第027話 結晶を抱えて
「あなたには、見えるんですね」
ミロがナユエへ向けた笑みは、サイネへ向けたものと少しも変わらなかった。
ハトは琥珀色の宝石を握ったまま立ち上がる。仕立て屋の床には、サイネが落とした針が一本。拾ってやりたいのに、今は拳を開くのも怖い。
「ナユエ。人間じゃないって、あの時のやつと同じか」
「はい。あの人より、ずっと……」
ナユエの手が、いつものように魔法を使う形に上がった。だが、ハトの拳の中の宝石を見て、指が止まる。
「ライフリバースなら……いえ。傷かどうかも分からないのに、勝手にかけません」
「うん。今はそれでいい」
「じゃあ、わたしができることは?」
泣き出しそうな顔で、答えをハトへ押しつけてこなかった。ハトは扉の向こうを見た。あの白い外套が、まだ人のいる通りへ出ようとしている。
「あいつが誰に近づくか見ててくれ。俺の目じゃ、ほかの偽物は分からない」
「はい。見失いません」
その間に、ミロが店先へ歩いた。ハトは道を塞ごうとして、一歩も出なかった。自分が退けば、ミロの手とナユエの間には誰もいない。
「サイネを戻してから行け」
「あの方はもう、傷みません」
「俺は戻せって言ってんだよ!」
ミロは答えず、扉の外へ出た。通りで誰かが悲鳴を上げる。「市場の日除けが倒れた! 子どもをどけて!」と声が重なった。ハトが宝石を上着の内側へ入れて追おうとすると、ナユエがその腕を押さえた。
「ハルトさん。今、あの人に近づいたら」
「分かってる。分かってるけど、あいつを行かせたら――」
ハトは言葉を切った。拳の中に、親指ほどの宝石がある。力を入れれば割れそうで、緩めれば落としそうだった。さっきまでその手で、サイネは二着の子どもの外套を縫っていた。
店の前で荷を下ろしていた人間の老人が、戸口から覗いた。
「中にいた娘さんは? さっきまで声がしてたろ」
ハトは答えられなかった。老人の目は、サイネの机と、そこに立っていたはずの人を探している。
ナユエが一歩前に出る。紺のジャージの袖を握りしめ、うまく笑おうともしなかった。
「危ないので、少し離れてください。店の人は、わたしたちが探します」
探す。手の中にはいる。けれど、ここにいると言っていいのか、ハトにも分からない。
ミロの白い外套は、人の流れの向こうへ消えかけていた。市場の日除けが倒れ、布の下から荷車が引き出されている。腕を擦った女が、足をひねった子を連れて救護広場へ向かった。前にシェリザと荷物を運んだ場所だ。椅子と水の桶は、もともとそこにある。
「鍋を火にかけたままなのに」と女が言った。ハトは言いかけた。鍋なんか今はいいだろ。でも、サイネだって帰るまで机に針を出したままだ。
ミロが荷車の脇を通る。男が道を譲り、ミロは礼を言った。あの手で誰かの肩を抱く前に追いつきたい。ハトは走りかけ、上着の中の結晶を押さえて足を緩めた。転べばサイネを石畳へ叩きつける。
「俺が見てたんだ。あいつがサイネに何したか」
「はい」
「だから俺が追う」
「でも、その子を持って走るんですか」
ナユエは結晶へ手を伸ばしかけ、触れずに止めた。
ハトは奥歯を噛んだ。渡すのも怖い。持ったまま走るのも怖い。
外から短い笛の音が聞こえた。
「通りを空けて! 店の前には寄らないで!」
ネサルだった。赤髪を揺らし、立ち止まった人たちを左右へ下がらせる。片肩の防具に洗濯物が引っかかっていた。彼女はそれを持ち主へ返しながら、ハトの顔を見た。
「何があった」
「ミロが……サイネを、これに」
ハトが手を開く。琥珀色の宝石の中を藍色の筋が走る。ネサルは空になった仕立て屋の机と見比べ、表情を硬くした。
「触れたの?」
「光った。間に入ったけど、止められなかった」
「分かった。あなたはそれを落とさないで。追跡は私がやる」
「俺も行く」
「行って。あなたは目撃者よ。ただし私より前へは出ない」
ネサルはハトの上着を指した。そこにサイネの宝石がある。ハトは頷いた。
後ろから覆面パイセンが現れた。今日は勤務中らしく、黒い覆面のまま、店先にいる老人の荷車を押している。
「おい相棒。上着の内ポケットに入れとけ。走る時、手で押さえられる」
「……パイセン、今それ?」
「落としたくねえんだろ」
たしかに、その通りだった。ハトは宝石を作業上着の内ポケットに入れ、片手で押さえる。サイネをしまい込むようで嫌だったが、石畳に落とすよりいい。
「ありがとう。あと、その人を頼む」
「もう頼まれてる」
パイセンは老人の荷車を出口側へ向け、車輪が溝にはまらないよう柄を少し持ち上げた。
◇
広場に着くまで、ハトはずっと上着の内側を押さえていた。道の角には「救護はこちら」と書かれた白い札が貼ってある。
椅子に座る人、杯を受け取る人。ミロが「こちらへ」と告げた相手が、少しずつ同じ場所に集まっていた。ハトには、みんながあの白い外套を信じているのが分かった。
広場の奥で、ミロが別の列へ手を振った。
「出口は、あちらです。ゆっくりで構いません」
老人の肩を支える手つきは丁寧だった。あの手がサイネを消した。
ハトが歯を食いしばる横で、ナユエが急に足を止めた。
「ハルトさん」
「ミロなら見えてる」
「違います。列の、前から三人目」
ナユエの視線の先には、毛布を肩に巻いた人間の男がいた。誰かを支えながら、出口の位置を熱心に尋ねている。
「あの人も、同じです」
ハトは結晶を押さえる手に力を込めた。列には本当に疲れた顔の住民もいる。逃げ道へ向かう人々の間で、その一人だけが人の顔をして立っていた。




