第37話(潮音、退役するってさ)
生体ID。
生体ID専用チップに血液を吸収させることで初めて起動し、以後その個人以外に使用出来なくなるという、超高速演算処理能力を兼ね備えた、万能型特殊バイオチップである。
これを携帯型端末に利用することで、今までとは比べ物にならないレベルの高セキュリティーと個人認証を両立させた2090年代における最先端テクノロジーなのだ。
その様な原理故、個人情報を登録する必要が無いので情報流出の虞が無く、しかも、いちいち指紋や網膜、その他個人を特定する認証システムも不要で、利便性が極めて高い。
だが、一度個人設定された生体ID専用チップが、どのようにしてその個人を特定し続け、種々の演算処理をしているのか等は、技術的な極秘事項となっており、その作動原理の詳細は不明とされている。
「上条彩雪音が、テロ組織に協力したということですか? 自身の血液を提供して」
「いや、それだけでは生体IDの認証機能を使えないぞ。 一度設定起動したバイオチップは当人が直ぐ側にいない限り、作動しないのだから」
「では、今回のテロの実行部隊に上条彩雪音が居たと?」
爆弾テロ現場となった七井記念ホテルの玄関からは少し離れた場所で、国防航空宇宙軍特別部隊の面々が、司令官によって開示された犯人に繋がる情報を巡って、議論が生じていた。
「まあ、よく分からないわね。 ただ流石にこれ程の死傷者が出るようなテロに、上条財閥の傍系一族の御令嬢が直接関与したとは思えないから」
司令官の潮音が自身の意見を述べ、飛躍した議論を制する。
一応念の為に、上条彩雪音の現時点での所在を、附属高の理事長立花美月に確認依頼。
すると、学校敷地内の上条一族だけが利用出来る専用建物内の自身の居室に居ることが確認出来たとのことであった。
ただ、その表情は顔面蒼白で、美月が色々話し掛けても何も答えなかったという。
「生体IDの関係は、私の関係者に詳しい人物が居るから、どのような可能性が有りえるのか、後で確認しておくわ」
潮音が、その場に居るみんなに予定を説明する。
最新技術に詳しいのは、実は財閥当主の莉音なのだが、流石に鏡水といちゃいちゃしているタイミングで問い合わせるのも野暮なので、ある程度事実が明らかになった時点で質問することに。
ただこの時点で鏡水と親しい石音には、事前の彩雪音の行動が概ね見えてきていた。
先日、幼楓が入手した鏡水が学校を休んでいる時の彼女の動きや、今までの附属高における立場や行動を総合的に鑑みれば、結論は一つであるとほぼ断言出来る。
そんな議論のところに、国防陸軍対テロ特殊部隊の億夢大佐が少将の存在に気付き、潮音の背後から感謝を述べる為近付いて来た。
「秋月少将閣下、お久しぶりです」
いきなりの大声での挨拶に、ビクッとした潮音。
振り返って、いきなりポカりと大佐の胸を叩く。
「ビックリさせ過ぎよ。 心臓が止まったらどうするの?」
「ひとこと感謝を申し上げねばと思い、お声がけしました」
「お声がけね〜。 別に感謝されるようなことしていないわよ」
「大きな被害を伴うテロが発生させてしまった我等の不手際を、少将以下特別部隊の方々に助けて頂いたことへの感謝です」
「そういうことなら、この子達に言って。 建物の倒壊を防ぐと共に、救護活動をし易く現場を整備したのは、この2人の異能のお蔭なの」
それを聞き、億夢大佐は幼楓と石音に対し、直立不動で敬礼をする。
2人も慣れない答礼を返すと、大ベテランの軍人である億夢大佐は、何だか嬉しそうな表情を浮かべていた。
「なる程。 こちらのお2人が例の石我輝大要塞の件の功労者なのですね。 これで安心して少将閣下も退役出来るという訳ですか......」
その感嘆に頷く潮音。
退役云々について初耳だった億夢大佐以外の者は、みんな一様に驚く。
「私は来春退役予定なのですが、少将閣下も退役するらしいとの噂を聞きまして。 小官は十八年前、碧海の女神様の強力な援護が無ければ、都京島で死んでいた身。 その御礼をいま一度申し上げたくお声がけしたのです。 その様な機会が今後なくなるでしょうから」
そう言い残すと見事な敬礼をもう一度した後、ホテルのロビー内へと向かう。
億夢大佐は対テロ特殊部隊の大隊長であり、現場で最後の陣頭指揮をとるために、到着したばかりであった。
「少将、退役されるのですか?」
「俺達はどうなるのです」
急な質問攻めに苦笑いを浮かべる潮音。
「みんな、私の見た目が美し過ぎるから忘れていたみたいだけど、来年で定年の58歳になるのよ」
「でも」
「航空宇宙軍特別部隊って、私の特別な能力を知った軍が、手放したくないが為に作った所属。 でも、何の因果か分からないけど、今私の横にいる2人の若者が新たな異能者として登場。 この2人が無駄死にしないように仕事をするのが、知久四大佐以下、次代の特別部隊の任務となるでしょう。 総司令も退役されるし、話の通じる古い人達が去ってしまうから、色々と大変なことが増えるでしょうけど、頑張ってね」
