13 見事な夜
公爵視点→エルナ視点→公爵視点です
晩餐の席につく。
卓の上には、客の数だけ小さなカードが並んでいた。皆、それを開いては、ほころんでいる。隣同士で見せ合い、笑い、もうすっかり打ち解けている。
俺は、内心で唸った。
着席のまえ、ギルバートが見せた席次に肝が冷えた。あれでは、誰かが必ず気を悪くする。三時間、逃げ場のない卓で。なのに、客が実際に着いた席は、あれとは別物だった。……いや。別物、というのも違う。ほとんどの席は、あの紙のままだった。動いたのは、ほんの数カ所。なのに、卓の色がまるで違う。誰に気取られることもなく、いつのまにか、危ういところだけがすっかり直されている。
そういえば、と思う。あの突然の演奏。
わけも分からず、楽器を持たされて、一曲、弾かされた。あれは、これを仕込むための猶予だったのか。
はじめは、面食らった。なぜ今、楽器なのかと。だが、弾きはじめてみれば。強張っていた指を、ピアノが、下からすくいあげてくれた。二巡り目には、昔の感覚が少し戻った。気づけば、客のざわめきが消えていた。何も考えず、ただ音の中にいた。終わってみれば、弾くことの楽しさを、久しく忘れていたのだと思い知った。
そんなことを思い返しながら、上機嫌の客と杯を交わす。当たり障りのない話。だが、目の端は、いつものようにエルナを入れている。
ふと、見えた。
ギルバートとエルナが、何か声をひそめて話している。さりげない風を装っているが、長年あの家令を見てきた俺には分かる。あれは、何か起きた顔だ。
背筋が、強張る。今度は、何だ。
だが、ギルバートが下がったあとも、エルナの微笑みは崩れない。
ほどなく、卓の脇に小さな火が運ばれてきた。給仕が客の目の前で、料理に火を入れて仕上げてみせる。青い炎が立ち、甘い匂いが流れて、客から感嘆の声があがった。こんな趣向は、見たことがない。主催者であるはずの俺ですら、思わず見入った。
そうして、何事もなかったように供された料理は、客の舌を唸らせた。気づけば、エルナは隣り合った客の会話までそれとなく繋いで、卓全体を回している。
これは、あれが仕掛けたものだ。
何が、どう詰まって、エルナがどう解いたのか。中身は、俺には見えない。それでも確信する。この見事な流れは、すべて、あの人の手から出ている。
それからも、エルナがときおり使用人と、何かを交わすのが見えた。けれど、俺は、もう何も心配しなかった。あの人がそこにいる。それだけで、この夜は保たれる。
いつのまに、俺は、こんなにもあの人を、信じきっている。
同時に、別のことにも気づいてしまった。
使用人たちが、もう、完全にエルナのほうを向いている。指図を待ち、目配せひとつで動き、信頼しきっている。あれは、この家の女主人に対する顔だ。
それを誇らしく思う。思ってすぐに、ほんの少し、面白くなくなる。
あいつらのほうが、俺より、よほどエルナの近くにいるんじゃないか。夫であるはずの俺が、いちばん遠い。我ながら子供じみている。使用人に焼き餅とは。分かっている。分かっているのに、胸の隅がちりちりと灼ける。
宴が、はねた。
満ち足りた顔の客が、口々に今宵を讃えながら帰っていく。さすが公爵家だ、と。
その讃辞を、ロゼリアが我がことのように受けていた。にこやかに、礼まで述べている。
俺は、知っている。今夜の見事は、ひとつ残らずエルナのものだ。それを、こうも当然の顔で横から掻っ攫っていくとは。
腹の底が、すっと冷えた。だが、ここで波風を立てれば、せっかくエルナが保った夜が台無しになる。俺は、奥歯の裏で、苛立ちを噛み殺した。
客がすっかり引けたあと。
俺は、エルナのもとへ足を向けた。
◆ ◆ ◆
公爵さまが、来た。
客を見送り終えた私のところへ、まっすぐに。そして、公爵さまは、ぽつり、ぽつりと、言葉を継いだ。
「席のことも。料理のことも。……聞いた。客は、誰ひとり、気づいていなかった」
ひとつ、ひとつ、確かめるように。
「あれは、そなたがやったのだろう? 誰にも、気づかせずに。……助かった。よく、やってくれた」
普段の、あの無口が、嘘のように。
私は、少し意表を突かれた。
この方は、見ていないようでいて、ちゃんと見ていらしたのね。
その事実が、胸の奥を思いがけず温める。
けれど。
すぐに思い直す。これは、務めを果たしたことへの正当なねぎらい。仕事をしたから評価された。それだけのこと。湧きかけた名前のつかない何かに、私はそっと蓋をして、丁寧に頭を下げた。
「もったいない、お言葉でございます」
公爵さまは、何か言いたげに、一瞬、口をひらきかけて。
けれど、結局は、それきりだった。小さく、会釈をして、去っていかれた。
◆ ◆ ◆
廊下に出て、扉を閉める。
そこで、奥歯を噛んだ。
また、言えなかった。
労いの言葉なら、いくらでも出せるのに。本当に言いたかったことだけは、ひとことも口にできないまま出てきてしまった。
宵の口の、あの演奏がよみがえる。
初めて合わせたはずなのに、何年も前からずっと二人で奏でてきたような心地がした。世界から音が引いて、あの人と自分だけが残った、あの数分。あの人を、すぐ隣に感じていた。
それにひきかえ、どうだ。
夫婦だというのに、俺はあの人の手を握ったことすらない。
この、意気地なしめ。
いつまで、こんな関係を続けるつもりだ。
こんなにも、あの人が欲しいのに。
触れたい。抱きしめたい。
夜をともにして、あの人が一日のはじめに言葉を交わす相手が、俺で、ありたい。
それなのに。今夜もまた、肝心のことは何も言えないまま引き下がってきた。
さっきまで、あれほど近くに感じていたのに。
いまは、扉ひとつ隔てただけで、また、遠い。
あと、ひとこと。
たった、ひとこと、なのに。




