第9話 わたしの居場所
池田くんのお母さんは、キッチンで夕飯の準備を始めていた。挨拶をしに顔を出すと、「ご飯食べていかないの?」と残念そうにされる。いろんな意味で、彼女には申し訳なさを覚えてしまう。
家まで送るよという池田くんの申し出を断り、玄関で靴を履いていると、彼に「なぁ、吉村」と声をかけられる。
「吉村はさ、なんで俺のこと好きだったの?」
「……今さら、そんなこと聞く?」
思わず顔をしかめると、池田くんは拗ねたように唇を尖らせた。
「いいじゃん、聞いたって。吉村そういうこと全く話してくれなかったし」
確かに、話したことはなかったかもしれない。池田くんだって、話してくれたのは今日が初めてだったけど。
「……わたしが理科のワークを一人で運んでたら、池田くんが手伝ってくれて、それが嬉しかったの」
照れ臭くて、靴を履き直す振りをしながら視線を合わせずに答える。池田くんは「えっ、そんなこと?」と意外そうな声を上げた。そして「あのときのことかなぁ」と呟く。あんまり思い出さないでほしい。ちょっとだけ、頬が熱くなる。
あの日の、「俺は吉村が頑張ってるの、わかってるけどね」という彼の言葉は、誰からも見向きされないと感じていたわたしにとって、救いだったのだ。
「わたしみたいに地味な女子は、ちょっと優しくされただけで簡単に勘違いしちゃうんだよ、バカ」
「バカって……ていうか、勘違いじゃないし。なんか、かわいいな」
彼の言葉は聞いてなかったことにして、立ち上がって玄関の扉を開ける。
「本当に、送らなくていいか?」
「いいってば。まだ明るいし」
「うん、そうだけど。……あっ」
わたしの頭越しに玄関の外を見た池田くんは、何かに気づいたように声を上げた。池田くんの目線を追って後ろを振り向いたわたしも、彼と同じく「あ」と声を漏らしてしまう。
家の前に、真田くんがいたのだ。
どうやらこの道は、彼の通学路らしい。たまたま通りかかったところで、わたしが扉を開けてしまったようだ。
三人の間で時が止まったように沈黙が流れる。しかし真田くんはハッとしたように我に帰り、「あ、す、すいません!」と軽く頭を下げて早足に立ち去ろうとした。
「真田くん! 待って!」
池田くんがいることも忘れ、思わず呼び止めてしまう。
「えっと、池田くん、ごめん……」
「いいよ。じゃあな、吉村。元気で」
「うん、池田くんも。バイバイ」
池田くんとの別れは、随分あっさりしたものになってしまった。彼は、最後に少しだけ寂しげに笑っていた。
池田くんは、わたしに全てを話してくれた。本当は二年前に話せていれば良かったのだ。彼もわたしも、互いに思いを伝えられなかったがために大切なものを失い、わだかまりと後悔が残った。
――もう、同じ失敗は繰り返さない。
玄関の扉が閉まったのを確認するやいなや、わたしは真田くんのもとへ駆け寄った。彼は心配そうな表情でわたしを待っていてくれた。
「途中まで、一緒に帰ろうよ」
「……吉村さん、家反対方向ですよね」
「あっ、そうだった……」
真田くんはクスッと笑い、「俺も、ちょっと話したいです。ここじゃあれなんで、移動しましょうか」とわたしの家の方向にゆっくり歩き出した。わたしも彼の隣に並ぶ。
「真田くん、再試、どうだった?」
「受かりましたよ。九割取れました」
「おめでとう。勉強頑張ってたもんね」
「はい。本当に吉村さんのおかげです。ありがとうございました」
約束のご褒美は何にしようかなんて話をしながらあるいていると、先日と同じ公園の前を通った。どちらからともなく、公園内に足を踏み入れる。
ベンチに腰かけると、二人同時にため息を吐いた。思わず顔を見合せ、笑い合う。
しかし真田くんは、笑みを浮かべたまままたすぐに困ったような表情をした。そして、おずおずと口を開いた。
「あの、吉村さん、」
「なに?」
「その……、さっき、あの人の家で何をしていたのかとか、俺、聞いてもいいんですかね?」
わたしは真田くんの顔を見上げ、大きく頷く。
「うん、なんでも、聞いて。真田くんには、全部話すよ」
