第002話 勇者、花を置く
「で、相棒。もう一つ、絶対に忘れるなよ」
無料の水を教えてくれたパイセンが、ひどく低い声で言った。
休憩所の壁際では、さっき教わったばかりのウォーターサーバーが静かに水を落としている。ハトは思わず姿勢を正した。水の次となれば、いよいよ城の秘密でも聞かされるのか。
「寮の門限は二十時だ」
「めちゃくちゃ普通のルール!」
「普通だからって舐めるな。閉まった扉の前で泣いても開かんぞ」
「泣く予定はありませんけど、覚えます!」
「あと靴。似たのが並ぶから、目印つけとけ」
男が片足を持ち上げる。物騒な覆面とごつい靴。その紐の横で、小さな飾りがちょん、と揺れた。
「……それ、かわいいですね」
「目印だ」
「かわいい目印ですね」
「仕事場じゃ靴の話をしに来たんじゃねえだろ。ほら、受付」
話を切るのが早い。ハトは笑いを噛み殺しながらついていった。
悪の組織の門番みたいな見た目で教わったことが、無料の水、門限、靴の取り違え防止。今のハトには、どれも本当にありがたい。見た目の怖ささえなければ、最初から素直に礼が言えたのだが。
受付の机には採用票が置かれていた。
「名前、ここな。給料に関わるから間違えるなよ」
「……間違えたくて間違えてるわけじゃないんですけどね」
「なんか言ったか?」
「いえ。名前は大事だなって」
ペンを持つ。
佐伯、と書いて、手が止まった。
本当は晴人だ。ちゃんと書ける。自分の名前なのだから。
だが、世界が返事をするのは別の名前。ハトが自分にだけ見えるステータスを確かめても、そこには容赦なく『佐伯ハト』とある。
「……ハト」
「ん?」
「いや、名前です」
残りの二文字を書き込む。
「佐伯ハト。これでお願いします」
「おう、相棒。これでお前も働ける」
「働けるのは嬉しいんですけど、改名の実感が採用票で来るとは……」
「給料が出りゃ、その名前も悪くないだろ」
パイセンは票を受け取り、さっさと確認へ回した。慰めでもからかいでもなかったらしい。
そりゃ、金がもらえる名前ならありがたい。
ありがたいけど、ハトはハトだ。そこはまだ納得していない。
「仕事は弁当の仕上げだ。重い物は持たなくていい。手は使えるな?」
「手は使えます。一センチの特殊能力よりは役に立ちます」
「よし。そっちはいざという時まで取っとけ」
「いざという時に一センチが必要になったら、逆に怖いんですが!」
パイセンは肩を揺らしただけで、そのまま作業場まで案内してくれた。
◇
作業場へ入った途端、ハトの鼻に温かい弁当の匂いが届いた。借りた短い作業上着の袖をまくる。
長い作業台の上を、出来たばかりの弁当が一定の速さで流れていく。蓋を閉じる前の料理のそばには、タンポポに似た小さな花を一輪ずつ置く場所があった。
「新入り? じゃあ、ここ」
隣から声をかけてきたのは、丸い体に一本角のおばちゃんだった。花を取る手も、置く手も休まない。
「ハトです! 今日からよろしくお願いします!」
「ハト君ね。あたしの手を見て、同じように置きな」
「はい!」
おばちゃんは流れてきた弁当へ花をすっと添えた。
ハトも真似をする。
「違う。花が横向いてる」
「えっ、置く場所は合ってません?」
「場所じゃないよ。食べる人が蓋を開けた時、花のいい顔が見えるように」
「花に顔の向きがあるんですか!?」
「あると思って置く!」
反論する暇はなかった。次の弁当が来る。
今度は花を少し回して置く。
「そっちはハト君から見て正面だね」
「あ、食べる人は向こう側か!」
「そう。早く、次!」
ハトは花を持ち直した。
剣を握るはずだった手が、花の向きと格闘している。しかも今のところ、完敗だ。
とはいえ、弁当そのものは実によく出来ていた。せっかく料理を整えた人がいるのに、最後の自分だけ適当でいいわけがない。
ハトは次の花を置いた。少しずれた。
ほんの少し。そう、わずか一センチくらい。
……待てよ。
「おばちゃん、俺、こういう細かい調整なら得意かもしれません」
「何を言ってるんだい。手を動かしな」
「見ててください。俺の勇者としての――いや、特技の出番です!」
いったん置いた花へ意識を集中させる。
例の能力が発動した。
花が、こつん、と一センチ動く。
正しい場所から、さらに遠ざかった。
「…………あれ?」
「ハト君」
「ちょっと待って。今のは狙いが」
おばちゃんがハトの前に手を伸ばし、花を指で戻した。
「手でやりな」
