第二十三話 どうでもいい
さてさて、話は江戸から日光へ続く街道へ戻ります。
孫悟空が紫藤辰也の後頭部めがけて、如意棒を振り下ろ――したかのように見えましたが。
倒れたはずの辰也が、何事もなかったように立っております。
悟空もまた、如意棒を振り下ろす前の場所へ戻っておりました。
ただし、辰也と悟空、それから傍らに浮かぶ青年だけは、何があったのか分かっているような顔をしております。
「おい」
丹下左膳が、片眉を上げました。
「今、棒でそいつを叩き潰したように見えたが」
「気のせいだ、気のせい」
悟空は何でもないことのように答えます。
「そうか?」
「そうだ」
そういうことも、あるのでしょうか。
『じゃ、新宿に戻ろう』
青年が軽い調子で言いました。
その前方の空間が、ぐにゃりと歪みます。
やがて円形の穴が開き、その向こうには見慣れたホテルの一室が見えました。
辰也たちはワームホールを抜け、久しぶりの――と申しましても、体感ではそこまで久しぶりでもありませんが――新宿へ戻ったのでありました。
ホテルのスイートルーム。
その中央に、二人の少女が立っております。
一人は風祭雫。
そして、そのすぐそばには霊体の蒼。
「……何故ここに」
辰也は足を止めました。
雫は少しだけ眉をひそめます。
「何度も連絡したのに出なかったので、何かあったのかと思ったのよ」
「連絡?」
辰也はポケットからスマートフォンを取り出しました。
画面をつける。
そして、固まりました。
風祭雫。
風祭雫。
風祭雫。
着信。
着信。
メッセージ。
着信。
着信。
また着信。
鬼電という言葉がございます。
まさに、あれでございました。
辰也は画面を眺めながら、首をかしげます。
そもそも、いつ雫は辰也の連絡先を知ったのでしょう。
そして、鍵のかかっていたはずのこの部屋へ、どうやって入ったのでしょうか。
彼女にまつわる謎は、深まるばかりでございます。
「そんなことより、緊急事態だわ」
『なのだわ』
蒼が横で頷きました。
その時。
「なんだこの部屋は。随分豪勢だな。これが日本だってのか」
左膳が、部屋を見回しながら声を上げました。
ソファを見て、テーブルを見て、天井を見上げる。
「おいらたちが来ていいところじゃない気がするよ、父ちゃん」
ちょび安も、どうにも落ち着かない様子でございます。
一方、アラカン先生は大きな窓の前に立っておりました。
窓の向こうには、高層ビルの立ち並ぶ新宿の街。
車の明かりに看板の光。遠くまで建物が続いております。
老人はしばし、その景色を眺めました。
「これが新宿かいな」
どこか懐かしむように目を細めます。
「昔から駅周辺は栄えとったけど、わしの記憶の中とは別物やな」
「えらいええ部屋に住んではりますなあ」
アンジュが続けました。
青年は部屋の中を見回します。
『騒がしいから、ちょっと返してくる』
「え?」
次の瞬間。
左膳、アラカン先生、ちょび安の姿が消えました。
三人は、つい先ほどまでいた街道へ送り返されております。
「なんや、もう終わりか」
「もうちょっといてもよかったが」
「なんだいなんだい!」
『ごめん、また呼ぶかもしれないからさ』
最後まで軽いものでございます。
三人を元の世界へ送り返した青年は、ふと視線を横へ向け――。
動きを止めました。
そこに立っていた、一人の女を見て。
『げえ、やばい方のアンジュさん……』
「今更気づいたんかいな。ひどいわあ」
紫の着物を着たアンジュが、にこやかに答えました。
その手には銃。
辰也が嫌な予感を覚えるより早く、
パン、パン、パン。
三発。
『うわっ』
弾丸は青年の身体をそのまますり抜けました。
現在の青年は霊体でございます。
銃弾はそのまま、背後の壁へ突き刺さりました。
「霊体撃っても手ごたえなくておもろないわ。一回実体になってくれへんかなあ」
『絶対嫌』
「一回だけやから、な? 頼むわ? 誰のせいでこうなったんやったかなあ?」
『嫌』
「ケチ」
「いや、それより」
辰也が壁を指差しました。
「あの、アンジュさん。壁がなくなっていってるんですけど」
「ん?」
アンジュが振り返ります。
銃弾の当たった箇所。
そこを中心に、壁がじわじわと消え始めておりました。
砕けているのではありません。
燃えているわけでもありません。
ただ、そこにあったものが、なくなっていくのです。
「あ」
アンジュが言いました。
このまま放っておけば、壁だけで済む保証はございません。
下手をすれば、ホテルそのものまでなくなってしまうかもしれません。
アンジュは少し考えてから、消えかけた壁へ手を向けました。
何やら力を使ったらしく、欠けた部分へ新たな壁が継ぎ足されていきます。
綺麗に直した、というより。
とりあえず塞いだ。
そんな仕上がりでございました。
「……その銃、今後使わないでくださいね」
辰也は言いました。
「この部屋で使うのはやめとくわ。ごめんなあ」
アンジュは聞いているのかいないのか、銃をしまいました。
「あの」
そこで、ずっと話を遮られていた雫が口を開きます。
「話を続けてもよろしいですか?」
「あ、はい」
辰也はそっけなく答えました。
雫は小さく咳払いをします。
「では……」
そして、表情を改めました。
「蒼の体が、乗っ取られました」
『乗っ取られたのだわ』
「なるほど」
辰也は頷きます。
ずいぶんとそっけない返事でございました。
「おそらく、紫藤君が言っていた影だと思う」
『なのだわ』
「そうですか」
「蒼の体を取り戻すのを、手伝ってもらいたいのだけど」
『お願いなのだわ』
辰也は少し考えます。
「うーん、僕が行っても足手まといになるだけでは……?」
「そんなことはないわ」
『ないのだわ』
雫はきっぱりと答えました。
「それに、この事態が起きた原因は、もとはといえばそちらの神様のせいではなくて?」
『なのだわ』
『うーん、それを言われると……』
青年が困ったように唸ります。
辰也は、雫と蒼を交互に見ました。
二人が自分に何もかも話しているとは、もう思っておりません。
何を考えているのかまでは分かりませんが、自分に何かをさせようとしている。
少なくとも、辰也にはそう見えておりました。
だからといって、ここで問い詰める気にもなれません。
辰也はため息をつきました。
「分かりました。行きます」
もう、どうでもいいから早く終わらせたい。
そんな気分でございました。
一度死を経験すると、執着というものが薄くなるのかもしれません。
もっとも辰也の場合、元々そこまで強い執着があったのかというと、それも怪しいところではございますが。
「行ってくれるのね! 助かるわ!」
『助かるのだわ!』
「善は急げよ! 行きましょう!」
『なのだ――』
「どうでもいいんですけど」
辰也が割り込みました。
雫が振り返ります。
「何かしら?」
「妹さん、口調変わってませんか」
『え、えっと』
霊体の蒼が目を泳がせます。
雫は一拍置いてから答えました。
「自分の体が乗っ取られて、焦っているのだわ。きっと」
『そうそれ、なのだわ』
「そういうことにしておくのだわ」
辰也は雫たちと部屋を出て行ったのだわ。




