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15 この家の夫人

公爵さまの眉間に、力が入った。

私の背筋も、少しだけ伸びる。


「入れ」


扉が開けられると、ロゼリアさまが、淡い水色のドレスで立っていた。昨夜の疲れなど、少しも見せない。よく整えられた髪。控えめに伏せた睫毛。後ろには、家政婦頭が控えている。


二人とも、昨日までと同じ顔をしていた。

まるで、何も起きていないかのように。


「朝早くに失礼いたしますわ」


ロゼリアさまは、可憐に膝を折った。


「昨夜のお礼をどうしても申し上げたくて。皆さま、本当にお喜びでしたもの。わたくしも、ようやく少しは、このお家のお役に立てたのかと」


そこで、ちらりと私へ目を向ける。


「もちろん、夫人にも、途中でお手を添えていただきましたわね。急なことでしたのに、たいへん助かりました」


私は、穏やかに会釈した。

言い返す理由もない。手柄というものは、欲しい方のところへ流れていけばよい。昨夜の卓が温まったのなら、それで十分。


けれど、公爵さまは違ったらしい。


「ボーガン令嬢」


その呼び方に、ロゼリアさまの笑みが止まった。ほんの一拍。


「……はい?」


「昨夜の晩餐会について、確認する」


公爵さまの声は、低い。声を荒げてはいない。責め立ててもいない。ただ、そこから先へ言い逃れを許さない声だった。


「夫人が決めた席次を変えたのは、君か」


ロゼリアさまの扇が、ゆっくり動いた。


「ええ。夫人の席次も悪くはございませんでしたけれど、より皆さまに心地よくお過ごしいただけるよう、わたくしなりにアドバイスさせていただきましたわ」


「ヴェルダン侯爵の席を、あの位置にした理由は」


「それは……全体の釣り合いを見て」


「三年前から仲違いしている二家を隣に置いた理由は」


ロゼリアさまの睫毛が、揺れた。

家政婦頭の顔が、わずかに強張る。


「人前が苦手な子爵夫人を、話の強い客ばかりの卓に置いた理由は」


部屋が静かになった。

私は、膝の上で手を重ねた。


問われているのは、三つ。

昨夜、あの席次表の中で、私の目に不協和音として飛び込んできた席と同じ三つだった。


公爵さまは、昨夜そこまで見ていらしたのね。


「……わたくし、そこまで細かな事情は」


「知らなかったのだな」


ロゼリアさまの頬に、薄く色が差した。


「存じ上げていなかっただけですわ。どなたにも、間違いはございますでしょう。けれど昨夜は、結果として皆さまお喜びに」


「結果を整えたのは、夫人だ」


公爵さまは、静かに言った。

ロゼリアさまの扇が止まる。

家政婦頭の肩が、ほんのわずか下がった。

私は、思わず公爵さまを見た。


夫人。


その言葉は、これまで何度も聞いた。けれど、今のそれは、私を名指すためだけの呼び方ではなかった。部屋の中の誰に対しても、動かしようのない位置を示す言葉だった。


「直前で席を調整したのも、客を待たせるあいだを保ったのも、料理の遅れを趣向へ変えたのも、夫人だ。客は気づかなかった。気づかせなかった。だから公爵家の面目は保たれた」


