僕の説明書 四
僕が見たのは、何時もの光景だった。
厭なもの。
苦虫を口で噛み砕いたような渋い顔つきをした僕は、
半開きになった扉を見て、どうしてくれようか、と溜め息をついた。
屋敷内のほとんどの人がそこには集合していた。とは言えども、せいぜい5人くらいだが。
最初は10人ほどいたのだが、僕はそれを嫌がった。
実質、僕が減らしたようなものだろう、罪悪感なんてこれっぽっちも有りはしないけど。
ああ、どうでもいいけど、僕だけは巻き込まないで。
前、今日と同じことが僕の目の前で起きてしまった時に僕が執事兼取締役補佐の柳井に吐き出した言葉。
それを覚えてくれていたのだろうな、と感心する。前の時なんて、僕の名前がちらっと出ただけで僕の室内電話にかけてきやがったもんだから、僕の機嫌はそれからなかなか直らなかった。
プライベート用の携帯にかけて来なかっただけましか。
室内電話は三回しつこく鳴り響いたけど。
ともあれ、今僕が目にしている景色はあまり関わりたくないものだし、出来れば感知したくもない。
出来ることなら。
「あああ、ああああああ、あきぃ、あきぃ、う―…っ、ううううう、わああああああああ、わあああああああ、せんせぇっ、どうしてっ、どういうことな…」
扉を閉めた。
ちっ、と舌打ちをしてしまう。
五月蝿い、五月蝿い、あれは毒を発生させて、周囲に撒き散らしているようなものだ。
――姉さん。
正真正銘、戸籍上は僕の姉だ。
血はつながっているらしい、辛うじて。
本当の兄弟ではない。あれは従姉。養子としてこの屋敷に侵入した奴。
「近頃酷くなりつつあるな…、やっぱ反動か?」
ぼそりと、誰に向けた訳でもなく呟いた言葉に、返事が返ってきた。
「そうですね。最近は、おやりになるべき事が増やされたからだと。
…加奈子様には荷が重いのですよ。うまく出来ているようで、内心は…」
あんなふうだ、とでも言いたそうに、柳井は扉の奥を見据えるような目をする。
「そんなの、あの家庭教師が悪いんだ。
いきなりあんなこと言い出すから。あいつはあの家庭教師を心の寄りどころとして定着させかけていたのに。うまくいってたのに、なのに、あのくそ男が…っ」
胸くそ悪い。
感情を吐き出したことで次々と胸に溜まっていた鬱憤が出ようとしていた。
柳井はいつも冷静な顔を少しだけ歪めて、
「それだけでは有りません。」
と言い切った。
一瞬、こいつは何を言っているのか、と思考が停止した。
それほどまでにあの男の事が頭を支配していたと気づいて、更に気分を害する。
「じゃあ、あいつの症状の原因は、他には何がある。」
言いにくそうな表情を少しだけ見せた。
次には、覚悟を決めたかのような顔つきになった。
「あなた様です。秋月 紅様。」
なんだ。結局全ては僕のせいなんじゃないか。
扉を再び開ける。
涙を滝のように流しながら、髪を振り乱すといった鬼のような相貌をして、辺りのものを壊しまくっていた。
2、3人の人々が宥めてあいつの凶行を止めようと必死になっているが、どうにも刃物を振り回されては、あいつ自身、つまりは次期当主に傷付けるようなことをしてしまったら、と怯え腰になっている。
僕は広間の真ん中で暴れている姉のところまで歩いて、柳井から冷たい水を受けとった。
刃物を振り回す手を掴んで、姉の頭から水をかけた。
姉の髪からは水が滴り落ちた。
服も濡れてしまったようだ。薄い若緑色のワンピースをきた姉の、華奢な身体つきが露わになる。
みすぼらしい、と思った。
僕以外はどう思ったかは知らないが、周りの奴は、慌てて姉の体を隠そうと上着を肩に掛けた。
水を僕がかけた瞬間から、姉はすっかり大人しくなっていて、さっきまでの錯乱状態が嘘のようにおしとやかな女性に変わっていた。
姉の得意技だ。
外見はそれなりにいいから何とでも取り繕って、内側に秘めた狂気なんて微塵も感じさせないのだ、
本当に気持ち悪い。
とりあえず僕が来ると、姉は落ち着くという仕組みになっているため、僕が毎度呼ばれるような事がまかり通ったのだ。