「はい」
短かった。
世界に一つの勇者の能力より、おばちゃんの指先のほうが速くて正確だった。
「ハト君、次!」
「はいっ! ……俺の能力、仕事に就けませんでした!」
「花を置くのはあんただよ!」
おばちゃんは笑っている暇もないという調子で、次の弁当を流していく。
ハトは今度こそ能力に頼らず、花を手でつまんだ。食べる人の側。料理を邪魔しない位置。向き。
置く。
「……これは?」
おばちゃんの視線が一瞬だけ手元へ降りる。
「うん。それでいい」
「よっしゃ!」
「声! 次、来てるよ!」
「はい!」
たった一輪。
けれど、さっきから何度も注意されていたものが初めて通った。嬉しい。情けないほど嬉しい。
ハトは続く弁当へ手を伸ばす。
次も、食べる人の側から見る。
置いて、確かめる。流れていくのを見送る。花がきちんと収まっていると、もう一度やりたくなる。
気づけば、ハトは流れの先を睨んでいた。
「ハト君、そんな怖い顔で花を置くんじゃないよ」
「すいません! 次こそ完璧にしたくて!」
「完璧より、止めずに丁寧に。ほら、こっちも頼むよ」
おばちゃんは隣の分の花までハトの手元へ寄せた。
「え、俺が?」
「できるだろ」
そう言うと、彼女は自分の作業へ戻る。
褒め言葉は一言。それ以上に、仕事が増えた。
ハトは背筋を伸ばした。
「任せてください!」
勇者の出番はまだ来ない。
ただし弁当ラインでは、新入りが花二列分を任されている。本人はわりと本気で誇らしかった。
◇
昼休みになったころには、肩が固まっていた。
「午前中はよくやったよ、ハト君」
「ありがとうございます。あの、明日も花ですか?」
「もちろん」
「よし。明日は最初からちゃんと置きます!」
「はいはい。まず飯食いな」
おばちゃんが作業台から離れ、自分の昼飯を開いた。
ハトは思わず二度見した。
料理が片側へ寄っている。飾りも何もない。蓋を開けたときの向きなんて、微塵も気にしていないような詰め方だった。
「……おばちゃん?」
「何だい」
「俺には、花の顔がどうとか、ものすごく厳しかったですよね?」
「お客さんの弁当だからね」
「じゃあ、それは?」
「あたしの昼飯」
「割り切りが速い!」
「自分で食べるんだから、腹に入れば一緒だよ。ハト君も休む時は休みな」
おばちゃんは平然と食べ始めた。
ハトはしばらくその弁当を見ていたが、なんだか可笑しくなってきた。
あれほど花の角度に容赦がなかった人が、自分の飯にはこれである。
でも、客の分には一輪も気を抜かない。
「……かっこいいですね、それ」
「何が?」
「いえ。明日もよろしくお願いします!」
「元気なのはいいけど、午後も同じ調子で頼むよ。上がる時刻は守りな。寮の門限もあるだろ」
「二十時でしたね。ちゃんと間に合うように帰ります!」
ハトは午後の作業へ戻った。夕方、最後の弁当を見送ってから荷物をまとめる。
門限に水、靴の目印。そして花の向き。
異世界で覚えたことがどんどん生活寄りになっていく。勇者の冒険は、どうやら就業規則から始まるらしい。
『ハルトさん! 勇者活動の資金集め、初日はどうでした?』
帰り道でナユエの声がした。ハトは自分の指先を見た。まだ花をつまむ形になっている。
「花を置いてきた」
『えっ。お仕事は?』
「花を置いてきた」
『……魔王は?』
「花がこっち向いてるかどうかで一日終わったよ!」
『でも、お給料が出るなら大成功です! 明日も一緒に頑張りましょう!』
「お前は何を頑張るんだよ。遠隔で応援してるだけだろ!」
『応援も全力ですよ!』
「その全力、転生手続きの時に出してほしかった!」
ナユエは「あうっ」と言って黙った。ハトも、言い過ぎたかと少しだけ思ったが、訂正する前に寮の入口が見えた。
◇
寮の入口に着くころには、足が重かった。
それでも今日の給料を受け取り、給与明細を開いた瞬間、ハトの顔がほころぶ。
「……本当に、もらえた」
記載された名前は『佐伯ハト』。
ああ、ここまで徹底してハトなのか。わずかな悔しさはある。
だが、その下には働いた分の賃金が並んでいた。
水をもらい、仕事を教わり、弁当に花を置いた。途中で能力を使って失敗した。それでも一日の終わりに、ちゃんと金が残った。
勇者としてはどうなのか。
まあ、今日はいいか。
ハトは明細を折りかけ、下の欄に目を留めた。
『発行者:ベルダク王』
折り目をつけかけた指が止まる。
「……ん?」