さゆりにいろいろ話したあの日から、真田くんにも話そうと決意していたのだ。わたしという人間を、まず知ってもらいたかったのだ。
真田くんは少し驚いたような表情を見せたが、すぐにニコッと笑んだ。
「じゃあ、遠慮なく。さっきは彼と何を話していたんですか?」
「中学のときの話をしてた。別れたときのこと、謝られた」
「……吉村さんと付き合ってたけど、実は恵美さんのことが好きだった、ってやつですよね?」
「そう、だったんだけど……」
「何か違うんですか?」
「……恵美を好きだったっていうのもまた嘘で、本当は、地味なわたしと付き合ってるのが、周りにバレたくなかったんだって」
わたしはつい、自虐的に笑ってしまう。本当はこんな笑顔、作りたくないのに。
「は……なんだよ、それ」
真田くんの顔つきに、困惑と怒りの色が混ざった。
「それでね、もう一度やり直したいとも言われた」
「……それで、吉村さんはなんて答えたんですか?」
「断ったよ、さすがに」
真田くんは、どこかやるせなさそうにぎりっと奥歯を噛み締めた。
「なんで、吉村さんは、そんな普通そうな顔してるんですか」
「え?」
「あの人の家から出てくるときだって、ちょっと楽しそうだったし……。あんなこと言われて、ちゃんと怒ったんですか?」
ちゃんと怒るって、なんだか変な言い方だ。適切な感情を選択し、表現する。あまり、得意ではないかもしれない。
「そりゃ、ショックだったよ。周りから見下される立場だったんだ、って。悲しかったし、悔しかったよ。……でも、怒りはまた別物かな」
真田くんは拳を握り、かぶりを振った。
「怒ればいいんですよ! なんで吉村さんがまた傷つかなきゃいけないんですか! あいつは吉村さんの気持ちを踏みにじったんですよ! 悲しいなんて、感じる必要ない!」
声を荒げた真田くんは、息を付くと同時に両目からボロボロと涙を溢した。ギョッとして狼狽えてしまう。
「えっ、ちょっと、なんで真田くんが泣くのよ」
「うぅ、俺、怒ると泣いちゃう人なんですぅ」
「ええ、なにそれ……」
眼鏡を外してゴシゴシと目元を擦る真田くんを見ていると、面倒くさい子だなぁと思うと同時に、愛しさも芽生えてきた。彼は、わたしのために怒り、泣いている。わたしは、他人のために自分の感情を消費できるだろうか。他人のことを、自分のことのように考えられるだろうか。人から距離を取っていた中学時代のわたしなら、きっとそんなことできないだろう。だけど、今のわたしは、もしかすると……。
鞄からポケットティッシュを出して、彼に差し出す。
「そんなに擦ったら腫れちゃうよ。ほら、ティッシュあげるから」
「ありがとう、ございます」
真田くんはティッシュで目元を押さえ、鼻をかんだ。
「なんか、ごめんなさい。俺、詳しいこと知ってるわけでもないのに、一人で興奮しちゃって……」
「ううん。ありがとね、真田くん。わたしのために、怒ってくれて」
こちらを向いた真田くんは、しかし顔を赤らめてそっぽを向いてしまった。眼鏡をかけ直した彼は、目線は外したまま「もう、あの人とは会わないんですか?」と尋ねた。
「うん。会わないよ。もう、完全に終わったから」
「そう、ですか……」
しばらく、沈黙が訪れる。話したいことはたくさんあるのに、何から話せばいいのかわからない。それはどうやら、真田くんも同じのようだ。
「ねぇ、真田くんは……、恵美のこと、今でも好き?」
真田くんはわたしの質問に、悩むように小首を傾げた。
「好きって、恋愛感情でって意味なら、完全にふっ切れたしなんとも思ってませんけど……。人としては、今でも好きですよ。憧れとか、尊敬とか、そういう思いはあります」
憧れ、尊敬。そう、恵美は周りからそういう対象で見られる人だった。彼女の良さは、かわいいだけじゃない、内面から滲み出るものがあった。
「……わたしも、昔は恵美が好きだったよ。でも、だんだん、恵美と自分を比べるようになって……、恵美といると自信がなくなるし、自分が嫌いになるし……、楽しいと思えなくなってきたんだよね」
真田くんは、無言で頷いた。
