18 息をできる家
公爵さまの言葉に、息を呑んだ
窓から入る光が、少しだけ強くなった気がした。
この家を。
私が、息をできる家に。
言葉は、難しくない。むしろ、たいへん分かりやすい。なのに、その意味をどこへ置けばよいのか、胸の中で迷子になる。
公爵さまは、まだ私を見ていた。
「家政婦頭の後任も、急がねばならない。だが、俺だけで決めることではない。奥向きのことは、君の目で見てほしい。使用人たちが、誇りを持って働けるようにしたい。君が、そうしていたように」
――ああ。なんと。
迷子になりかけていた言葉が、ようやく、見知った場所へ戻ってくる。
これは、役目だ。
この家の女主人として東棟を整え、使用人を見直し、奥向きを立て直す。公爵さまは、私にそれを求めてくださっている。
必要と、してくださっている。
その事実は、十分すぎるほど、温かかった。
「……承りました」
私は、深く頭を下げた。
「この家の夫人として、力を尽くします」
顔を上げると、公爵さまが何か言いたげにしていた。
ほんの少し、困ったような顔。
「夫人として、だけでは」
そこまで言って、止まる。
私は、待った。
公爵さまは、続きを探すように視線を落とし、それから、また私を見る。
「いや」
止まってしまった。
あら。
今のは、何だったのかしら。
夫人としてだけでは、足りない。つまり、もっと広く、奥向きだけではなく、公爵家全体を見よ、ということだろうか。たしかに、霜花刺しのこともある。領地の品や、屋敷の客迎えや、書簡の流れまで見なければ、家は整わない。
なるほど。
「承知しました」
「……何を」
「奥向きに限らず、この家全体に目を配るように、というお話かと」
公爵さまが、固まった。
違ったらしい。
違ったのね。
「いえ、早合点でしたら、申し訳ございません」
「いや」
公爵さまは、額に手を当てかけて、やめた。
「違わない。違わないが」
そこで、また止まる。
たいへん、お困りのご様子である。
私は、少しだけ首をかしげた。
「では、どこから始めましょう」
そう尋ねると、公爵さまは、しばらく黙ったあと、諦めたように息を吐いた。
「君の、やりやすいところから」
「よろしいのですか」
「ああ」
「では」
私は、部屋を見回した。
布をかけられた家具。仮置きの燭台。まだ何も飾られていない暖炉。明るい窓。未完成の、けれど気持ちのよい部屋。
これから整う場所。
私の場所。
いいえ。
私たちの、場所。
そう思いかけて、胸が跳ねた。
危ない。
また早合点である。たいへん危ない。今は、女主人として、冷静に、実務的に、部屋を整えるべき場面なのだ。
私は、背筋を伸ばした。
「まず、窓を開けてもよろしいでしょうか」
公爵さまが、少し意外そうな顔をした。
「窓?」
「はい。風の抜け方を見たいのです。部屋は、家具を置く前に、光と風を確かめるのがいちばんですから」
公爵さまは、私を見て。
それから、ゆっくりとうなずいた。
「好きにしてくれ」
好きに。
してくれ。
その言葉は、たいへん扱いに困るものだったので、私は聞こえないふりをした。
窓へ歩み寄る。
留め金を外すと、少し固かった。まだ使い慣れていない窓の感触だ。両手で押すと、朝の空気が、ふわりと部屋へ入ってきた。
庭の匂い。
磨かれた木の匂い。
新しい布と、古い屋敷の匂い。
背後で、公爵さまが、静かに立っている気配がした。
私は、窓辺に立ったまま、部屋を振り返る。
光が、床を渡っていく。布をかけられた家具の輪郭が、少しずつ明るくなる。まだ空っぽの棚も、何も飾られていない暖炉も、未完成の壁も、朝の風を受けて、これから始まる顔をしていた。
「よいお部屋になります」
私は、自然にそう言っていた。
公爵さまの目が、少しだけ和らぐ。
「そうか」
「はい」
私は、もう一度、部屋を見た。
ここを整える。
この家を整える。
公爵さまが、私に任せてくださった場所を。
胸の奥に、温かなものが満ちていく。けれど、その名前を考えるのは、まだ少し、怖い気がした。
だから私は、それを、役目と呼ぶことにした。
女主人としての、たいせつな役目。
そう呼べば、きちんと手に持てる。
「公爵さま」
「何だ」
「午後に、ミナを連れて参ってもよろしいでしょうか。採寸と、窓掛けの確認をいたします。それから、ギルバートにも、使用人の動線を相談したく」
「ああ」
「あと、家具を動かす前に、埃の入り方も見たいので、しばらくこのまま窓を開けておいても」
「ああ」
「あの、何でも、ああと仰らず」
つい、口が滑った。
公爵さまが、目を瞬いた。
私も、瞬いた。
しまった。
夫に、ではなく、公爵家当主に、今の言い方は少し馴れ馴れしかったかもしれない。
「申し訳ございません。差し出がましいことを」
「いや」
公爵さまは、ほんの少しだけ、口元を緩めた。
「言ってくれ」
「え」
「俺がまた足りなければ、言ってくれ」
まっすぐに、そう言われた。
今度こそ、返事が遅れた。
足りなければ。
言ってくれ。
それは、部屋のことだろうか。屋敷のことだろうか。言葉のことだろうか。
たぶん、全部なのだろう。
けれど、そこまで受け取ってしまうのは、やはり少し、怖い。
私は、胸の中で、そっと息を整えた。
「……はい」
声は、思ったより、小さかった。
公爵さまは、それでも聞き取ったらしい。
銀の鍵を、私へ差し出した。
「持っていてくれ」
私は、鍵を見た。
古びた銀。飾り気のない、けれど重みのある鍵。
この扉を開けるもの。
この場所へ、入ってよいというしるし。
「私が、ですか」
「ああ」
「大切な鍵では」
「だから、君が持つ」
また、そういうことを、さらりと仰る。
私は、両手で鍵を受け取った。
思っていたより、重かった。冷たい金属のはずなのに、手のひらに乗せると、じんわりと温かくなる。
「お預かりいたします」
そう言うと、公爵さまが、少し眉を寄せた。
「預けたのではない」
「え」
「君のものだ」
鍵が、手の中で、重みを増した。
君のもの。
部屋が。
東棟が。
この家の中心へ続く扉が。
私は、鍵を握りしめる。
心が、忙しい。ほんとうに、朝から忙しい。晩餐会の翌朝だというのに、屋敷より先に、私の心のほうが片づいていない。
けれど。
窓から入る風は、気持ちがよかった。
「……ありがとうございます」
ようやく、それだけ言った。
公爵さまは、うなずいた。
それから、少しだけ不器用に、けれど確かに、言った。
「エルナ」
名前。
夫人ではなく。
私は、顔を上げた。
「ここを、君と整えたい」
今度は、聞き間違いようがなかった。
君と。
私は、鍵を握ったまま、ゆっくり頷く。
「はい」
その温かいものに、また名前をつけ損ねた。
けれど、今はそれでいい。
私は、この家の夫人として、まず窓を開けた。
そこから入ってきた朝の風が、東棟の白い布を、ふわりと揺らした。




