第一話 婚約破棄を承知いたしました。では、王家への立て替えは本日で終了です
先日投稿した短編、『婚約破棄を承知いたしました。では、王家への立て替えは本日で終了です』の連載版です。
全8話程度の中編となる予定です。
「セシリア・フォン・ヴァルテール。
君との婚約を破棄する」
春の夜会は、その一言で綺麗に静まり返った。
磨き上げられた大理石の床も、天井を埋めるシャンデリアも、楽団が奏でていた弦の余韻も、すべてが一瞬だけ止まった気がした。
視線という視線が、王太子アルノルト殿下と、その婚約者である私へ集まる。
殿下の隣には、最近《《癒やしの聖女》》と持て囃されている伯爵令嬢ミレイアが寄り添っていた。
淡い金髪。
可憐な微笑み。
そして胸元には、見覚えのある大粒の蒼玉。
王都結界の補修予算から消えた金額と、ほぼ同じ価値の首飾りだった。
「……承知いたしました」
私は、ゆっくりと頭を下げた。
前世の記憶が戻った日から、この瞬間が来ることは知っていた。
ここで取り乱せば、悪役令嬢の出来上がり。
嫉妬に狂い、聖女へ危害を加えようとした愚かな婚約者として断罪される。
そして最後は、王都の広場で処刑。
だから今世では、泣かないと決めていた。
怒らないとも決めていた。
ただ静かに、この破滅の舞台を降りる。
それが私の生存ルートだった。
「ずいぶん素直だな」
アルノルト殿下が眉をひそめる。
たぶん、泣き縋られるか、ミレイアへ喚き散らされるか、そのどちらかを期待していたのだろう。
でも残念ながら、私は前世で一度死んでいる。
同じ失敗を二度するほど愚かではない。
「殿下のお心が定まっているのでしたら、私がしがみつく理由はございません」
私は顔を上げ、完璧な令嬢の微笑みを作った。
「どうぞ、ミレイア様とお幸せに」
場がざわめいた。
ここまで物分かりよく引き下がるとは思われなかったのだろう。
でも、私にとって大事なのは婚約破棄そのものではない。
婚約破棄の《《あと》》だ。
「では」
私は一呼吸置いた。
「王家への立て替えは、本日で終了です」
今度こそ、ざわめきが止まった。
殿下は意味が分からないという顔をした。
ミレイアも、私と殿下の間で視線を彷徨わせている。
もちろんだろう。
この二人は、私が何を支えていたのか、きちんと数えたことがない。
「……何だと?」
ようやく絞り出された殿下の声は、間の抜けた響きをしていた。
「立て替えでございます」
私は穏やかに言う。
「王太子府の不足金。
王都結界の定期補修に関する仮払分。
殿下名義で行われた贈答の未決済分。
婚約者として、これまで私の持参金とヴァルテール公爵家の信用で一時的に通しておりましたので」
「馬鹿なことを言うな」
殿下はすぐに鼻で笑った。
「婚約を破棄された腹いせに、そのような虚勢を張るな。
お前は王妃教育を受けていただけだろう」
「ええ。
ですから、王太子府の《《表の帳簿》》には関わっておりません」
私は頷いた。
「ですが、《《不足した分をどう穴埋めしていたか》》は、私が一番存じております」
殿下の表情がわずかに動く。
たぶん、そこへ初めて引っかかったのだろう。
それでもまだ、危機としては認識できていない顔だった。
「好きにしろ」
殿下は吐き捨てるように言った。
「どうせ大した額ではない」
その一言を、私は待っていた。
「かしこまりました」
私は深く一礼する。
もう撤回はできない。
いま、殿下ご自身がそうおっしゃったのだから。
壁際へ控えていた老執事が、わずかに目を伏せた。
長年王宮に仕える人間は、こういう場で余計な顔をしない。
そのことに少しだけ救われる。
私は袖の内側から、小さな封箱を取り出した。
深い紺の箱に、赤い封蝋を三つ。
すべて私印で閉じてある。
箱はそれほど大きくない。
けれど中に入っているのは、王太子府を三か月で沈めるには十分な数字だった。
「こちらを」
私は老執事へ歩み寄り、その手へ箱を預ける。
「明朝一番で、陛下と監査卿殿下へお渡しください」
老執事の指先が、ほんの一瞬だけ強張った。
意味は分かったのだろう。
それでも彼は何も訊かず、深く一礼した。
「かしこまりました」
そのときだった。
視線を感じて振り向くと、広間の端で灰色の瞳がこちらを見ていた。
王弟ユリウス殿下。
現監査卿でもあるその方は、夜会ではいつも通り壁際に立ち、誰とも群れずに場全体を眺めている。
飾りの多い王宮では珍しい、静かな人だ。
そして数字をごまかせない人だという噂は、本当だと思う。
灰色の瞳は、私の持っていた封箱から、老執事の手元へ移った。
それだけだった。
けれど、十分だった。
あの人なら、明日の朝、それを正しく開いてくれる。
「セシリア」
アルノルト殿下が、苛立った声で私を呼ぶ。
「まだ何か企んでいるのか」
その問いに、私は少しだけ笑いそうになった。
企み。
ええ、そうかもしれない。
でもそれは、婚約者に裏切られた令嬢の浅ましい仕返しではない。
前世で死んだ女が、今世では《《死なないために整えた退路》》だ。
「何も企んでおりません」
私は静かに答えた。
「婚約を解消し、婚約者としての便宜を止めるだけです」
「便宜だと?」
殿下の声が低くなる。
「ええ。
婚約者だからこそ通していた保証です。
解消された以上、もう続ける理由がございません」
ミレイアが、そこでようやく不安そうに殿下の袖を掴んだ。
「殿下……?」
その声には、初めて怯えが混じっていた。
でも遅い。
その首元の蒼玉が、どこから来た金で買われたのかを知ったのだから。
「失礼いたします」
私は二人へ向かって、最後に完璧な宮廷礼を取った。
「どうぞ、お幸せに」
そのまま背を向ける。
靴音を乱さず、裾も引かず、ゆっくりと広間を出る。
後ろでアルノルト殿下が何かを言った。
でも、振り返らない。
もう、振り返る必要がない。
回廊へ出た瞬間、ようやく息を吐いた。
春の夜気が、少しだけ冷たい。
けれど悪くない冷たさだった。
ここで泣いていたのが前世の私。
ここで歩き出しているのが今世の私。
それだけの違いなのに、世界はずいぶん違って見える。
王宮の外へ出れば、馬車が待っている。
侍女のマリーも、実家への連絡も、契約停止の書状も、すべて用意してある。
退路は整えた。
あとは、明日の朝を待つだけだ。
背後の広間では、ようやくざわめきが戻ったらしい。
それが何を意味するのか、アルノルト殿下はまだ理解していないだろう。
でも、明日の朝には分かる。
止まるのは、私ではない。
止まるのは、私がずっと下から支えていた《《あちら側》》だ。
私は夜空を見上げ、馬車へ向かって歩き出した。
明朝一番で、陛下と監査卿殿下へ。
その封箱が開いたときから、王太子府の収支はもう元には戻らない。
面白ければ、ブックマークや評価で応援いただけると嬉しいです。
第二話は20:00に投稿予約します。




