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16 見せたい場所

執務室の空気が、音もなく変わった。

誰も、すぐには動かなかった。


この家の夫人は、ここにいる。


胸の奥が、ふいに、熱くなる。


困った。

これは、困る。


こういう言葉は、あまり、胸の近くへ置いてはいけない。扱いを間違えると、あとで、とても痛む。長く宮仕えをしてきた身としては、いただいた言葉は、いったんきちんと整理してから保管するのが望ましい。


——公爵家当主より、夫人職の所在について正式確認あり。


うん。


それなら、よい。

とても、よい。


私は、膝の上の手を、そっと握り直した。


やがて、ロゼリアさまが扇を閉じた。

小さな音だった。


「……かしこまりました」


声は、かろうじて整っていた。


「支度をいたします」


そう言って、膝を折る。


花が、雨に打たれても、花の形だけは保とうとするような礼だった。


ロゼリアさまは、身を起こした。


その目は、もう、家政婦頭のほうを見なかった。

半歩うしろに控えたその人が、そこにいないかのように。


それから、ほんの一度だけ、窓の外へ視線を向けた。

玄関前に、迎えの馬車が入ってくる気配があった。


馬車の扉は、まだ開かない。

ボーガン伯爵が自ら降りてくる様子もない。


ロゼリアさまの指が、扇の骨を握った。

白くなるほど、強く。


けれど、顔を上げたときには、もう何も残っていなかった。

淡い花のような笑みだけが、きちんと戻っていた。


公爵さまは、家政婦頭へ視線を移した。


「家政婦頭」


「はい」


「ボーガン令嬢の荷造りと見送りを手伝え。終わり次第、ギルバートのもとへ行け。今後の身の振り方を考えておけ」


家政婦頭の肩が、ぴくりと動いた。


「……わたくしは、この家のためと」


「違う」


家政婦頭が、息を止める。


「父の代からの話を信じていたとしても、それは言い訳にならない。俺は妻を迎えた。君はそれを知っていた」


家政婦頭の唇が、わずかに震えた。


「それでも君は、夫人を夫人として扱わなかった」


返事はない。

公爵さまは、机の上に置かれていた古びた鍵へ視線を落とした。


「東棟の記録は」


家政婦頭の顔がこわばる。


「整えて、ございます」


「なぜ、夫人に説明しなかった」


沈黙。


「東棟は、公爵夫妻の私室として改装していた。夫人を客間に置いたのは、そこが整うまでのあいだ、最もよい部屋を使ってもらうためだった。そう説明すべきだった」


私は、息を呑んだ。


東棟。


公爵夫妻の私室。


客間は、冷遇ではなく、そこが整うまでの最もよい部屋。


そう言われてみれば、あの客間は、本当に、よい部屋だった。窓が大きく、庭が見えて、朝の光がよく入る。招かれざる客に与えるには、上等すぎる部屋だと、私自身、初日に思った。


本当に、上等な部屋として選ばれていた。


「なぜ、説明しなかった」


公爵さまが、もう一度問う。

家政婦頭は、しばらく黙っていた。


やがて、低く答える。


「……必要がないと、判断いたしました」


「必要がない」


「東棟をお使いになるのは、いずれ、本来の奥方さまに、と」


そこで言葉が止まる。

けれど、もう十分だった。


「つまり、君は俺の妻を認めなかった」


家政婦頭は、顔を上げられない。


「当主の婚姻より、自分の考えを優先した。説明を省いたのではない。意図的に隠した」


沈黙が落ちる。


「その判断を、君に任せた覚えはない」


家政婦頭は、ゆっくりと頭を下げた。


「申し訳、ございません」


謝罪の声にも、もう力はなかった。


「長年の働きに報い、紹介状は書いてやる。だが、そこまでだ」


家政婦頭の肩が、わずかに揺れた。


長年この屋敷を取り仕切ってきた人にとって、厳しい沙汰だった。

けれど、公爵さまは言葉を足さなかった。


「下がれ」


ロゼリアさまと家政婦頭は、もう一度礼をして出ていった。

二人は、扉を出るまで、一度も互いを見なかった。

扉が閉まる。

残された執務室に、朝の光だけが残った。






東棟。


その言葉が、耳の奥で、まだ、静かに響いていた。

公爵夫妻の私室として、改装していた場所。

客間は、冷遇ではなく、そこが整うまでの、最もよい部屋。


……待って。


東棟。

公爵夫妻の私室。


私は、ゆっくりと瞬きをした。

それはつまり。

私と、公爵さまの。


——え。


胸の奥で、何かが盛大に転んだ。


いえ、落ち着きなさい、エルナ。夫婦なのだから、私室があるのは当然だわ。むしろ、なかったら困る。


困るのだけれど。

そういう問題ではなくて。


客間は、冷遇ではなかった。

追い出されるまでの仮住まいでもなかった。

最初から、私のための場所が、別に用意されていた。


その事実が、思った以上に衝撃だった。


けれど。


説明のない親切は、ときどき、親切と反対の顔をしてしまうものなのね。


……いえ。これは、私も悪い。


勝手に、受け取った。望まれていないのだと。客なのだと。だから、線を越えないようにしようと。そう決めて、ずっと、その線の手前に立っていた。


その線を、いま、公爵さまが、引き直してくださった。


この家の夫人は、ここにいる。

胸の奥が、また、熱くなる。


公爵さまは、机の向こうで、しばらく黙っていた。先ほどまで、あんなに静かに人を退けていらしたのに、いまは、なぜか言葉を探しているように見える。


「……すまなかった」


ぽつりと、二度目の謝罪が落ちた。

私は、慌てて顔を上げた。


「先ほども、うかがいました」


言ってから、少し、失礼だったかもしれないと思う。

けれど公爵さまは、かすかに目を見開いただけで、怒らなかった。


「何度言っても、足りない」


その言い方が、あまりに真面目で。

私は、返す言葉をひとつ見失った。


公爵さまは、机の上に置かれた鍵へ目を落とした。古びた銀の鍵が朝の光を受けている。飾り気のない、けれど重みのある鍵だった。


「君に見せたい場所がある」


「場所、でございますか」


「ああ」


公爵さまは、鍵を手に取った。


「東棟だ」


東棟。

もう一度、その言葉が、胸の中で静かに鳴った。


公爵さまは、私を見た。

今度は、目を逸らされなかった。


「そこを、君に見てほしい」


君に。

ただ、私に。


そう言われたような気がして、胸の奥が、ひどく落ち着かなくなった。


けれど、いけない。


早合点は、よくない。たいへん、よくない。人は、朝の光と、真面目なお顔と、銀の鍵に、判断を狂わされることがある。たぶん。きっと。


私は、背筋を伸ばして、丁寧に頭を下げた。


「はい。拝見いたします」


公爵さまの指が、鍵を握り直す。

ほんのわずかに、その口元が、ほどけたように見えた。

それだけで、胸の奥が、また、妙な音を立てる。


まったく。


朝から、忙しいこと。


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