第一話 六芒星の悪ふざけ
※第1~5話は『迷惑な神の備忘録』紫藤辰也編の加筆・修正版です。第6話以降はその続きとなります。
なお、『迷惑な神の備忘録』側も2026年8月11日に本作に合わせて更新済みのため、それ以降に読まれた方は第6話からお読みいただけます。
あの時、馬鹿な担任に呼び出されていなければ――。
こんな面倒事に巻き込まれることもなかったのだろうか、と辰也は思う。
誰にやられたのかは分かっている。この状況なら、仕方ないよなとも思う。
過去の情景が、ゆっくりと脳裏に広がっていく。
――これが走馬灯というやつだろうか。
思い返せば、あれは秋口の夕暮れだった。日が傾き、ミカガミ高校の教室の窓から差し込む光が赤く染まり始めた頃。雑用を押し付けられ、ようやく解放されて教室へ戻った、その時だ。
「委員長! 何とかしてくれ!」
教室に入った瞬間、数人のクラスメイトが辰也へ駆け寄ってきた。
「……はあ?」
間の抜けた声が漏れる。
彼らの指差す先――教室の片隅。床に、ピンクのクレヨンで描かれた六芒星があった。線は歪み、太さもバラバラ。まるで幼稚園児の落書きのようだ。
だが、その中心から。
黒い泥のようなものが、ふつふつと湧き出していた。
「悪魔召喚の儀式が成功しちまったんだ!」
「……小学生か、お前らは」
辰也は呆れたように呟く。
しかし、泥は冗談では済まなかった。量はどんどん増え、六芒星の外へと溢れ出し、ゆっくりと床を這ってこちらへ流れてくる。
「と、とにかく任せたからな、委員長!」
「頼んだぜ!」
「お、おい!」
止める間もなく、生徒たちは辰也を押しのけて教室から逃げ出していった。
静まり返る教室。残されたのは、辰也と――迫り来る泥の塊だけだった。
泥は目の前で盛り上がり、ゆっくりと形を変えていく。腕のようなもの。脚のようなもの。そして、人の顔のようなものが浮かび上がった。
頭では逃げろと叫んでいる。だが身体は、金縛りにあったように動かない。
泥の口が開く。
「うわあっ!」
思わず声が漏れる。だが、次に出てきた言葉はあまりにも場違いだった。
「なんか叶えてほしいことある?」
「……え?」
間抜けな声が口からこぼれる。
その瞬間。六芒星の中心から、黒い影がいくつも飛び出した。影は床を滑るように走り、一直線に辰也へ襲いかかる。形は曖昧。だが確実に〝悪意〟だけは感じ取れた。
辰也は思わず叫ぶ。
「た、助けてくれ!」
「わかった」
泥の人型が軽く手を払う。その一動作だけで、辰也に迫っていた影はすべて四散した。まるで砂のように、音もなく崩れ落ちる。
「あ、あんたがやったんじゃないのか?」
「違うよ。不安定な紋様を描いたから、他にも出てきたみたいだね」
何でもないことのように言う。
辰也は慌てて床を見る。
「と、閉じないと――!」
しかし、そこにあったはずの六芒星は、すでに跡形もなく消えていた。
「もうこれには効力はないよ」
「え、えっと……泥の神様かなんか?」
「え? ああ、ごめん。なんか動かしにくいと思ったら、中途半端に召喚されたみたいだね」
泥の姿が、ゆっくりと変わっていく。黒い塊は縮み、形を整え、やがて――人間の青年の姿になった。
「じゃ、そういうことで」
青年は軽く手を振り、辰也を置いて教室の出口へ歩き出す。
「ちょ、ちょっと待ってよ! 願いを叶えるって――」
「助けただろう。叶えたじゃないか」
「いや、もうちょっと延長して助けてくれないかな。あの影みたいのに、また襲われるかもしれないし」
青年は足を止め、振り返る。そして、ニヤリと笑った。
「そうやって、ずっと助けてくれって言うつもりだろう?」
「え、いや……まあ……」
青年はしばらく辰也を見つめていた。
そして――。
「……気が変わった。いいよ」
「え?」
「暇つぶしにやってるだけだからね」
「マジで?」
「マジだよ」
青年は肩をすくめる。
「でも――」
その笑みは、どこか意味ありげだった。
「成功ばっかりっていうのも、結構つまらないと思うよ」