―こいつ、わざと僕の手を煩わしてるんじゃないか。
そう思ったのが前の時。それからは柳井に僕を呼ばないように厳命していたため、1日の報告に何回か入っていただけだった。
柳井には、父には絶対に言うな、とも厳命している。
ばれてしまったら其処までだが、姉はそんな下手な真似はしない。外に出たら終始同じ笑顔を取り繕って、錯乱することなんてない。
医者から処方された精神を安定させる薬と、姉自身の強い意思がそうさせている、と医者は言っていた。
このままではいつか壊れてしまうでしょう。
心の寄りどころをお作りになられれば、少しは良くなるでしょうね。
という医者の忠告を聞き入れ、閉鎖的なこの屋敷に家庭教師なんぞを雇った。
誰でも良かった。
素行に問題がなく、普通の奴なら。
誰か、気軽に話せるような奴を用意したくて、姉と年が近い大学生を雇ったのだ。
なのに、来たのは、一見して見目麗しい、あいつだったのだ。
本当に失敗だった。
無駄に広い玄関口で、最初に奴を招き入れた時から、少し嫌な予感はしていたのだ。
僕の顔を見るなり、嬉しそうに顔をほころばせて、可愛いですね、なんて言ったのだから。
それでも、それからは出来過ぎなぐらい事がうまくいった。
あいつは姉の懐柔を上手くやってのけ、姉はあいつに惚れ込んでいた。
顔だけじゃない。
姉に見せる優しさが、姉の心を許させた所以だろう、と遠目から見ていた。
嫌な予感なんてその頃にはどこかに飛んでいて、僕は姉の事を考えなくて済むと、安易に考えていた。
事が起こったのは半年前。
僕が部屋で仕事をしている時だった。
いや、予兆は既に起こっていたのかもしれない。
あいつが、部屋に入ってきたのだ。
誰も入ってくることがないため、滅多に開かないその扉。
加えて、僕の部屋は屋敷内で、最も離れたところにあり、周囲の部屋は物置となっているため、近くに人はいない。
柳井ですら、僕に遠慮して室内電話などというもので用件を述べるのだから。
だから、僕は呆然としていた。
あいつが、大きなベットに座り込む僕の前まで来ても、反応出来なかった。
僕は気がつくと、白いシーツの上に、両手を掴まれて押し倒されていた。
そいつは、細身の癖に思いのほか力が強くて、僕は振り解くことは出来なかった。
整った相貌が、真正面から僕を見つめていた。
「…なんだ、お前。
一体、何をしに来たんだ。
…誘拐か?」
くすり、と可笑しそうに小さく笑った。
「それも大変心惹かれますが…。
…鍵の事は聞かないんですか?」
鍵。確かにかけていた鍵はこいつに開けられた。
「お前、一回僕に会いに此処までやってきたことがあっただろう。
その時に作ったかもしれないなんてことは、予想済みだ。」
こいつは周りから信用を勝ち取り、僕の部屋の鍵まで借りることが出来たのだ。
こいつが前に僕の部屋を開けた時から、嫌な予感がしていた。
「でも、納得が行かない。
僕の部屋の合い鍵を作ったとして、どうするのか。
他人に売り渡すにしても、僕は次期当主じゃないから、姉に比べて価値は劣る。
ならば、姉を懐柔してのけたお前が、それ以上望んで危ない橋を渡るだろうか。」
そいつは少し驚いたような顔をして、やっぱり、と呟いた。
掴まれていた両手に力が入る。
「秋月様が、本当は次期当主なんでしょう。
…加奈子様はただの身代わり。
いえ、身代わりにすらなれない只の人形。
あれはそんなに器が広くない。」
一切の感情を削ぎ落としたそいつの顔は、やはり美しかった。それと同時に、優しさを向けていたと思った加奈子に対して、こうまで言えることが驚きだった。
「た、確かに、僕が次期当主、だった。
でも僕は自ら辞退したんだ。
従姉を姉に仕立て上げて。
だから僕には、本当に何の価値もない。
…それに、あれは上手くやっている。経営に関してはまだまだだが、人付き合いは、」
「そうですね。
人付き合いはうまくなさってますよ?