潮音は幼楓と石音の2人の頭をくしゃくしゃにしながら、自身を含めた部隊の今後についてを初めて語ったのだ。
実は、薄々そういう感を抱いていた知久四大佐。
敬愛する上官の決断を聞きたくないと、知らぬふりをしてきたのだが、今、それを聞き男泣きとなってしまっていた。
流石に困った様子の潮音。
「まあまあ、落ち着いて。 私の場合は、予備役編入ってだけよ。 非常事態時には現役復帰するから......」
と言い繕い、何とか宥めようとするも、テロ現場に応援で一緒に来た十数名の隊員も、大佐の涙につられ、全員が涙顔に。
そうした光景を少し羨ましそうに見詰める石音と幼楓。
そして、自分達の親代わりの潮音が部下達に慕われていることを改めて嬉しく思うと同時に、先程挨拶に来た億夢大佐が、今回のテロ事件発生の責任をとって、定年を迎える前に辞職する決意を固めているからこそ、潮音に最後の挨拶をしたのだと気付いたのであった。
落ち着きを取り戻してから、改めて指示を出した潮音。
知久四大佐以下三名は潮音や幼楓、石音と共にテロリスト3名を仮収容した航空宇宙軍の施設に向かい、残りは全員億夢大佐の指揮下に入ることとなった。
テロ事件は潮音達の管轄外であるが、手を突っ込んでしまった以上、ある程度ケリを付けておくのが潮音の流儀である。
ひとまず、航空宇宙軍本部に向かう一行。
緊急避難的措置であれば、現場判断も許されるが、これ以後は潮音の上司である櫂大将に報告して許可を得ておかねばならない。
テロ発生で本部待機となっている総司令の元を訪れた潮音。
石音と幼楓を伴ってである。
「2人には任務成功の感謝をまだ伝えていなかった。 ありがとう、秋月潮音に協力してくれて。 それと事情は全て了解した。 いつもすまないな少将」
「今回の時間外勤務は、我が子可愛さからですよ。 莉音に死なれたら、悲嘆にくれちゃいますし」
「本音は、莉音君に大怪我された場合、財閥の仕事に支障をきたすってところだろ?」
図星を突かれて苦笑いの潮音。
「蠣崎大将閣下への報告も、私の方で致しましょうか?」
「今後判明するだろう結果報告は直接してやってくれ。 現在までの状況報告は、私の方でしておくよ」
「助かります」
「軍と警察、どっちがテロ事件捜査の主導権を握るべきか、それは統合作戦本部長が相手方と駆け引きして決めることだからさ」
そう答え、肩を竦めた櫂大将。
政治的な判断は、自身の管轄外だと言いたいのだ。
「ですと、巡り巡って結局私のところにお鉢が回ってきそうですね」
「きっとそうなるだろう。 上条財閥が絡むとなれば、蠣崎大将の手に負えず、大御所様の出番になるさ」
2人の会話を聞き、不思議そうな顔をみせた石音。
思わず質問してしまう。
「大御所様って誰?」
「私のことよ、璃月財閥の最高権力者」
「ええ〜」
「あれっ、話して無かったかしら? ああ、この間鏡水に話したから、2人にも話したと思っていたわ」
「良いのか? 結構長い間、一応秘密にして来たのだろ?」
「さっき、億夢大佐に私が退役したがっているってバラされちゃいましたし、軍での役目が一区切りつけば、元の地位に戻らざるを得ませんし」
「潮音の場合、退役すればただの民間人っていう立場では無いものな。 『碧海の女神』の英雄譚を返上し、璃月詩音に戻るだけか......」
「大将閣下のように楽隠居出来ないのが、あまりにも残念で」
そんな会話をしていると、拘束した3人のうち、女が意識を取り戻したと連絡が入る。
「ここで、尋問を開始しても宜しいですか?」
「敵の捕虜を術で尋問した昔みたいにやるのか?」
「法的には無効ですが、真実を知るには有効でしょ?」
「わかった。 この場所と機器を貸すよ、詩音」
航空宇宙軍本部は、璃月財閥が建設した軍事基地であり、当時財閥当主だった潮音の意見や要望もかなり反映されている。
そうした一つの反映例として、総司令の部屋のモニターから、航空宇宙軍関連施設のあらゆる場所を見ることが出来るのだ。
慣れた手つきで機器を操作する潮音。
普段は、ハイテク機器の扱いが苦手な感じを醸し出しているが、実は相当なエンジニアでもある。
あらゆる魔術(超高度文明の成果)を使いこなせるのだから、当然っていえば当然。
直ぐに、3人のテロリストの監視カメラ映像と音声が、総司令の部屋のモニターに映し出される。
あとは、魔術で遠隔尋問。
3人は知っている事実を全て白状させられてしまうのだった。
「そういうことか......生体IDを使えば、上流階級のパーティー出入り自由になるのは当然だが......」
