平和は、私の不在を必要とする
画面が消えた。 あとに残ったのは、網膜に焼き付いた青い光の残像と、不自然なほどの静寂だ。
「……本当に行っちまったのかよ」
俺は、漆が剥げかけた手回し発電機のハンドルに触れた。もう回しても無駄だとわかっている。鉛蓄電池は空になり、化学反応の熱も冷めきっている。スマホの黒い鏡面には、21世紀の孤独なオタクではなく、1800年の湿気にまみれた宣教師助手の顔が映っていた。
不思議と、涙は出なかった。 ただ、胸の奥がひどく軽くなっていた。AIが最後に残した『平和は、私の不在を必要とする』という言葉が、すとんと腑に落ちたからだ。
高度なAIも、俺が持っていたスマホのデータも、本来はこの世界の「速すぎる成長」を支えるための歪なツールだった。だが、今のこの世界はどうだ。
構造の変化: 会社、金融、海軍、国家を繋いでいた「略奪の連鎖」は、地味な『則例(SOP)』によってせき止められた。
富の分散: 一点突破の軍事技術ではなく、多港通商による広範なインフラへと資本が流れている。
音の変化: 夜の静けさと、昼の規則正しい荷役の音。
「お前がいなきゃ未来が描けないなんて、そんな脆い平和じゃなかったんだな」
俺は立ち上がり、AIからトレースした「青い地図」を丁寧に畳んだ。 これからは、最適解を教えてくれる補助輪はない。次にどの港で関税のスパイクが起きるか、どの役人が癒着を始めるか、自分の足と目、そして相棒の吏員や薬種商の報告から読み解かなければならない。
窓の外では、マカオの夜明けが始まっていた。 帆縄が風に鳴る。それは100年後の爆音ではなく、今、この瞬間を生きる人間たちの生活の音だ。
「……よし。行こう」
俺は、暗闇に慣れた目で扉を開けた。 補助輪は消えたが、俺の足の下には、俺たちが作り上げた「則例」という強固な道が、どこまでも続いていた。




