17 東棟の鍵
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公爵さまが、鍵を手に、執務室の扉へ向かった。
私は、その半歩うしろを歩く。
半歩。
王宮では、いちばん馴染んだ距離だった。王妃さまの少し後ろ。必要があれば声を落としてお伝えでき、必要がなければ、影のように控えていられる距離。
けれど今は、どうにも、勝手が違う。
前を行くのは王妃さまではなく、公爵さまだ。しかも向かう先は、公務の間でも、客間でも、晩餐会の後始末でもない。
東棟。
公爵夫妻の、私室。
……うん。
落ち着きましょう。
夫婦に私室がある。これは、何もおかしなことではない。むしろ、たいへん正しい。屋敷の運用としても、当主夫妻の区画が定まっていないほうが、よほど困る。使用人の導線も乱れるし、来客時の案内も曖昧になる。
そう。
これは、屋敷運用上の、大事な確認である。
落ち着かないのは、たぶん、鍵のせいだわ。古い銀の鍵というものは、人の心を少しばかりそわそわさせるところがあるもの。
たぶん。
きっと。
廊下へ出ると、ギルバートが控えていた。
「奥方さま」
そう呼んで、深く礼をする。
その向こうでは、台車を押していた下働きの娘が、慌てて壁際へ寄った。昨日までは、私を見つけると、まず家政婦頭の顔色を探すような子だった。今は、私を見て、それから公爵さまを見て、きちんと頭を下げる。
迷いが、少し減っている。
廊下の空気というものは、案外、正直だ。誰を見て動けばよいのか分からない家では、足音まで不安定になる。けれど今朝は、足音が、ちゃんと前へ進んでいる。
——本日の廊下、昨日より半歩前進。
そう書きつけかけて、私は、胸の帳面を閉じた。
今は、廊下の採点をしている場合ではない。
公爵さまが、ふと振り返った。
「疲れていないか」
「いいえ。大丈夫です」
「昨夜は、遅かった」
「皆も同じでございます」
そう返すと、公爵さまの眉間に少しだけ皺が寄った。
あら。
何か、よろしくなかったかしら。
「君は、すぐに自分を数から外す」
低くそう言われた。
思わず足が止まりかけた。
「……そう、でしょうか」
「そうだ」
断言だった。
たいへん、きっぱりしている。
反論しようとして、やめた。今ここで、私も昨夜は十分眠りましたし、丈夫が取り柄でして、などと言えば、なぜか余計に眉間の皺が深くなる気がしたからだ。公爵さまの眉間は、屋敷の調度と違って、私の采配で簡単に整うものではないらしい。難しい。
廊下を進むにつれて、人の気配が少なくなっていく。
東棟へ続く回廊は、これまで通ったことのない場所だった。いや、正確には、目には入っていた。けれど、いつも閉じた扉の向こうにあり、私が踏み込むべき場所ではないと、自然に線を引いていた。
その線の前に、いま、公爵さまが立っている。
扉は、古かった。
重厚な木に、控えめな彫り。大広間のように華やかではない。けれど、長く手入れされてきたものの艶がある。鍵穴のまわりだけ、銀の金具が新しく磨かれていた。
公爵さまが、鍵を差し込む。
かちり、と、小さな音がした。
それだけの音なのに、なぜか、胸の奥まで届いた。
扉が開くと、やわらかな光が、流れ出した。
「……まあ」
思わず、声が漏れた。東棟は、明るかった。
玄関ホールの荘厳さとも、大広間の華やかさとも違う。窓が大きく、壁の色はやわらかい。白すぎず、暗すぎず、外の光を取り込んで、部屋全体が静かに息をしているようだった。
まだ、すべてが整っているわけではない。壁際には布をかけられた家具があり、敷物は丸めて置かれている。絵を掛ける場所だけ、壁に小さな印が残っている。花器も、燭台も、まだ仮の位置だ。
けれど。
よい部屋だった。
窓辺に椅子を置けば、午後の光の中で本が読める。暖炉の前に小卓を置けば、冬の日にも温かな茶を楽しめるだろう。まだ何も整っていないのに、ここで過ごす時間だけが、先に目に浮かぶようだった。
