「はい」


「午後、執務室へ来てくれ」


「わたくしが、でございますか」


「ああ」


俺は、手にした紙束を、わずかに持ち上げた。


「君に、見てほしい書類がある」


エルナは、一瞬だけ目を見開いた。

それから、いつものように姿勢を正す。


「承知いたしました。午後にうかがいます」


仕事の返事だった。

当然だ。俺が、書類と言ったのだから。


それでも、断られなかった。

そのことに、胸の奥がわずかにほどけた。


俺は私室へは入らず、執務室へ戻った。


机の向かいには、来客用の椅子が一脚置かれている。

いつもなら、そこへ座らせる。


だが。


「ギルバート」


「はい」


「この椅子を、こちらへ」


俺は、机の脇を示した。


「向かいではなく?」


「ああ」


同じ書類を、同じ向きから見られる場所。

手を伸ばせば、同じ紙へ届く場所。


「ここだ」


ギルバートの目元が、ほんのわずかに動いた。


「かしこまりました」


机の向かいではなく。

同じ机の、端へ。


次話以降、公爵の攻めのギアが少しずつ上がっていきます

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