「……ヴィルヘルムさま」


ロゼリアさまは、少し笑った。傷ついたような、けれど相手を気遣うような、見事な笑みだった。


「もちろん、夫人にもお力添えはいただきましたわ。けれど、わたくしは、ただ皆さまに喜んでいただきたくて」


「君に許したのは、夫人が求めたとき、この家の勝手を伝えることだけだった」


公爵さまの声は、低かった。


「席を決めることではない。皿の数を変えることでもない」


「手順書を捨てたのも、皆に喜んでもらうためか」


今度こそ、ロゼリアさまの顔から色が引いた。

私は、膝の上の手に少し力を入れた。

あれを、公爵さまが知っている。


昨夜、席を直したあと、あの紙はギルバートの手に渡った。あの家令のことだ。報告とともに、主へ差し出したのだろう。


「手順書、とは」


ロゼリアさまの声が、細くなった。


「何のことでございましょう」


公爵さまは、机の上から、一枚の紙を取った。

幾度も折りたたまれた跡がある。昨日、ミナが両手で差し出してくれた、あの手順書。

紙は、丁寧に広げられていた。


私の字。


その上に引かれた、何本もの線。

消された行の脇、余白に書き足された、別の手。

一度は打ち捨てられた紙だと、伸ばしても消えない皺が語っていた。


「これは、夫人が晩餐会のために書いたものだ。人の配り、礼状、霜花刺しの手配。昨夜必要だったものは、ここにあった」


公爵さまの指が、紙の上を、順に指していく。


先ほど問われた三つの席は、どれも、余白のほうに書かれていた。

私の字は、線の下で、まだ読めた。


ロゼリアさまは、黙った。

それでも、目を伏せながら、なおも言った。


「わたくし、夫人のお手を煩わせてはならないと思ったのです。だって、嫁がれて間もない方に、あれもこれも背負わせるなど」


そこで、ロゼリアさまの声が、ほんの少しだけ揺れた。


「……それに、わたくしにも、できると思ったのです」


「そのために捨てたのか」


「……言い方が、少し」


「捨てたのか」


二度目の問いは、短かった。


ロゼリアさまの扇が、かすかに音を立てる。


「……紙を、下げさせただけですわ」


「では、この線は、誰が引いた」


部屋の空気が変わった。


ロゼリアさまは、扇の陰で、一度だけ息を整えた。


「……存じませんわ」


声は、綺麗に整っていた。


「わたくし、手順のことなど、細かくは分かりませんもの。家政婦頭が、この家のためを思って直したのでしょう。長く奥を預かってきた者ですから。……ねえ、そうでしょう?」


同意を求める声が、半歩うしろへ、投げられた。


家政婦頭は、答えなかった。

ただ、ゆっくりと、顔を上げた。

長年、この屋敷のすべてを胸に納めてきた人の顔から、何かが、静かに下りていくのが見えた。


「……線を引いたのは、わたくしでございます」


「そう。この者が——」


「ロゼリアさまの、お言いつけに、ございます」


ロゼリアさまの声が、途中で消えた。

家政婦頭は、まっすぐ前を向いたまま続けた。


「席の並びも、皿の数も。仰せのとおりに、書き改めましてございます」


「な……」


扇が下がる。


「何を。わたくしは、そんな」


「ボーガン令嬢」


公爵さまの声が、その先を断った。

低く、静かなままで。


「君の逗留は、今日までだ」


ロゼリアさまは、公爵さまを見つめた。何か、聞き間違いをした人のように。


「……今日まで?」


「ああ。ボーガン伯には、昨夜のうちに使いを出した。迎えは、昼までに来る」


「わたくしを、追い出すとおっしゃるの?」


「屋敷へ戻るように、と言っている」


「でも、先代の旦那さまは」


声が、震えた。


「先代の旦那さまは、わたくしを、この家にと。幼い頃から、ずっと。お父さまも、そのおつもりで」


「死んだ父が何を望んでいたとしても、それは婚約ではない」


公爵さまの声は、やはり静かだった。


「文書もない。誓約もない。王家への届け出もない。何より、俺は承諾していない」


俺は。

その一人称に、ロゼリアさまがひるむ。


「そして、俺はもう、妻を迎えている」


ロゼリアさまの視線が、こちらへ向いた。

その瞳に浮かんだのは、怒りだった。押し殺そうとしても隠しきれない、鋭い敵意。


けれど、その奥には、信じていたものが思いどおりにならなかった人の悔しさも混じっていた。


「……夫人は」


ロゼリアさまが震える声で言った。


「夫人は、それで、よろしいのですか」


私は、静かに顔を上げた。


「わたくしが、決めることではございません」


それは、正しい答えのはずだった。

この家の逗留を許すかどうか。先代の話をどう扱うか。公爵さまが誰を置き、誰を退けるか。それは私が決めることではない。

けれど、ロゼリアさまの瞳に、わずかな光が戻るのが見えた。


あ。


そうか。


これは、また。


「そうだ」


公爵さまが言った。


「夫人に決めさせることではない」


ロゼリアさまが、公爵さまを見る。


「この家のことは、当主である俺が決める。俺の妻の扱いを他人に委ねることも、君に選ばせることも、二度としない」


私の手が、膝の上で止まった。

公爵さまの声は、静かだった。


「この家の夫人は、ここにいる」

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