第031話 魔王と勇者の前で
広場の人はもう逃げた。ハトの目の前に残っているのは、シェリザの銀縁眼鏡と菫色の宝石、見知らぬ二人の宝石。それから、三人を石にしたミロだった。
城の塔へ伸びる白い線が、じわじわ太くなる。あの輪が閉じたら、逃げた人も城下町ごと宝石にされる。
「シェリザを返せ!」
ハトが叫ぶと、ミロは椅子の背を拭う手を止めた。
「あの方は安全です。あなたも、どうかこちらへ」
ミロの指がハトへ向く。白い光が走るより早く、ベルダクの半透明の盾が二人の間へ立った。光が盾にぶつかり、広場の石畳を削る。椅子が三脚、吹き飛んだ。
「余の民に触れるな」
魔王ベルダクは盾を下げない。もう片方の手で、ハトを後ろへ押した。
「ハト君、下がって」
アルディオが剣を抜く。白い上着の裾が、砕けた石の上で翻った。彼の肩は避難者を運んだ疲れで上下している。それでも剣先だけはぶれない。
「魔王ベルダク。さっきの盾で人が助かったのは見ました。ですが、ボクは人間の勇者です。あなたの部下になったわけじゃない」
「余もそなたを部下とは思っておらぬ。今は、あれを止める」
「ええ。今だけは」
アルディオはミロへ駆けた。三歩目で踏み込み、剣を斜めに振り下ろす。ミロの前に透明な壁が立った。刃が壁を鳴らし、火花のような白い欠片が飛ぶ。
「強っ……!」
ハトが声を漏らしたのは、壁を作ったミロにも、それを一撃でひび割れさせたアルディオにもだ。
ミロが横へ指を振る。壁から細い光が何本も飛び、アルディオの足元へ突き刺さった。彼は剣を引き、跳んでかわす。着地する先にも光が来た。
「左!」
ハトが叫ぶ。アルディオは身体をひねった。一本が上着の袖を裂き、すぐ後ろの柱を宝石のように硬く変える。
ベルダクが盾を押し出した。透明な壁と盾が正面からぶつかる。さっきアルディオと睨み合った時、石畳が割れかけた力だ。ハトは思わず頭上を見た。境界の裂け目は出ていない。ベルダクの相手はアルディオではなく、ミロの術の壁である。
「アルディオ、今だ!」
アルディオは盾の横を抜け、壁のひびへ刃を差し込んだ。ミロが初めて一歩退く。城へ伸びる白い線が、ふっと薄くなった。
足元の乳白色の宝石から、人の指が一本だけ現れた。ハトは目を疑う。指はすぐに石へ戻ったが、見間違いではない。
「今の、戻りかけた! ミロを倒せば、シェリザたちも戻る!」
「ええ。戻せます」とミロは微笑んだ。「ですが、また傷つく人へ戻して、どうするのです」
「本人に聞いてから決めろよ!」
ハトが叫ぶ間に、ミロの壁がひびを塞いだ。アルディオの剣を押し返し、ベルダクの盾に白い光を重ねる。盾を出していた腕が震えた。
「ライフリバース!」
ナユエがベルダクの背へ回り、傷ついた肩に手を当てた。紺のジャージの膝は土まみれだ。白いリボンが揺れる。彼女の魔法で魔王の腕は持ち上がるが、盾の表面にはもう亀裂が入っていた。
「ポッポ君!」
背後からリッカが工具箱を二つ抱えて走って来た。ハトへ飛びつきかけ、上着の中の琥珀色に気づいて寸止めする。
「……サイネ?」
「まだ、ここにいる。戻るところも見た」
リッカは一度だけ頷いた。ハトの上着へ触れる代わりに、アルディオの剣へ視線を移す。
「あんたの刃、次に振ったら鍔から抜ける。貸しな」
「今、戦闘中ですが」
「だから言ってんだよ。抜けた剣でどうやって戦う気?」
アルディオはもう一度ミロを見た。ネサルが赤い尾を一振りして、彼とミロの間へ入る。
「一呼吸だけなら、私が持つ」
アルディオが剣をリッカへ渡した。その瞬間、ネサルが地面を蹴った。ハトには赤い髪が一筋に見えた。ミロの腕を蹴り上げ、飛びかけた光を空へ逸らす。
リッカは工具箱を開き、剣の鍔へ細い楔を打ち込んだ。金属音が一つ。アルディオは受け取った剣を握り直す。
「助かりました」
「礼はあいつを止めてから!」
ミロが両手を開く。壁のひびが完全に消え、城の塔をなぞる白い線が再び太くなった。
ハトはサイネの宝石を上着に収め、ミロの手を見る。あれが動くたび、誰かが宝石になる。みんなの攻撃が当たった瞬間だけ、指が戻った。
勝ち筋は見えた。だが、まだ誰も、あの壁を破れていない。




