第003話 女神、醤油を置く
王様の名前がベルダク。
昨夜、給与明細で見つけたその名前を、佐伯ハトは朝になっても覚えていた。
寮を出て職場へ向かいながら、折り畳んだ明細をもう一度広げる。ちゃんと給料は入っている。発行者も間違いなく『ベルダク王』。
「……どこの王様だよ」
「何を唸ってる、相棒」
入口に立つパイセンが、いつもの重々しい声で話しかけてきた。足元では靴の小さな飾りが揺れている。
「ちょうどよかった。このベルダク王って、どんな方なんです?」
「おう。立派なお方だ」
「もうちょい具体的に!」
「働いた者へ給料を出してくださる」
「それは昨日、身をもって知りました!」
王というからには、この城のある国の王なのだろうか。王様の名前など、元の世界でも全部は知らなかった。異世界ならなおさらだ。
「気になるなら、仕事のあとに聞け。遅れるぞ」
「あっ、そうだった!」
パイセンが顎で示した先を、作業着姿の人たちが足早に通る。
ハトは明細をしまって駆け出した。
王様の素性より、今日の給料。昨日の弁当の花をきっちり置けたとはいえ、まだ二日目の新人である。遅刻して職を失うわけにはいかない。
◇
弁当ラインでは、一本角のおばちゃんが先に花を並べていた。
「ハト君、手洗った? 今日も頼むよ」
「洗いました! 昨日の俺とは違うところを見せます!」
「昨日と同じでいいよ。花が客のほうを向いてりゃ」
「成長の演出が許されない!」
それでも、流れてきた最初の弁当には花を一度で置けた。
「よしっ」
「いいね。じゃ、次」
おばちゃんの採点は今日も簡潔だ。
ハトは作業の速さに合わせて花を取った。食べる側から見て正面。料理に触れさせすぎない。これができるだけで、昨日より手が軽い。
そこへ、頭の奥で聞き慣れた声が弾んだ。
『ハルトさーん!』
「うおっ。朝から元気だな!」
『ご報告があります! 実はわたし――』
言いかけた声が、ぷつりと途切れた。
「……ナユエ?」
返事がない。
あの女神にしては珍しい。ハトが顔を上げると、作業台の上に細い光が差していた。
窓からの光ではない。真上から、一本だけ。
おや。
次いで、光がぱっと広がった。
「おおっ!?」
ハトは反射的に手を止めた。
聞こえない声。降り注ぐ光。これは、ついに来たのではないか。
異世界に送られてからというもの、頼れるのは自分の手と一センチだけだった。だが女神が直接来るなら話は違う。きっと翼とか、光の衣とか、ありがたい何かを携えて――。
「ハルトさあああん!」
どすん。
上から落ちてきた女神が、作業ライン脇の床に尻餅をついた。
上下ジャージ。頭の大きなリボン。転生室で会ったときと、まるで同じ格好だ。
「……ナユエ?」
「はい! ナユエです! いたた……ハルトさん、お久しぶりです!」
「久しぶりって昨日だろ! いや、そうじゃなくて、今の登場なんだよ!?」
「下界に来ました!」
「見れば分かる! 降臨じゃなくて落下だったぞ!」
しかも、尻餅をついたまま胸を張る。威厳の置き所に困る女神である。
「どうしてここに?」
「実はですね……わたし、ハルトさんの転生手続きで、責任を問われまして」
声の勢いが少し落ちた。
「名前も、能力も、着地点も。取り返せないことをしたので……下界で責任を取るようにって」
「……それで、自分で来たのか?」
「送り出されました。ええと、その、着地のほうは自分で頑張ったつもりなんですけど」
「頑張った結果が床!」
「すみませんっ!」
ナユエは膝に手をつき、立ち上がろうとする。ハトはその手を見て、昨日の転生室を思い出した。あのとき面と向かって見た女神が、今は異世界の職場の床に座り込んでいる。
責任を取ると言われても、名前は戻らない。力も一センチのままだ。
腹は立つ。
それでも、異世界で自分の元の名を知る相手が来てくれたのは、少し嬉しかった。
「ハルトさん。今度こそ、ちゃんとお役に立ちま――」
「ちょっと! そこ、何してる!」
おばちゃんの声が、二人をまとめて止めた。
一本角のおばちゃんは、ナユエではなく作業ラインを指していた。落下の拍子に、近くの弁当が傾いている。
「お話はあと! 商品に触ったら困るよ。まず手を洗って、髪もきちんとまとめて!」
「は、はいっ!」
「ハト君も。花の手、止まってる!」
「すいません!」
女神の地上初仕事は、荘厳な宣言ではなく手洗いだった。
◇
「人間の新入りは珍しくないけど、天井から来たのは初めてだよ。それで、手伝いたいんだって?」
休憩の合間、おばちゃんがナユエを見上げた。
「はい! わたし、ハルトさんを一人にしておけないんです!」
「そのハルトってのは?」
「俺です。正式にはハトです」
「ハト君のことなら、ハト君って言いな」
「はいっ! ハルトさんのことですね!」
「ややこしいねえ」
おばちゃんは追及をやめた。目の前で働ける手が一組増えるかどうかのほうが大事なのだろう。
「じゃあ、あんたはこれ。弁当に一つずつ載せて」
渡されたのは、小さな魚の形をした醤油さしだった。
ナユエの目が輝く。
「かわいい! お魚さんですね!」
「そう。中身は醤油。蓋を閉めて、決まった場所へ置く。まずこの台でやってみな」
ナユエがさっそく醤油さしを取る。
注ぎ口を上にして、慎重に中身を入れた。
