第二話 婚約者としての便宜は、今夜で全部やめます
王宮を出た馬車の中で、私はようやく息を吐いた。
春の夜気は冷たかったけれど、悪い冷たさではなかった。
頬を撫でる風が、まだ処刑台の下ではないことを教えてくれる。
それだけで、今世の私は前世よりずっとましだった。
夜会の最中は、痛いほど静かだった心臓が、馬車へ乗ってから少しだけ速くなる。
怖くなかったわけではない。
ただ、怖いからこそ、段取りだけは前もって全部整えておいた。
もう一度同じように死ぬつもりはない。
だから私は、婚約破棄そのものより、その《《あと》》のために半年かけて準備してきたのだ。
王都のヴァルテール公爵家別邸へ着いたころには、夜もだいぶ更けていた。
正面玄関の灯りは落とされていたけれど、二階の私室だけはまだ明るい。
予定通りだ。
マリーが起きて待っている。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
扉が開くなり、侍女のマリーが一礼した。
彼女は私の外套を受け取りながら、いつものように余計なことを言わない。
でも、指先だけは少し硬かった。
王宮から戻った私が婚約指輪をしていないのだから、もう答えは出ているのだろう。
「はい。
戻りました」
私はそう答えて、階段を上がる。
重いはずのドレスの裾が、今夜は不思議と軽かった。
婚約破棄された令嬢が軽く感じるなど、普通はあまりよろしいことではないのだろう。
けれど、ずっと肩に乗っていた見えない重石がようやく外れたようでもあった。
私室へ入ると、机の上にはもう書類箱が三つ並べてあった。
青は公爵家宛て。
白は商会と銀行宛て。
黒は、王太子府関連の記録用。
マリーは本当に優秀だ。
前世で私が処刑されたあと、この子がどうなったのかだけは知らない。
だから今世では、彼女の分まで含めて退路を整えると決めていた。
「決まりましたのね」
ようやく、マリーが小さく訊いた。
「ええ」
私は頷く。
「婚約は解消。
王家への私的保証も、今夜で終わりよ」
マリーがほんのわずかに目を伏せる。
驚きより、安堵に近い表情だった。
この半年、彼女もずっと無理を見てきたからだろう。
「では、契約停止の書状をすべて出します」
「お願い」
「供給自体は止めませんか」
その確認が出るあたり、やはりよく分かっている。
「止める必要はないわ」
私は椅子へ腰を下ろし、最初の書状用紙を引き寄せる。
「止めるのは《《婚約者としての便宜》》だけ。
高純度魔石の納入も、結界院への部材供給も、正規の前払いと正規の保証に戻す。
それだけで十分よ」
十分すぎる、と言ったほうが正しいかもしれない。
ヴァルテール公爵家は、王都結界の補修に使う高純度魔石の大口供給元だ。
名目上は王家の定期買い上げ。
でも実際にはここ半年、王太子府の支払いが何度も遅れ、その都度、私の持参金と公爵家の信用で穴を埋めてきた。
王都結界の出力は待ってくれない。
補修日をずらせば、春先の魔力乱流で外縁が弱る。
だから私は、婚約者としての体面を守るつもりで、自分の名義で先に払ってきた。
王家のためではない。
王太子が無能だと外へ知られないための、見えない化粧だった。
それだけではない。
王太子府の贈答品。
慈善事業名目の宴席費。
派閥貴族との付き合いで生じる不足金。
本来なら殿下の裁量金で賄うべきところを、《《今月だけ》《《次月で埋める》》という言葉で、ずるずると私費で通してしまっていた。
婚約者だから。
未来の王妃になるのだから。
そんな言葉で、私はいつの間にか王太子府の《《見えない財布》》になっていたのだ。
「今月分だけでも、かなりの額になります」
マリーが、黒い箱から一冊の帳簿を取り出して言った。
私が別につけていた抜粋帳簿だ。
「はい。
だから今夜で終わり」
私はペン先へインクを含ませた。
「殿下は《《大した額ではない》》とおっしゃったもの。
でしたら、明日からもきっと問題なくやっていけるのでしょう」
言いながら、自分でも少しだけ笑ってしまう。
皮肉だった。
でも、皮肉を言えるくらいには今の私は落ち着いている。
前世の同じ夜、私は泣き腫らしたまま何もできずにいた。
その違いは大きい。
私はまず、公爵家本邸の父宛てに書き始めた。
婚約解消が正式に告げられたこと。
王太子府関連の信用供与を即時停止すること。
結界院向け高純度魔石については、王家からの正規支払いが確認できる場合のみ継続すること。
王太子府の不足分は、今後一切ヴァルテール家では補填しないこと。
字は不思議なくらいまっすぐだった。
震えも滲みもない。
この半年で、こういう類いの書状を書く覚悟だけは、ずっと温めていたからだろう。
「お父様はお怒りになるでしょうか」
マリーが小さく訊く。
「怒るでしょうね」
私は即答した。
「でも、私にではなく、こんな状態になるまで見逃していた自分にも怒るはずよ。
お父様は数字には甘くないもの」
その点だけは信頼していた。
父は、私の婚約が王家と家門の利益になるから認めていただけだ。
その婚約が破綻し、しかも公爵家の金と信用が使い潰されていると知れば、情より先に収支で判断する。
そういう意味では、頼れる人だ。
次に私は、王都第一銀行と魔石商会へ向けた文書を整えた。
私の私印による王太子府保証は今夜限りで失効。
以後、同印による追加保証は無効。
緊急搬入品は、国庫印または王家会計長の正規印がない限り差し止め。
文面に迷いは要らない。
