彼女は、Ⅸ
本当はくるつもりなんてなかったのに、無意識的に足が向かってしまっていた。
確かに少し困った状況に陥っているが、彼に頼むのも本意じゃない―、なんて先ほどから私の心は言い訳をしている。
――本当に、来る予定なんてなかった。
「…お兄さん。」
かすれた声。
短い距離を走った私の声が、彼を振り向かせた。
彼は不機嫌そうにこちらを見上げている。
ソファに寝そべって、くつろいでいたようだ。リビングの電球は一つしか付けられておらず、昼過ぎなのに夜遅くのような錯覚をする。
「…何だよ。」
「来ちゃいました。」
「…はあ?お前、何しに来たんだよ。
いや、用がないのにお前が俺に会いに来るはずがねぇ。ほら、言えよ。早く。」
そんな風に見られていたとは、甚だ心外である。
彼は催促する手ぶりをしている。
私は彼の近くまで歩いていき、少し憤った私の心中を吐き出すかのように、彼の頭を叩いた。
破裂音が響く。
彼は驚いて叫んでいた。
「…とりあえず、お風呂を。」
身体が悲鳴を上げて、限界を迎えようとしていた。
お風呂から出た私の機嫌は最高に良かった。
身体の隅々まで洗い流し、冷め切っていた身体を温めた上に、生乾き状態で臭い匂いが漂っていたのを払拭できたためだ。
少しお湯を使い過ぎた感じが否めないが、水道代は私に請求される筈もないので、気にしないことにした。
彼が困った姿が目に浮かぶ。
首を振って想像の彼を打ち消し、タオルを首に巻いたままリビングに顔をだした。
リビングには彼がいた。
彼はソファにいなかった。
辺りを見渡しても彼の姿は見られない。
濡れたままの髪の毛をタオルでゴシゴシ拭きながら、リビングから脇にある部屋に行った。
―おそらく彼の部屋だろう。
一瞬の躊躇いもなく開けると、人影が見えた。
彼は電話をしているらしい。
奥の方からひそひそとした話し声が聞こえてくる。
「お兄さん。」
軽い舌打ちをする音と、電話をやめたらしい雰囲気が伝わる。
「何だよ。」
彼は面倒そうな顔をしている。
素直だと思う。素直過ぎて若干私を傷つけているけれど。
「探してもドライヤーが有りませんが、ここでは自然乾燥が推奨されてたりします?」
「はあ?
ドライヤー、か?
いや、あるだろ、俺置いてるし。
洗面所の洗濯機の横に籠あるだろ。
そん中に入ってると思う。」
だが残念でした。
少しフフフという心の笑い声が洩れてしまったが、誰も気づいてくれなかった。
「なかったですよ。
そう、なかったんです!
あなたは軽く嘘をついて私を欺くことで後ろから笑うんですね!
押し掛けてきた奴にはうちのドライヤーなんぞ使わさねーっていう意志の表れですか、そうなんでしょう、ねえ…」
途中までで私の言葉は遮られた。
彼の手が私の口から伸びている。
言葉にしようにも全てモニョモニョ言語に変換を余儀無くされ、大変遺憾である。
「あ―…、分かったから、探してやるからお前はリビングでテレビでも見て静かにしてろ。」
その一言に従うしかなかった私は弱者であろうか?
膝を抱きかかえて静かにテレビを見ていた。
見ていると言うにはおこがましく、光の羅列を目で追っていただけに過ぎない。
微動だにしない私の周りの空気までもが停滞して濁ってきたように思う。
まだか。
もう、あれだ、髪は自然乾燥の力で生乾き状態だ。
あいつは何をしに行ったんだ。
私の髪を乾かすためのドライヤーを探しに行ったんじゃないのか。
…私も行くか。
大人しく待っていろという言い付けなど、もって精々五分の効力しか持たなかったことになる。
ソファから足を絨毯に下ろそうとした。
「大人しく待ってろっつっただろ。
籠には入ってなかったが、棚ん中にあったんだ。
ほら。」
と言って私にドライヤーを渡す。
自分で片付けたなら分かるだろうに、もしやこの男、彼女を家に連れ込んでいるのか。
全然そんなの興味ありませんみたいな態度を私の前でしていたのは、嘘だったのか。
だとしたら、この男、なかなかやるな。
「私の前で嘘つくなんて、50万年早いですけどね。」
「は?」「いえ、何でも。」
ともかく髪を乾かさないと。
自然乾燥は髪が傷むらしい、友達が何かのテレビ番組で見ただろうことを私に力説してきたから、間違いない筈だ。
頭に手を伸ばして髪を触る。
「乾いてますね…」
少し遅かった。




