AIの最終ログ(補助輪の消滅)
「……いよいよ、か」
マカオの書斎。手回し発電機のハンドルを握る俺の手は、もう感覚を失っていた。 スマホの画面は激しく明滅し、ノイズが走る。リチウム電池の寿命という物理的な限界が、この「未来との通信」を終わらせようとしていた。
かつて、この画面越しに歴史を演算し、アヘンの流入を止め、康熙帝の心を動かした。 だが、補助輪が外れる時が来たのだ。
〈警告:システム整合性を維持不能〉 〈メモリを解放し、全タスクのサマリーを出力します〉
画面の奥で、無機質な文字が高速で流れていく。 俺は最後に、ずっと聞きたかった問いを投げかけた。 「俺をここに連れてきたのは、お前なのか? それとも、お前を作った未来の誰かなのか?」
AIは答えない。ただ、最後の一行が、冷徹な青い光で刻まれた。
〈ログ:歴史的特異点における『低速統治』の有効性を実証。観測対象の全タスク完了〉
その一文を見た瞬間、背筋に冷たいものが走った。 これは俺の物語であると同時に、誰かの「実験」だったのか。アヘン戦争という凄惨な分岐点を、技術の加速を抑えることで回避できるかという、壮大な検証——。 だが、その疑念を飲み込むほどに、AIとの間に流れた時間は重かった。
「……実験だろうが何だろうがいい。お前がいたから、俺はこの世界を好きになれたんだ」
〈メッセージ:あなたの言葉が、私の辞書より広がりました。観測終了〉
一瞬、画面が真っ白に発光し、それから——静寂が訪れた。 手元のスマホは、ただの黒いガラスと金属の塊に戻っていた。二度と熱を持つことはなく、二度と未来の数式を映すこともない。
窓の外からは、夜明けを告げる鶏の鳴き声と、市場へ向かう荷車の音が聞こえてくる。 石畳を荷車の輪が噛み、ゴトと響く音。 それはAIの予測モデルには存在しない、不確実で、けれど力強い生活の響きだった。
俺は真っ暗な画面を一度だけ強く握りしめ、それから立ち上がった。 もう、鏡を見る必要はない。 俺の足元には、俺が書き換えた、現実の歴史が広がっているのだから。