「そんなときに池田くんに告白されて、わたしのことを見てくれてる人もいるんだ、って思えたら、すごく嬉しかったんだ。わたし、かなり浮かれてさ、自分に自信持っちゃって……。だからフラれた時は、その自信全部なくなって、恵美が憎いし、もう離れたいって強く思うようになったんだ」
なぜか、心拍数が上がってくる。既に一度は勢いに任せてぶちまけているのに、ちゃんと話そうと思うと恐怖が顔を覗かせる。真田くんから拒絶されることが怖い。
膝の上でぎゅっと手を握り込む。その上に、真田くんの手が重なった。先日も、彼は同じようにわたしの手を握ってくれた。しかしすぐに離れたその時と違い、今回彼は重ねた手を離さなかった。
「吉村さん、つらかったんですね」
急に鼻の奥がツンと痛くなり、涙が込み上げてきた。きつく目を閉じて、涙が溢れるのを堪える。まだ早い。泣くのは後だ。後で、好きなだけ、思う存分に泣いていいから。
真田くんは、話を聞いてくれている。理解してもらえるかわからない。でも、わたしに向き合ってくれている。だから、わたしも向き合いたいんだ。
「恵美は何も悪くないって、頭ではわかってるつもりだったんだよ。でも、心がついていかないっていうか……。ちゃんと、恵美の内面を見て、好きだって思ってたはずなのに、いつからか、大嫌いって思うようになってた」
少しずつ、辺りが薄暗くなってきた。しかし、夏至が近づいている今、夜まではまだまだ遠い。
「体育祭の日、恵美と会ったよ。わたし、恵美に酷いこと言って、泣かせた」
「……恵美さんに、今話したこと、言ったんですか?」
「詳しいことは、言ってない。でも、ずっと思っていたことは話した。……もう今さら、恵美と仲良くすることはできないと思う」
「そう、なんですね」
真田くんは、考えをまとめるように数秒間目を閉じた後、ゆっくり口を開いた。
「俺は、恵美さんも吉村さんも、どちらも好きです。だから、吉村さんが恵美さんを嫌いと思うのは、正直複雑な気持ちもあります。……でも、だからって片方の味方について、もう片方を敵に回すつもりはないですし、俺との一対一の関係性は何も変わらないじゃないですか。あと、それと……」
わたしの左手に重なる彼の右手に、キュッと力がこもる。
「単純に、吉村さんのことを知れて嬉しいです。この前、俺は『委員会の先輩』としての吉村さんしか見てこなかったんだって痛感しました。『なっちゃん』のことはよく知っているつもりになってましたが……、恵美さんから聞いて知っていた『なっちゃん』は、恵美さんの目を通して見た吉村さんで、それは吉村さんのほんの側面でしかないんだって気づけたんです。……それで、俺、やっぱり吉村さんのことが好きです」
トクトクと、鼓動が高鳴る。なんだろう、この感覚は。わたしを見てもらえている。受け入れてもらえた。誰よりも恵美の近くにいた人に。
承認欲求が、満たされていく。
『なっちゃん』から、解放される。
「ええと、俺が最初に吉村さんのこと好きになったのは、一緒に話したり、並んで歩いたり、そういうのがすごくしっくりきたからなんです。吉村さんの隣が、居心地がいいんです。……それと、ここ数日で吉村さんのこと知れて、もっと興味をもちました」
わたしは思わず真田くんの手をほどいて、逆に握り返した。彼は驚いてわたしの顔を見つめた。
「わたしも、真田くんに興味がある。真田くんのこと、知らないこと多すぎる。……もっと、知りたい。いろんな面を、見せてほしい」
真田くんと、間近で見つめ合う。彼の頬は、どんどん紅潮していった。
「吉村さん……。それは、告白ととらえていいんでしょうか……」
「……え、あ、ごめん、ちょっと違うかも」
「……は?」
「だって、真田くんのこと、まだわからないんだもん。嫌いじゃないし、むしろ好きだけど、でもその、……彼氏彼女って関係は、まだ待ってほしい」
真田くんは長くため息を吐いて、わたしの手を両手でつかんで押し戻した。手から、彼のぬくもりが消える。ようやくわたしは、告白してくれた相手に対して、残酷なことをしているのだと気づいた。