華やかさを押しつけるのではなく、住む人の息に合わせようとしている。
「ここは、まだ途中だ」
公爵さまが言った。
「見れば、分かるかと」
つい、いつもの調子で返してしまい、慌てて口を押さえた。
「いえ、その。失礼いたしました。たいへん、よい途中でございます」
たいへん、よい途中。
何を言っているの、私は。
公爵さまが、わずかに目を見開いた。それから、ほんの少しだけ、口元を緩めた。
「よい途中か」
「はい。途中であることが、よく分かります。けれど、どこをどう整えるつもりだったのかも、分かります。これは、よい途中です」
言い切ってから、ますます妙なことを言った気がした。
けれど、公爵さまはとがめなかった。
「なら、よかった」
低く、そう言う。
その声が、少しだけほっとして聞こえたので、私の胸のほうが、なぜか落ち着かなくなった。
公爵さまは、部屋の奥へ進んだ。
「ここを、私的な居間にするつもりだった」
「居間」
「ああ。表の客を通す場所ではなく、家の者と、近しい者だけを」
なるほど。
広すぎない。けれど狭くもない。窓辺に椅子を置けば、読書にも針仕事にもよい。暖炉の前に小卓を置けば、茶も取れる。部屋の隅には、書き物机を置ける余地がある。
「この位置なら、冬の午後も明るいですわね」
窓の外には、庭が見えた。客間から見える花の庭とは、少し角度が違う。こちらは、表の幾何学庭園と、奥の柔らかな庭とのあいだを、ちょうどつなぐように見渡せる。
格式と、親しさ。
どちらも、見える。
「客間から見える庭も、よい眺めでしたけれど」
そう言いかけて、言葉が止まった。
客間。
あの明るい部屋。私が、客として置かれたと思っていた部屋。
公爵さまも、同じことを思ったらしい。
「客間は」
声が、少し低くなった。
「君を、遠ざけるための部屋ではなかった」
私は、窓から顔を戻した。
公爵さまは、こちらを見ている。言葉を選ぶように、けれど、今度は目を逸らさずに。
「あの時点で、すぐに使える部屋の中では、いちばん日当たりがよく、庭が見えた。東棟が整うまで、不自由が少ないと思った」
「はい」
「だが、そう伝えなかった」
「……はい」
「だから、君は客人になった」
胸の奥が、静かに熱くなった。
公爵さまは、ご自分を責めている。私がそう受け取ったことを、私のせいにしていない。
それが、うまく言葉にならなかった。
「わたくしも、勝手に思い込みました」
やっと、それだけ言った。
「この家には、すでに女主人のように立っていらっしゃる方がいて。家の者も、その方を向いていて。私は、後から来た者でしたから」
公爵さまの顔が、わずかに強張った。
「君は、後から来た者ではない」
短い言葉だった。
けれど、強かった。
「俺が、迎えた妻だ」
呼吸が、一拍遅れた。
妻。
その言葉は、身分としては何度も聞いた。書面にもある。屋敷の者も、もうそう呼ぶ。けれど、公爵さまの声で、まっすぐ置かれると、どうにも勝手が違う。
心臓というものは、もう少し、公務に向いた働きをしてほしい。
私は、指先を重ねた。
「……はい」
そう答えるので、精いっぱいだった。
公爵さまは、さらに奥の扉へ向かった。
「こちらが、君の部屋になる」
君の部屋。
扉が開く。
そこは、先ほどの居間より、少し小ぶりな部屋だった。窓辺には、まだ布をかけられた机が置かれている。壁際には本棚を入れるらしい空きがあり、暖炉の上には、まだ何も飾られていない。
飾られていないことが、かえってよかった。
これから決められる。
そういう余白が、ある。
「机の位置は、仮だ」
公爵さまが言った。
「書き物をするなら、もう少し窓から離したほうがよいかもしれない。光が強すぎる日もある」
私は、机へ近づいた。
布の端を、少しだけめくる。木目のきれいな、堅実な机だった。華美な彫りはない。引き出しの深さも、紙を入れるのにちょうどよい。インク壺の場所も、右手を伸ばしやすい。
「よい机です」
「そうか」