何も知らなかった櫂大将が、思わず呟いてしまう。
「生体チップに欠陥が有るのかしら? であれば、由々しき問題ね」
潮音は大御所としての立場からの感想を述べる。
もし、今回のように他人が生体IDを成りすましで使えるのであれば、世界中の富裕層を巻き込む大問題になりかねないからだ。
「上条財閥系列企業製固有の問題のような気がします。 僕はその様な世界に縁が無いからよく分かりませんが、テストを繰り返した上で、実用化されているのですよね?」
「もちろんよ」
幼楓の問い掛けに潮音が答える。
「そもそもですが、上条彩雪音は超小型携帯端末を使っているのでしょうか?」
「彼女の家の財力では、許可基準が厳密に管理されている生体ID使用許可が下りないわ。 最低でも一億AMドルの資産が無いとダメね」
「やっぱり」
「なのに、彼女の生体IDが存在するのが大きな疑問ね......」
一連の会話を黙って聞いていた石音。
ここで初めて自身の考えを述べ始める。
「潮音ちゃん」
「どうしたの、石音」
「彩雪音は、鏡水のことをかなり逆恨みしているわ。 それに流月のことも」
「流月もなの? 2人は仲が良かったじゃない?」
「大火傷した筈の莉音さんが、何とも無いことを知り、鏡水との仲を裂いて自身がそのポジションに在りたいって思い詰めていたの」
「あのお見合い話が悪かったのね。 上条の御当主から持ち掛けられて、キッパリ断れなかったの」
「あの人達のお決まりのやり方だけど、水を学校内で孤立させようとしたのよ。 でも、流月が協力を拒んだの。 莉音さんの意向に従うって」
「あの流月が? 本当に?」
「間違いないわ。 楓ほど上手じゃないけど、私も附属高の壁さんにお願いして、学校内の情報把握に務めているから」
それを聞き、目を見張った潮音。
思わず櫂大将の方を見てしまう。
2人の能力は、潮音達軍幹部が考えている以上に成長しているらしいからだ。
「詳しくは分からないけど、鏡水と流月を襲ってくれるよう、第三者に依頼したみたいよ。 それで、2人が出席するとかしないとか大教場で話していた今回のパーティーが狙われて、結局テロ被害に遭ったという流れかな? 彩雪音の個人的な逆恨みがとんでもない事件を引き起こしたの」
石音の考えを聞き、上条彩雪音の名前が出て来た理由が理解出来た一同。
「そういうことか......死んだ者達に対する何の供養にもならんが、私達の間でだけでも、真実は明らかにしておくべきだな」
再び同じような言葉を口にし、方針を示した櫂大将。
潮音は、上条彩雪音の生体IDが存在する理由やそれが『日出る国』に渡った流れを璃月財閥大御所という立場を使って調べ、全容を解明すると総司令に伝えたのだった。
総司令のもとをお暇して、知久四大佐等と合流した潮音。
今回のテロ事件は、確保した3人を尋問の結果、国内最大のテロ組織『日出る国』が引き起こしたことが判明したと説明し、総司令の指示で、あとは軍の専門部署や捜査機関に任せる方針になったと話す。
航空宇宙軍特別部隊としては、これ以上出来ることが無いからだ。
「わかりました。 ひとまず今日は解散という訳ですね。 現場に残した連中を除いて」
大佐は潮音の意向を汲み取り、その様に答える。
「私は生体IDの件で、もう少しやることが有るけど、これは軍務では無いので、それは理解してね」
巻き込んでしまってゴメンと潮音は謝罪する。
やがて、財閥側の迎えのヘリに石音・幼楓と共に乗り込むと、航空宇宙軍本部基地から去ってしまう。
「行っちゃいましたね〜」
「仕方がないさ。 司令官は出向中の身だし、いつも神出鬼没だから」
「でも、退役云々って話、どうなるのでしょうか?」
「残念だけど、来年早々には退役するのだろうな」
「有給消化を考えれば、残り三ヶ月。 もう一緒に仕事をする機会、無いのかなあ」
「今晩を最後にしたい。 司令官はそう願っているさ」
「ですね。 でも、名豊に一杯喰わせた時は本当に楽しかった。 あの活気をまた味わいたいです」
「俺も」
残された3人は、自分達の職場に戻る車両の中で、そんな会話をしていた。
彼等がそんな軽口を少し後悔するようになるのは、僅か1年余り後。
潮音が退役して居なくなり、京頼石音と神坂幼楓が所属する為の組織としての新たな特別部隊となって以後、それまで潮音がいかに大きな防波堤であったのかを思い知ることになる。
高級軍人達が自身の立身出世の為、先ずは石我輝島周辺の奪還を狙う無謀な作戦が次々と立案され、そこに巻き込まれてゆく知久四大佐以下の面々。
やがて、大きく成長した石音と幼楓が、鏡水や詩音の助力を得ながら、国防軍右派の思惑を蹴散らして、潮音のように作戦の主導権を奪うようになるのだが、その話は今小説の範囲外なので、有ればまた別の機会に。




