第二話 全てを手に入れた高校生
「答えがわかると、つまらない勉強がさらに、つまらなくなるな……」
試験用紙を前に、辰也は小さくため息をついた。
視線を落とすだけで、答えが浮かぶ。考える必要もない。式を組み立てる必要もない。
ただ――知っている。
隣の席ではクラスメイトが頭を抱え、後ろからはシャーペンを噛む音が聞こえてくる。
そんな中、辰也だけが退屈そうにペンを走らせていた。
『言っただろう? つまらないって』
頭の奥で、あの青年の声が響く。
「……ここまでとは思わなかったけどな」
満点を取るのは簡単だ。だが、さすがに毎回それでは露骨すぎる。
辰也は難しそうな問題をいくつか選び、わざと間違えた。計算ミスを装い、記号を書き違え、少しだけ点数を落とす。
普段から品行方正で、成績も悪くない。疑う者はまずいないだろう。
それでも、念には念を入れておく。
「学校にわざわざ顔を出す必要もなさそうだな」
答案を提出しながら、辰也は呟いた。
『何か企んでる?』
「俺の代わりをしてくれる分身とかないの?」
『あるけど』
青年の返事は、あまりにも軽かった。
「あるのかよ」
『作る?』
「もちろん」
それからというもの、教室に座っている〝紫藤辰也〟は、辰也であって辰也ではなくなった。
分身は完璧だった。授業を受け、ノートを取り、教師に指名されればそつなく答える。学級委員の仕事もこなし、クラスメイトとの会話にも自然に応じる。本物と見分けられる者など、まずいない。
そして本物の辰也は――あまり学校へ行かなくなった。
昼まで高級ホテルで寝て、気が向けば街へ出る。欲しいものがあれば神の力で手に入れ、女の子に声をかけて遊ぶこともある。金にも困らない。勉強する必要もない。学校では分身が勝手に優等生を続けてくれる。
これまで面倒だと思っていたことの大半が、辰也の人生から消えていた。
「いやあ、最高だな」
ホテルのベッドに寝転がりながら、辰也は呟いた。
『それでいいのかい?』
「何が?」
『せっかく何でもできるようになったのに、やってることが学校をサボって遊ぶだけじゃないか』
「最高に贅沢な力の使い方だろ」
『そうかなあ』
「毎朝早起きして学校行って、勉強して、大学行って、働いて……ってやらなくていいんだぞ?」
辰也は枕に頭を沈めた。
「もう一生これでいいよ」
『僕に一生力を貸してくれって言う人は、割といるんだ』
青年の声色が、ほんの少しだけ変わった。
『でも大体はね、周りとうまくいかなくなって絶望したり……最後には自分で終わらせたりする』
「それはそいつらが馬鹿だっただけだ。俺は違うよ」
辰也は即答した。
『君なんか、まさにそのタイプだと思うけどね……』
「失礼な神様だな」
そんな生活が、二週間ほど続いた。
その日の夕方。辰也はホテルを出て、繁華街をぶらついていた。
『君はすごいね』
「何が?」
『この短期間で、ここまで自分の欲望に忠実に立ち回った人は珍しいよ』
「褒め言葉として受け取っておくよ」
辰也は笑った。
罪悪感らしいものも、最初の数日で消えていた。学校には分身が行く。成績も落ちない。周囲からの評価も変わらない。
困ることなど、何もない。
『そろそろ満足したかい?』
「まだまだこれからだよ」
『やっぱり君、結構図太いね』
「褒めてる?」
『どうだろうね』
その時だった。
黒い影が、何の前触れもなく飛び出した。
ビルの壁面。地面。看板の下。あらゆる暗がりから滲み出すように現れ、辰也へ殺到する。
「いつも急だな……周りからは見えないんだよな?」
『基本的にはね』
「三体か」
辰也は軽く肩を回した。
「ライトセーバー二刀流で行くか」
『どうぞ』
次の瞬間、両手に、白く輝く光の剣が現れた。
光刃が低く唸る。影が飛びかかる。
だが――勝負にもならなかった。
振るわれた光刃が、影を豆腐のように両断する。一体。二体。三体。斬られた影は黒い霧となり、夕暮れの空気へ溶けていった。
「弱いのはいいんだけどさ……」
剣を消しながら辰也はぼやく。
「急に来られると、なんだかなあ」
『親玉みたいなのを斬れば止まると思うんだけどね』
青年が言った。
『なかなか姿を見せないね』
その時だった。
ぞくり、と。背骨の奥を、冷たいものが這い上がった。
「……なんだ、これ?」
胸の内側を、見えない手で掴まれたような感覚。誰かに見られている。どこか遠くから。だが、間違いなくこちらを――見透かすような視線。
心臓が、一度だけ大きく脈打った。
青年が黙る。
いつも軽口ばかりの青年が、一瞬とはいえ言葉を止めた。それだけで、辰也にもわかった。
今までとは何かが違う。
『……僕たちに敵意を持ってる人がいるみたいだ』
「敵意?」
『分身に気づかれたかな』
その言葉と同時に、背筋を這う悪寒が、さらに強くなった。