…経営などは、お父様が紅しか認めてくれない、紅よりも出来ないと駄目なんだ、と、いつも嘆いてますよ。
加奈子様が、紅は出来るくせにやらず、私よりも苦労せずにやり遂げてしまうと、劣等感を抱いたらっしゃるのは、ご存じないでしょう。」
それに、とつけ加えて、そいつは笑った。
「可笑しなことに、あなたは加奈子様よりも人を魅了する力がおありのようだ。」
と呟いて、そいつの顔が僕に近づき、唇が微かに触れてから、名残惜しそうに離れていった。
「…な、何をっ…。
お前、おかしいんじゃないかっ。
…僕がいつ、人を魅了したんだ! 」
必死で唇が触れたことなど微塵も気にしない振りをして、声を上げる。
そいつは、努力も虚しく熟れた林檎のように赤く染まった僕の顔を見て、嬉しそうな表情をした。
「…ほんとに、可愛いですね。
初めてみた時から、一目惚れなんて有り得ないと思いつつも、やっぱり惹かれていました。
…柳井さんなんて、いい例じゃないですか?」
何が。
いっぺんに理解出来ないことを告げられて、僕は頭が痛くなるような思いでいっぱいだった。
「何で柳井?
柳井が、どうしたって言うんだ。」
僕はいつも冷静で、仕事をそつなくこなし、社長である父の補佐を完璧に勤めている、
綺麗な顔をして未だ独身の柳井を思い浮かべた。
28という若さで彼処まで出世し、僕と姉が住む屋敷にまで住むことが許されたほど、父から信頼された人物。
将来はきっと、婚約者として姉にあてがうつもりなんだろうな、と思っていたのだ。
「柳井さんが、どうして執事みたいな真似、していると思います?」
変なことを聞く。
「知らない。
父から頼まれたかと思っていたが、外れていた。
怪しいとは思ったけど、裏切るなら逐一僕が監視しているから問題はないと思っているし、姉の婚約者となるんだから、おかしいこともないんじゃないか?」
「ほんとに、鈍い人だ。
…人からの好意をここまで気づかないなんて。」
そいつは一回溜め息をついてから、
「柳井さんは、あなたのことが大好きなんですよ。
…僕と同じようにね。」
そう言った。
意味が分からなかった。
たちの悪い冗談よりも更に気に食わないとも感じた。
「柳井が。
…ははっ。有り得ない!
お前、考え方が飛躍し過ぎだ。
なんで柳井が僕の世話をしているからって、そうなるんだ。
そうだな、親愛ならあるかもしれない。
なんせ僕が小学校の頃からの知り合いだしな。」
1人で自己完結しようとするが、そいつはそんなことは許さなかった。
「必死で見ないようにするのも、可愛くていいんですが…。
僕の好意までその癖でないことにされるのは嫌ですからね。
きちんと自覚してもらいます。」
そいつは口元に嫌な笑みをつくり、僕にそう言った。
「思い出すことなんて、なにも…」
ほんとに?
僕の心が何よりも早くそう問いかけてきた。
何だというんだ。
何があるというんだ。
一体、僕が何を見ないようにしていたと、いうんだ。
ただ僕は混乱していたのだ。
そいつの口が首筋にあたっても、なにも反応しなかった。
そいつは悔しげに、
「じゃあヒントをあげましょう。
いつまでも柳井さんの事ばかりだと、困りますから。
柳井さんはあなたの世話しかしていません。
加奈子様の世話は、他の人に任せて、あなたに付きっきりですよ。
よく、あなたを見ていますし。
ああ、あと、あなたが部屋以外で…例えば温室でよく寝ているでしょう、無防備に。
そんな時、寝込みを襲われているの、知っていますか?」
…知っていた。
今、思い出した。
温室の監視カメラをチェックした時に、違和感を感じたから確認してみたら、改ざんされた記録があって。
怪しいと思い、別にもう1つつけておいたのだ。
それには、柳井と僕が映っていた。
僕は呆然とそれを見つめていた。
柳井が僕の上にのしかかって、くまなくキスを落とし、遂には下半身に手を…
僕はそれを忘れたかった。
必死に見ないふりをして、普段はそんな素振りなんて見せないから、と知らない振りをしたのだ。
柳井は、柳井は…、
自然と、涙が頬をつたっていた。
「柳井は、悪くないんだ。
僕が、ぼくが悪い。
…柳井は、優しいんだ。
裏切る素振りも見せないし、僕の我が儘をいちいち聞いてくれる。
嫌なことがあっても、嫌がらずに愚痴を聞いて、慰めてくれるんだ。
だから、」
僕の言葉は其処で途切れてしまった。
涙を流しながら、嗚咽を抑えられない。
「だからこれからも、知らない振りをするんですか?