「あのね、わたしも真田くんの隣はすごく落ち着くの。居心地がいいなって思う。それだけじゃなくて、真田くんがいて良かったって思うこともあったよ。今も、わたし自身をみてもらえて、すごく嬉しい。こんなわたしを受け入れてくれて、本当にありがとう。……なんだかね、真田くんといたら、自分が変われそうな気がするの」
「……そんなこと言われたら、俺、必要とされてるみたいで期待しちゃうんですけど……」
うん、わたしには真田くんが必要なんだよ。
期待してていいよ、と本当は言いたい。でも、保証はできないから。これから気持ちがどう変わるか、わからないから。
だけど、いい方向に向かいそうな予感はあるんだ。なんてったって彼は、あの恵美が付き合っていた相手だ。悪い人なはずがない。恵美と付き合っていたと考えると、また「恵美と比べられる」「恵美に勝ることなんてない」と自虐的になりそうなものであるが、真田くんはわたしという一人の人間を正面から見てくれる。『なっちゃん』ではなく、『吉村捺』と向かい合ってくれる。
「あのさ、わたし……、付き合うってちょっと怖いんだ」
「……怖い?」
「うん。真田くんのこと、どこまで信じていいのか、わからない部分があって。……あ、真田くんの気持ちを疑ってるってわけじゃないんだよ。そうじゃないんだけど……、たぶん、自分に自信がないだけなんだけど……」
あぁ、また、わたしの悪いところが出てる。もうそろそろ、こんな自分終わりにしたいな。
「じゃあ、お試しで付き合うってどうですか?」
真田くんは人差し指を立て、そう提案した。
「お試し?」
「一ヶ月とか期限を決めて、たくさんお話しませんか? 俺たち、委員会の日くらいしか一緒に帰ることないじゃないですか。だから、もっと会う頻度を増やしたいです。その中で、俺がどういう人間か見極めてくださいよ。俺も吉村さんのこと、もっと知っていきたいし」
結婚を前提にお付き合いしましょう、の前段階か。交際を前提に仲良くしましょう、と。
「……うん、それなら、いいかも」
「じゃあ決まりですね。とりあえず一ヶ月、よろしくお願いします」
わたしが頷けば、真田くんはとても嬉しそうな笑顔を見せた。
「でも、お試しだからって、しっかり彼女扱いはさせてもらいます」
「う、うん?」
「特に用がなくてもメールや電話をします。休みが合えばデートに誘います。あと、それと……」
「それと?」
「手を、繋ぎたいです」
真面目な顔でそんなことを言う真田くんがかわいくて、つい笑ってしまう。
わたしはベンチから立ち上がると、右手を彼に差し出した。
「いいよ。じゃあとりあえず、手を繋ごうか」
「えっ」
「暗くなってきちゃったし、家まで送ってよ」
真田くんはパッと笑顔になって、「はい、喜んで」とわたしの手を取った。
真田くんと手を繋いで歩く道中、わたしは恵美に対する負の感情が小さくなっていることに気がついた。恵美と比較されない自分に出会えたからであろうか。肩書きのない、わたし自身を認識できたからであろうか。
しかし、恵美を傷つけ、取り返しのつかないことをしたのは事実だ。もう、以前のような関係性にはきっと戻れない。わだかまりが完全に消失することはないだろう。だけど、もし街中で恵美を見かけたら、今度はわたしから声をかけようと思う。
わたしに自信を与えてくれた真田くんへ感謝を伝えたくて、繋いだ右手に力を込める。すると、真田くんも握り返してくれた。顔を見合せ、ふふっと笑い合う。
東へ向かって歩く。会話はほとんどなかった。しかし、彼の隣に、わたしは確かに居場所を感じられた。この手のぬくもりを失いたくないと思った。……失いたくないなら、守っていけばいい。
大切なものが増えるって、大変だ。だけどこれからは、大切なものの数だけ、わたしは前を向いて歩んで行くよ。
〈完〉
第9話をもちまして、『なっちゃん』は完結です。お読みいただき、ありがとうございました。
この作品は独立していますが、『15歳』シリーズのスピンオフの位置付けとなっています。『甘いプリンにカラメルなんて、かけなくたっていいのに。』が中学3年生の真田弘樹のお話です。弘樹は作者お気に入りキャラで、同シリーズ他の作品にもちょこちょこ登場してます。
また機会があれば、よろしくお願いします。
梨本みさ