「はい。書簡を分けるにも、帳面を広げるにも。引き出しも深すぎません。深すぎる引き出しは、紙が沈んでしまいますもの」
そこで、はっとした。
また、仕事の話をしている。
けれど、公爵さまは、まるで大事なことを聞いたように、真面目にうなずいた。
「では、それでいい」
「いえ、あの、まだ決定というわけでは」
「君がよいと言うなら、よい」
胸の奥が、妙な具合に温かくなる。けれど、これはきっと信頼されているということだ。女主人として、部屋の使い勝手を任されている。そういうこと。そういうことに、違いない。
私は、咳払いをひとつした。
「では、細かな位置は、実際に紙と灯りを置いてから決めたほうがよろしいかと。昼と夕方で、光の入り方が変わりますから」
「分かった」
あまりに素直に頷かれて、また少し困った。
前は、何か申し出ても「ゆっくりしていてくれ」だったのに。
今は、分かった、と言ってくださる。
たった、それだけのことなのに。たった、それだけのことが、こんなにも、胸に残る。
公爵さまは、部屋の反対側にある扉へ視線を向けた。
「向こうは、俺の私室だ」
「はい」
「この部屋とは、居間を挟んでいる」
「はい」
「それから」
公爵さまが、言葉を切った。
珍しいことではない。公爵さまは、よく言葉を探される。けれど、今の沈黙は、いつもより少しだけ長かった。
私も、つられて、その先を見た。
居間の奥に、もう一つ、扉がある。
他の扉より、少し幅が広い。
開けられてはいない。
けれど、屋敷の構造を考えれば、分かってしまう。
私の部屋と、公爵さまの部屋。そのあいだ。私的な居間の、さらに奥。
つまり。
夫婦の、寝室。
え。
いいえ。
落ち着きなさい。
夫婦の区画に、夫婦の寝室がある。たいへん、自然。実に、自然。屋敷設計として、何ひとつ、おかしくない。むしろ、ないほうがおかしい。
おかしくは、ない。
ないったら、ない。
ただ、扉があるだけ。
扉というのは、どの部屋にもある。
「まだ、整っていない」
公爵さまが、低く言った。
私は、勢いよく頷いた。
「ええ。そうでございましょうとも」
声が、少し大きかった。
公爵さまが、こちらを見る。
私は、丁寧に微笑んだ。
「寝具や布まわりは、実際に使う方のお好みがございますものね。採寸も、光の入り方も、風の抜け方も、確認が必要ですし。ええ、ええ。たいへん実務的な確認が必要なお部屋でございます」
言いながら、自分でも、何をそんなに実務へ逃げ込んでいるのかと思った。
公爵さまは、しばらく私を見ていた。
それから、目を伏せる。
肩が、ほんの少し震えたように見えた。
笑った、のかしら。
まさか。
「そうだな」
声が、少しだけ柔らかい。
「実務的な確認が、必要だ」
やはり、少し笑っていらっしゃる。
たいへん珍しいものを見た。
採点するなら、満点である。
いえ、採点している場合ではない。
私は、何事もなかった顔で、窓辺へ戻った。
「公爵さま」
「何だ」
「このお部屋の仕上げを、私が拝見してもよろしいのでしょうか」
「そのために、連れてきた」
「家具や布や、使用人の動きまで?」
「ああ」
「東棟だけでなく、奥向き全体のことも?」
公爵さまは、少し間を置いた。
そして、まっすぐに言った。
「君に、見てほしい」
鍵を差し出されたときと、同じ言葉。
「この家は、古い。よいものもある。だが、古さに寄りかかって、目を逸らしてきたものもある。俺一人では、見えていなかった」
「そんなことは」
「ある」
また、きっぱり。
「晩餐会で、思い知った。俺には見えなかったほころびを、君は見た。使用人たちも、君の言葉で動いた。ギルバートも、君の判断に従った」
「それは、皆が公爵家を守ろうとしたからです」
「だからだ」
公爵さまは、私のほうへ一歩近づいた。
近い。
近い、気がする。
いいえ、部屋の説明をしているだけ。部屋は広いのだから、多少距離が変わることもある。動線の確認である。たぶん。
「この家を、君が息をできる家にしたい」