まあ、別にいいですが。
それより私を見てくれれば。」
はっ、と今更になってようやく気づいた。
この体勢は一体、何をしようと言うのか。
それよりも、さっきこいつは僕に言っていたじゃないか。
柳井が僕を好きなのと同じように、と。
気づいても、もう手遅れだった。
上に着ていたシャツは脱がされ、上半身は何もつけていない状態になってしまっていた。
急速に頭が冷えていく。こいつは危険だと、本能が訴えかけていた。
だから、僕の嫌な予感はあたるというのに。
「好きですよ。
柳井さんみたいに隠したり、あなたにないことにされたりは、嫌なので、」
其処で一回区切って、僕の耳に顔を近づけた。
直接、息が耳にふきかかって、びくりと身体が反応してしまう。
「…録画してますから、思う存分私の腕の中で乱れて下さいね。
朝まで愛し合いましょう?」
ああ、もう手遅れだ、と悟った。
まとまらない頭で、柳井に、助けてと少しだけ思った。
姉を見る。
完璧な彼女に比べて、見劣りしてしまう姉。
まだ髪は水で濡れており、時折寒そうに身体を震わし、細い身体を縮こませている。
――あの家庭教師に捨てられた姉。
あの後、僕はあいつと契約を交わした。
お前とこういった行為をしてやるから、姉と付き合い、騙し続けろ。
その約束は守られたていた。
だが半年たった今、あいつは約束を反故したのだ。
あいつはあろうことか柳井と姉がいる前で、僕が好きなんですよ、と輝かしい笑顔でそう告げたのだ。
有り得ない。
あいつは、本当に有り得ない。
あの日、僕の部屋に仕掛けられていたカメラは回収したが、渦巻く気分の悪さは一向に収まらなかったし、あいつは他にも保存していると言った。
僕はそれが流出することを何よりも恐れた。
僕が何かしようとすると、直ぐにあいつは嗅ぎつけて、行為で僕を黙らせた。
もう限界だった。
恐怖と羞恥が混じり合った感情が、僕の中に居座り続けていたのだ。
学校では何でもないように振る舞いつつも、心は綻びを見せかけていた。
高校二年生になり僕は彼女に出会い、恋に落ちた。
初恋だった。
久しぶりに気分が良く、晴れやかな気持ちよさを味わっていた。
この胸のしこりを取り除いてくれた彼女を思い顔を綻ばせていた時、
あいつに気づかれた。
契約は不履行しますよ、と不機嫌な顔をしたあいつに告げられた。
だが、行為をすればいいだけだろう、僕の心がどこにあろうと関係ないだろうと、あいつに言ったら、
あいつはこの半年で更に貪欲さを増し、あなたの心は私のものです、と言うまでになってしまっていたのだ。
姉は騙されていた事実を知るやいなや、今までは収まりつつあり、安定していた心を大きく取り乱した。
また前に逆戻りである。
いや、それよりひどくなった。
柳井は、休日に僕の食事に睡眠薬を仕込んで事に至るようになってしまった。
目が覚めると、腰のあたりがとても痛んで、起き上がることさえかなわない。
だけど、やっぱり僕は知らない振りをする。
柳井が何時ものとおりに僕に接するから。
あいつは、僕に迷惑しかかけていない。
ほんと、疫病神のような存在である。
あいつの事を考えながら、ひたすらに彼女に会いたいと思っていた。
彼女に会いたい。
あの完璧な女の子に。
彼女がいるから僕は男という意識をかろうじて保てているのだから。
症状が完全に収まっただろう、僕を遠慮がちに見上げる姉を使用人たちに命じて部屋まで連れて行かせた。
ちょうど今は昼時であった。
もう彼女はいないんだけど、と一人呟いてから、昼ご飯にありついた。
柳井が作る美味しい食事を口にしながら、
明日は学校に行かなければ、と思っていた。
――きっと明日はいい日になるだろう。
いい予感に嬉しく思いながら、
僕は意識を手放した。
昼下がり、次に僕は夕方に目覚めるのかな、仕事はそれからしようかな、なんてことも思っていた。