曖昧さが残ると、こういう場面ではそこから悪用される。
マリーが封蝋の準備をするあいだ、私は黒い帳簿を開いた。
そこには、王太子府の不足金の流れが日付順に整理されている。
誰が命じたか。
誰が受け取ったか。
何の名目で処理されたか。
どの支出が、どの本来予算から抜かれたか。
そして足りなくなった分を、誰の名で埋めたか。
前世の私は、これを残さなかった。
いや、残しても意味がないと思っていた。
婚約者に逆らった悪役令嬢が処刑される場で、正しい帳簿など誰も見ないと思っていたからだ。
でも今世の私は知っている。
《《見ない人間がいる》》のと、《《見れば止められない数字がある》》のは別だと。
証拠は、そろっていれば武器になる。
泣き声より、数字のほうが王宮では長く残る。
「封箱の中身、本当に全部お渡ししてよかったのですか」
マリーが封蝋を温めながら訊いた。
「ええ」
私は頷く。
「抜粋だけでは《《言い逃れ》》ができるもの。
全部渡してしまえば、誰がどこで改ざんしても筋が崩れる」
「監査卿殿下がご覧になるとお考えで?」
「ええ」
私は短く答えた。
夜会の広間の端で、あの灰色の瞳が封箱を見ていたことを思い出す。
王弟ユリウス殿下。
監査卿。
私は直接お話ししたことはほとんどない。
でも、王宮の会計係たちが、数字の辻褄だけはあの人の前で絶対に誤魔化せないと恐れているのを知っている。
ならば、渡す相手としては十分だった。
「もし誰にも見られなければ?」
「そのときは、そのときよ」
私は帳簿を閉じた。
「でも、その場合でも私はもう戻らない。
どのみち立て替えは終わりだもの」
そこは最初から決めていた。
もし誰も助けてくれなくても、私はもう王太子府の穴埋めには戻らない。
戻った先にあるのは、前世と同じ処刑台だけだ。
マリーが、封箱へ最後の封蝋を落とした。
赤い蝋は熱を帯びて艶やかに光り、やがて固まる。
その様子を見ていると、不思議と胸の内側まで固まっていく気がした。
もう揺らがない。
ここから先、王太子府が何を言ってこようと、私は自分の名と金を差し出さない。
「旅行鞄も出しておきますか」
マリーが次の確認をする。
「ええ。
三日以内には領地へ戻るつもりでいて」
「王都へ残られないのですか」
「残ったら捕まるかもしれないもの」
私は淡々と言った。
冗談ではない。
前世では、婚約破棄のあとに私はほとんど拘束のような形で王宮へ留め置かれ、そのまま罪を被せられた。
今世はそうさせない。
必要な書類を出し、契約を切り、退路を確保して、いつでも去れる形を先に作る。
生き残るためには、その順番が大事だ。
私は机の引き出しから婚約指輪を出し、小箱へ入れた。
石は綺麗だった。
でも、見ているだけで帳簿の赤字が思い浮かぶようになってから、これはもう贈り物ではなく負債の印にしか見えなかった。
窓の外は深い夜だった。
街路の灯りもまばらで、王都の輪郭が暗闇の向こうへ溶けている。
あの方向に王宮がある。
アルノルト殿下は、今ごろまだ自分が優位に立っていると思っているのだろうか。
それとも少しは、私の最後の一言の意味を考え始めているだろうか。
どちらでもいい。
明日の朝には、嫌でも分かる。
「お嬢様」
マリーが、白い封筒の束を整えながら言った。
「ひとつだけ、よろしいですか」
「何?」
「悔しくはありませんか」
その問いに、私は少しだけ考えた。
悔しくないと言えば嘘になる。
前世で一度死ぬほど、私はこの婚約のために自分を削ってきた。
今世だって、好きでもない計算をしたわけじゃない。
王太子妃として国を支える未来を、どこかでは真面目に考えていた。
「悔しいわ」
私は正直に答えた。
「でも、それ以上に、ようやく終われると思うとほっとしている」
マリーは何も言わなかった。
ただ、いつもより少しだけ丁寧に、私の机の上を整えた。
彼女なりの慰めなのだろう。
私はその静かな手つきを見ながら、ああ、こういう人を前世では守れなかったのだなと思った。
夜が明ける前に、すべての封書と封箱の準備は終わった。
父への急使。
銀行宛て。
商会宛て。
結界院用の事前通知。
そして、王宮で開かれるべき黒い封箱の写しは、もう一組だけ私の手元に残した。
最後の蝋が固まるころには、窓の外がうっすらと青み始めていた。
春の朝は来るのが早い。
私は肩を回し、冷めた茶を一口飲んだ。
舌に苦みが残る。
でもその苦さは、今の私にはちょうどよかった。
「少しだけお休みになりますか」
マリーがそう言ったときだった。
屋敷の正門を、激しく叩く音がした。
まだ夜明けの鐘も鳴りきっていない時間だ。
普通の訪問客ではない。
私はカップを置いた。
マリーが窓際へ寄り、わずかに幕をずらす。
青ざめた顔で振り返った。
「王宮の紋章つきの馬車です」
思ったより早かった。
でも、あり得ないほどではない。
王都結界の補修は朝一番で回る。
そこで魔石の搬入保証が止まっていれば、最初に悲鳴を上げるのは当然あちらだ。
廊下を走る足音が近づく。
若い従者が、息を切らして扉を叩いた。
「お嬢様!」
「ええ」
「王宮から急使です!
《《結界院への魔石が止まりました》》と!」
私は立ち上がった。
ようやく、最初の数字が表へ出たのだ。
「通しなさい」
声は驚くほど静かだった。
たぶん今の私は、婚約破棄された令嬢というより、ようやく決算日を迎えた会計係に近い顔をしていたと思う。
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