第001話 勇者、名前を失う
勇者として異世界へ旅立つのなら、最初の一歩くらい格好よく決めたい。
佐伯晴人はそう思っていた。
黒茶の短髪を手で撫でつけ、背筋を伸ばす。細身の身体に鎧はないが、そこは転生後のお楽しみである。
白く明るい転生室。目の前には、光る文字がびっしり並んだ半透明の画面と、その向こうで胸を張る女神がいる。
上はジャージ、下もジャージ。頭の大きなリボンだけが天使っぽい。晴人が思い描いていた「女神」とは、衣装の都合がだいぶ違った。
「非番中に呼ばれまして! でも大丈夫です、手続きは何度も見てますから!」
「見てるだけじゃないですよね?」
「今日はちゃんと、わたしがやります!」
聞いていない不安材料が、元気よく一個増えた。
「では、ハルトさん! あなたの新しい人生を、わたしナユエが責任をもって送り出します!」
「頼みます。できれば出発のとき、剣を掲げる感じで」
「いいですね! 勇者っぽい!」
ナユエが勢いよく指を滑らせた。動きが速すぎて、晴人の「確認します?」が間に合わない。
画面に文字が浮かぶ。
『登録名:佐伯ハト』
「……ハト?」
「はい、ハルトさん!」
「返事は合ってる。登録名が合ってない」
ナユエは画面を覗き込み、笑顔のまま固まった。
「サエキ、ハト……あれ? ハルトさん、ですよね?」
ナユエの目が、文字と晴人の顔の間をせわしなく往復した。
「そう言ってますよね、さっきから!」
「では、もう一度、確認を……佐伯ハト。あっ、確認って読み上げることじゃなくて!」
「読み直してもハト!」
晴人が手を伸ばすより早く、画面の文字が金色に変わった。
『登録完了』
小気味よい音がした。晴人には、何か取り返しのつかないものが閉まる音に聞こえた。
「待って。今の確定した?」
「……しました」
「戻して」
「登録は一度きりで……」
「勇者の第一声が改名の相談になるとは思わなかった!」
ナユエは両手を合わせた。
「でも、ハルトさん。お名前が少し短くなっただけです! 中身は同じですから!」
「鳩だぞ。空飛ぶほうの」
「勇者も飛べたら素敵ですね!」
「名前だけ鳩にされても飛べませんからね!」
晴人はためしに半透明の画面へ声をかけた。
「ステータス。佐伯晴人」
画面はぴくりともしない。
「……佐伯ハト」
『はい、佐伯ハト』
「返事すんな! 俺より先に名前を受け入れるな!」
「わたしはハルトさんって呼びますから!」
「それはありがたいけど、世界のほうを説得して!」
ナユエが画面を両手でなでる。画面は光ったまま、一文字も変わらなかった。撫でて直るなら、勇者の仕事もずいぶん楽である。
ともあれ、名前で魔物は倒せない。
晴人――世界の登録上は佐伯ハト――は、どうにか気持ちを立て直した。肝心なのは力だ。勇者らしい能力さえあれば、名乗るときの恥ずかしさくらい乗り越えられる。たぶん。
「能力のほうは、間違ってませんよね?」
「もちろんです! 対象を一キロメートル押し出す力! 遠くの敵だって、どーんと!」
「おお!」
これだ。晴人が待っていたのはこれである。
ナユエが付与欄を示した。
『押し出し:一センチ』
「……センチ?」
「はいっ!」
「一キロメートルは?」
「……あ」
ナユエが慌てて桁を数え始める。途中で指を折るのをやめ、窓の端へ視線を逃がした。
「メートルに直してから、センチに……あれ、どこで桁が……」
「計算の実況はいい! 距離が十万分の一になってる!」
晴人は画面と女神を交互に見た。ナユエは、先ほどと同じ顔になった。
「修正」
「付与も、一度きりです……」
「この部屋、一度きりのもの多すぎない!?」
「一センチでも使い方次第では、すごいかもしれません!」
「何を押すんだよ。一センチだぞ」
「ええと……机の端の、ちょっと遠いものとか!」
「手を伸ばす!」
「あと、お水を少しだけ……」
「こぼれるだけだろ!」
試しにナユエが出した小さな物を前に置き、ハトは意識を集中させた。
こつ、と音がして、それは確かに一センチ動いた。
動いた。以上である。
ナユエがぱっと拍手した。
「ほら、ちゃんと発動しました!」
「そりゃ発動はしたけど!」
「これで、重たい扉だって……」
「一センチ開けてどうすんの。指挟むわ!」
その使い道を想像したせいで、本当に指先が痛くなった気がした。
悪い冗談だと思いたかったが、目の前の画面は親切にも『付与済み』と告げている。
「……ナユエさん」
「はい、ハルトさん!」
「せめて行き先は、まともな場所なんですよね?」
「そこはお任せください! 勇者にふさわしい場所へ、正確に!」
ナユエが顔を輝かせ、最後の操作に手をかけた。
ハトはその指を見た。
「一回、確認しよう。ね?」
「大丈夫です! もう間違えません!」
「その自信、どこから出てくるんだ!」
足元に光が広がる。