「見てください、ハルトさん! 入ってます!」
「今は入ってるな」
「いっぱい入っていたほうがお得ですよね!」
「待て。お得とかそういう――」
ナユエがさらに注いだ。
小さな魚が、指の間でむにゅっと膨らむ。
「……ナユエ」
「はい!」
「その魚、今にも何か言いそう」
ぴゅっ。
注ぎ口から醤油が一筋、台に飛んだ。
「きゃっ!」
「言った! 魚が不満を言った!」
「ごめんなさい、お魚さん!」
「魚じゃなくて商品に謝れ!」
おばちゃんはすかさず布を取り、台を拭いた。
「量を見な! 多けりゃいいってもんじゃない。客が困るよ」
「は、はい。今度はちゃんと」
ナユエは唇を結んだ。
次の魚は、慎重すぎて中身がほとんど入らない。
「……少ないね」
「さっきよりは安全です!」
「安全な空っぽを渡す気かい」
「真ん中って難しいんですね……!」
「難しく考えなくていい。八割。ここまで」
おばちゃんは魚の胴に指を添え、量の目安を見せた。
ナユエは頷き、同じところまで入れた。
「できました!」
「蓋」
「あっ」
蓋を閉める。
「向き」
「あっ!」
置き直す。
魚の口が、弁当を開く人の側へ向いた。
「よし、それでいい」
ナユエが息を吐いた。
昨日のハトが花一輪に悪戦苦闘していたことを思えば、笑えない。いや、ちょっとは笑える。
「ハルトさん、これならわたしにもできます!」
「頼むから、できてから言ってくれ!」
「今のできましたよ!」
「一個な!」
「一個できたなら、次もできます!」
妙に力強い。
おばちゃんはそのやり取りを聞きながら、二人の手元に次の材料を寄せた。
「ハト君は花。あんたは魚。しゃべりながらでも手は止めない!」
「「はいっ!」」
二人の返事が揃った。
仕事を一つずつ割り当てられる。女神と勇者が、隣同士の作業台で。
ハトの中の英雄像が、また少しだけ遠くなった。
だが、隣のナユエは真剣だ。注ぐ量を確かめ、蓋を閉めて、魚の向きを揃える。さっきの勢い任せとは違う。失敗しないように何度も目を動かしている。
ハトは花を置きながら、思わず声をかけた。
「ナユエ」
「はい、ハルトさん?」
「その魚、逆向き」
「えっ!? ……あ、本当です!」
「俺は昨日それで怒られたんだ」
「花とお魚、同じなんですね!」
「いや、同じなのは俺らの不器用さだよ!」
ナユエが笑い、魚を置き直す。
おばちゃんは二人を一瞥した。
「そこ、楽しそうなのはいいけど、魚を増やすんじゃないよ。一箱一匹!」
「「はい!」」
返事だけは、一流の連携だった。
◇
日が傾き、ようやく二人の手が空いた。
ナユエは作業場を出てからも、魚の形を作るように指を曲げている。
「ハルトさん。お魚さんって、あんなに数があるんですね」
「そりゃ弁当の数だけな。どうだ、初めての労働は」
「大変でした。でも、一つずつきちんとできると嬉しいです!」
「分かる。俺も花のとき、そうだった」
言ってからハトは口をつぐんだ。
なんで女神と、弁当の仕上がりについて分かり合っているんだろう。
そこへパイセンが現れた。
「おう、相棒。新入りを連れてきたそうだな」
「その節はどうも。いろいろあって」
「聞いたぞ。天井から来たんだって?」
「そこは聞かなくていいです!」
「大丈夫です! もう落ちません!」
「お前が言うと逆に不安だから!」
パイセンはナユエを見たあと、空いた寮の部屋へ案内するという。
「寮は同じ建物だ。部屋は別な。門限も同じ」
「ありがとうございます!」
「明日からの仕事の話も済んでる。魚の担当だそうだ」
「魚の担当……女神の肩書き、どこ行った」
ハトの呟きは誰にも拾われなかった。
案内を受け、ナユエは自分の部屋を確かめる。ハトもその隣までついていったが、扉の前で足を止めた。
ちゃんと寝床がある。ここに来てから、そういう当たり前のことがやけに頼もしい。
「ハルトさん」
ナユエが振り返った。
「……本当に、ごめんなさい。わたしが間違えなければ、もっと勇者らしい場所で、勇者らしいことができたはずなのに」
昼間の元気な声とは違った。
ハトはすぐには返事をしなかった。
名前はハト。能力は一センチ。魔王を探すどころか、今は王様が誰かもよく分からない。
許した、と格好よく言えるほど納得していない。
「俺、今でも結構怒ってるからな」
「……はい」
「だけど、謝るためだけに来たんじゃないんだろ」
ナユエは顔を上げた。
「はい。今度は、ハルトさんと一緒に働きます!」
「勇者活動もな!」
「もちろんです!」
「まずは資金。装備とか、移動とか、何するにも金がいる」
「はいっ。わたしたちで稼ぎましょう!」
ハトは財布を開いた。
昨日と今日の賃金が入っている。豊かな資金とは言い難い。でも、何も持たずにこの世界へ落ちた朝よりは、確かに前へ進んでいる。
「明日も出勤だ」
「わたし、今度こそお役に立ちます!」
「じゃあまず、魚に醤油を入れすぎるなよ」
「分かってます! あの目安まで、きっちりです!」
「あと蓋な」
「はい!」
「向きも」
「ハルトさん! それ、もう覚えました!」
ハトは笑った。
女神が本当に覚えたかどうかは、明日の弁当が教えてくれる。
二人は勇者活動の資金を稼ぐため、明日も同じ作業台に立つことにした。




