第030話 退路を守る勇者
「歩ける人から、あちらへ。走らなくていい」
アルディオが出口に立つと、列が動いた。さっきベルダクへ剣を向けた同じ手で、今は足を痛めた女性へ肩を貸している。ハトは、その手を見ていた。子どもが母親から離れかけると、アルディオがしゃがんだ。
「君のお母さんは、すぐ前にいる。ボクと一緒に行こう」
子どもはアルディオの白い上着をつかんだ。普段の彼なら、そこで花のような笑顔を作ったかもしれない。今は子どもの手を放さず、母親に追いつくまで歩いた。
「そっちの荷車、幅が足りない。こっちへ回して」
ネサルが荷車を止め、角のある店主と一緒に通れる幅を作った。ハトはサイネの宝石を押さえたまま、列の最後尾を見送る。
シェリザは名簿の紙に、出た人の数を書き足した。ハトが近づくと、銀縁眼鏡を上げる。
「先ほどの誤報は訂正を出しましたわ。ただ、広場の皆様には避難理由を短く伝える必要がございます」
「何て言う?」
「不正確な救護誘導がありましたので、安全な出口へ移動を……」
「『ここは危ない。こっちへ出て』でいい」
「それですわ! ……短く言うのは、まだあなたの方が早いですわね」
「紙に残すのは、そっちの方が百倍早い。あとで誰が出たか分かるし」
シェリザは頷き、人数を数え直した。ハトも口だけはいつもの調子に近づいた。胸の内側にある結晶の重さは変わらない。
出口へ向かう青菜の女性が、ハトを見た。
「仕立て屋さんは? あの店、さっき閉まってたけど」
ハトは上着を押さえた。
「まだ、ここには来られない。必ず連れて帰る」
女性はそれ以上聞かず、「鍋、焦げてなきゃいいけど」と出口へ向かった。ハトは答えたつもりなのに、喉に言葉が残った。
「ハルトさん」
ナユエが横に来た。ジャージの膝に土がつき、白い髪リボンが片方へ曲がっている。いつもなら「大丈夫です!」と胸を張りそうな顔が、今日はハトの上着を見つめていた。
「わたし、サイネさんがどうなっているか、まだ分かりません。でも、あの人の言う『保存』をそのまま信じたくない」
「俺もだ。戻せるか分かんねえ。でも、戻すって言うしかない」
「はい。わたしも一緒に言います」
彼女が結晶を触ろうとはしなかった。二人で同じ方を見た。
◇
最後の荷車が出口を抜けた。
アルディオが戻る前に、ベルダクは広場の内側へ進んだ。金の飾り紐が胸の前で揺れ、上着の派手な左右の色が夕方の光を拾う。だが彼の目は、服を見ていなかった。
「住民は出たか」
「広場にいた方は、出口を通過済みでございます」とシェリザ。「負傷者も、アルディオ様が連れていきましたわ」
ベルダクはネサルへ頷く。
「広場に残る者はおらぬな。ネサル、余の横へ」
「はい。陛下」
ネサルの返事が早い。赤い尾を一度だけ大きく振り、魔王の横へ並んだ。
広場の中央では、ミロが空になった椅子を揃えていた。足元には、知らない二人の宝石がある。ハトが目を離している間に変えたのだ。
倒れた日除け。毛布の男。ここへ駆け込んだアルディオ。ハトは、全部ミロの思惑だったのかと気づいて、胃が冷えた。
「市場の柱も、毛布の男も、お前の指示か」
「ええ。勇者は人を助けに来る。魔王も同じ。だからお二人を、ここへお招きしました」
ミロは礼拝の席へ案内するように頭を下げた。
「力をぶつけて境が開けば、救うべき方を選べます」
「人を転ばせておいて、何が『傷つく前』だよ」
「痛みには意味がございます。あの方々には、椅子と水もお渡ししました」
ハトは上着の琥珀色を押さえた。自分で転ばせた人へ椅子を出して、救った顔をするのか。
ハトは言い返そうとして、やめた。何を言っても、ミロはあの椅子と水を善行だと思っている。代わりに、上着の中のサイネを強く押さえた。
「シェリザ」とベルダクが呼んだ。「こやつを、城の救護へ通したのは」
「わたくしでございます」
シェリザは書類筒を抱え直した。ハトの横にいた時と同じ、落ち着いた声だった。
「人間側の認証を確認しました。現場では実際に負傷者を救い、報告にも虚偽は見つかりませんでしたわ。わたくしが陛下へ紹介したのです」
「よく働いてくださいました」とミロ。
シェリザが顔を上げる。眼鏡の向こうの目だけが、かすかに揺れた。
「あなたは陛下とお茶を飲み、冗談を交わせる。私も仲間も、あなたの救護報告に付き添って城門をくぐれました。この世界で一番厄介な魔王の、すぐそばまで」
「……利用したのですか。わたくしの記録を」
「あなたの正確さを、信じておりました。だから一度も嘘の救助を書かせていません」
シェリザは書類筒から一枚抜いた。手が動くのは、いつも通り速い。
「救護資格を、いま取り消しますわ」
ミロは祈るように両手を重ねた。
「良い働きでした、シェリザ。あなたも美しく保存してあげましょう」
「そん……な……」
白い光が走った。ハトには、シェリザが書類を持ち直す手だけが見えた。次の瞬間、銀縁眼鏡と書類が石畳へ落ちる。菫色の宝石が一粒。さっき自分の言い方を教えてほしいと言った人は、もう立っていなかった。
「シェリザ!」
ハトが駆け出そうとすると、ベルダクの腕が前に出た。魔王の声は低い。
「アルディオ、聞け。あれは人類と魔族、共通の敵だ。人間の姿を借り、己の基準で優れた魂だけを保存する。残りを捨てて、理想郷を作るつもりでおる」
アルディオが抜きかけた剣を止めた。ハトには、彼が何を思ったか分からない。ただ、刃の向きはミロへ変わった。
「シェリザさんは、その『優れた魂』だと?」
「はい」とミロ。「彼女の正しさは稀です。だが、今のままではいつか曇る。私が守らねば」
「守る相手を、石にするのか」
「石ではありません。変わる苦しみから解かれた姿です」
ミロの靴の下で、石畳が白くなった。ハトが振り向くと、通りの救護札も光っている。さっき自分が頼りにした札だ。白い線は、城の塔まで伸びていた。
「いつ、こんなものを」とネサル。
「皆さまを助けに歩いた道です。札を置くたび、少しずつ」
ミロが両腕を開く。光は街と城を包む輪になり、ハトの頭上へ広がった。まだ輪の端は繋がっていない。ベルダクの盾が、見えない壁に押し返される。
「結晶化の陣だ。防壁も同じ術で張っておる」とベルダク。「外の輪が閉じれば、城も町も呑む」
出口の先には、さっき逃がした母子も、夕飯の鍋を気にしていた人もいる。安全な家へ帰したつもりだった。まだ、この輪の中だ。
「あの輪を出しているミロを止める。ボクが前へ出る」とアルディオ。
ネサルが笛を吹いた。ハトは逃げた人たちを思い出す。家へ帰っても、この輪の中なら助からない。
シェリザの眼鏡の片方のつるを、白い線が静かに越えていった。