止める間もなく、転生室が遠ざかっていった。
最後に見えたのは、操作画面を二度見するナユエだった。
「あっ」
「今の『あっ』は何だあああ!」
叫びは白い光に呑まれた。
◇
次にハトが聞いたのは、英雄を歓迎する歓声ではなかった。
「そこの人! 布をこっちへ!」
足元は踏み荒らされた土。知らない人々が負傷者を運び、水を求める声が飛び交っていた。
ハトは辺りを見回す。勇者を出迎える人はいない。剣を授けてくれる老人もいない。代わりに、両腕いっぱいの布を抱えた人がこちらを睨んでいる。
「聞こえてる!?」
「聞こえてます! 手伝います!」
「何でもいいから早く!」
「勇者の名乗りを挟む隙もない!」
受け取った布を渡し、水を運ぶ。重い荷物には手が出せず、できることから片づけた。
丸い耳の小さな子が、水の入った器を両手で持って立ち尽くしている。運び先の大人は、別の人を支えて手が塞がっていた。
「それ、俺が持つよ」
「落とさない?」
「落としたら怒っていい」
「……すごく怒るよ」
「急に責任重くなったな!?」
器を預かって運ぶ。こぼさず渡すと、子どもは厳しい顔のまま一度だけうなずいた。勇者認定には遠いが、水運びの合格点はもらえたらしい。
ありがたいことに、ここで誰も一センチの押し出しを要求しなかった。要求されても困る。
『ハルトさーん! 無事ですか!』
突然、耳元にナユエの声が響いた。姿はない。
「今、救護してる! ここ、どこだ!?」
『着地点がずれたみたいで……ごめんなさい! 地理が分からないので、現在地も……』
「住所不明で配送完了って言うな!」
『わたしだって、こんなはずじゃ……!』
「俺もだよ! とにかく後で!」
呼ばれたハトは、返答も待たず布を抱えて駆けた。
勇者の力は出番なし。それでも水を渡した相手に「助かった」と言われたのは、悪くなかった。
その言葉に少し胸を張ったところで、別の人が布の束を胸へ押しつけてきた。ハトは両腕を広げたまま、しばらく動けなかった。
ここに財布も寝床もない。布の山の向こうで腹が鳴った。
救護が一段落すると、近くの人が声をかけてきた。
「お前さん、仕事は?」
「ありません! 住むところも! 今から働けます!」
「ずいぶん切羽詰まってるな。城の下働きなら紹介できるぞ」
「日払いですか!?」
食い気味に尋ねてしまった。
異世界の勇者が、雇用条件に目を輝かせている。
頭の中でナユエの声がした。勇者らしい場所へ、正確に。晴人は目の前の救護所と、今聞いた日払いの仕事を見比べた。
「……勇者って、最初は何するもんでしたっけ」
「知らんが、まずは飯だろ」
「そうですよね!」
異世界で初めて信頼できた教えが、勇者の心得ではなく食費の話だった。
『ハルトさん、聞こえますか! わたしも考えました! 勇者活動にはまず資金が必要です!』
「今ちょうど仕事紹介してもらった」
『さすがです! 資金を稼いで、それから魔王を探しましょう!』
「順番だけ聞くと堅実なんだよなあ」
名前も能力も行き先も間違えた相手の助言である。ところが財布が空の今、これ以上まともな案もなかった。
「まず会って聞いてみな」
「ありがとうございます! ぜひ!」
剣の授与より、仕事の紹介のほうが嬉しかった。認めたくないが、現実である。
◇
紹介された男は、顔をすっぽり覆面で隠していた。
城の入口の脇に陣取り、腕を組んで仁王立ち。ひょいと顎を上げる姿など、絵に描いたような悪の雑兵だった。足元にだけ、小さなチャームのついた靴が見える。怖い格好と、どうにも噛み合わない。
「お前が紹介の新入りか。ふん、相棒と呼んでやろう」
「初対面で相棒ですか」
「嫌か?」
「いや、嫌ってわけじゃ……」
「なら決まりだ」
「じゃあ俺は、覆面パイセンって呼びますね」
「好きにしろ、相棒。で、水筒は持ってるか?」
その低い声で何を尋問されるのかと思えば、水筒。
「……持ってませんけど」
「やっぱりな。こっち来い」
パイセンは城の門をくぐり、顎でハトを促した。門では角のある兵と、ハトと同じ丸い耳の作業着姿の女性が、並んで帰り支度をしていた。
「明日も早いからね」
「分かってるって。お疲れ」
パイセンは二人に片手を上げ、ハトもその横を通した。ハトは数歩遅れてついていく。相手の装いは十分怪しい。でも手持ちの金はゼロ。職場の紹介を断って野宿する度胸はない。
「ここが休憩所。水は無料だ。備え付けのものでも飲めるが、水筒があると自分の席へ持っていける」
「無料ですか!」
「そこに食いつくのかよ、相棒」
「生活かかってるんです!」
パイセンが得意げに指し示したのは、どう見ても水を汲むための設備だった。秘密兵器の説明でも始まるかと身構えた自分が恥ずかしい。
勇者として異世界へ来た男の第一関門は、ウォーターサーバーの場所を覚えることだった。




