僕の説明書 一
「千景先生。」
一階の渡り廊下で、目当ての先生を見つけた。
数学準備室に向かう最中らしく、授業で使用したと思われる教科書と資料を片手に持っている。
先生は僕の声に反応して振り向いた。
「どうした?
何か質問か。」
今日は生憎の曇天なので廊下は少し薄暗く、先生の顔は少し見えにくいが、低めの響きやすい声が先生を先生たらしめていた。
先生に近づく。
「この問題の三番の導入部分がわかりません。教えて下さい。」
僕が差し出したノートを上から覗き込んで、
「ああ。いいぞ。
…お前だったのか。
眼鏡してないんだな。」
「…まぁ。コンタクトもいいかな、と。
休みの日なんていつもコンタクトですから。」
思わぬところを問われて、少し反応が遅れた。
「こうなるのは理解できるか?」
「はい。」
「だから、」
先生は解説しながら、胸元のポケットから取り出したボールペンを白い紙に走らせる。
わかりやすい説明で、やっぱり聞いて良かったと思えるほどだった。
ついでだとしても。
「ありがとうございました。
凄くわかりやすかったです。」
先生は少しはにかんで、
「そうか、それは良かった。
また分からないところがあれば質問に来いよ。」
僕はノートを脇に抱えた。
「先生って三組の担任でしたよね?」
先生は不思議そうな顔をしながら、まばたきをしていた。
「ああ、そうだな。
それが、どうかしたのか?」
「少し気になったことがありまして。
三組の研究授業はいつなんですか?」
先生は納得したような顔になった。
「そうか、あいつが見にくるもんな。
…、ん、来週の火曜日だ。」
先生は予定帳を広げて、確認したようだ。
来週の火曜日。
会いたいと思う気持ちも少なからずあるけれど、それ以上に顔すら見たくないと拒絶する自分がいる。
自然と、気持ちが沈みそうになった。
「それにしても、あいつとお前が知り合いだと知った時なんて、驚いたなぁ。
家庭教師だったんだって?」
「…あ、姉さんのですけれどね。」
へえ、と呟く声。
「先生は、同期なんですよね。
大学が一緒だったって、言ってました。」
先生は嬉しそうに顔を綻ばせた。
「そうなんだよ。
あいつといると凄く楽しかったな。
まあ、あいつ人気者でさ、周りに人が沢山集まってたから、俺はそんなに仲良かったわけじゃないけど。」
と言って、苦笑いした。
人気者。
その言葉が誰かと重なるようでいて、でも対照的なその関係性は明らかに異なっている。
よくわからないな。
頭の右側に不意に鉛を落とされたような鈍痛が走り、早々に別れを告げて、足早に教室に帰った。




