第026話 保存対象ですね
サイネは次の客の上着へ鋏を入れた。袖の端が指二本ぶん余る。迷わず切り、針を通す。
「これ、昨日の丈のままじゃ着てる人が動けないからね」
サイネは机の端に置いた古い袖布を丸め、作業箱へ入れた。
「ハト、さっきの覆い、洗うなら裏返してね。留め具ごと水に浸けると――」
「顔の方から洗う?」
「布の方から洗う。王様の腹筋を磨く話じゃないよ」
「俺もしたくないよ」
サイネは口の端だけで笑い、上着の袖口を揃えた。ハトは頼んだ直しがもう終わったのに、店を出るきっかけをつかみ損ねていた。
「直すたび、元の形はなくなるんですね」
ミロが静かに言った。
「そりゃそう。長さが合わないなら、変えるよ」
「この手で、何人ぶんを?」
「数えたことない。……あんたも直し?」
「いいえ。あなたを見ていました」
サイネの鋏が止まった。ハトは、昨日の皿の破片を思い出した。欠けた一片を探して、ミロは地面へ指を入れていた。
「ミロさん。そこの上着、袖を直すだけだよ。変な意味じゃ――」
「ええ。とてもよく分かります」
ミロは微笑んでいた。昨日、怪我人に椅子を持ってきた時と同じ顔だ。
「傷んだものを見捨てず、その人が明日も着られるようにする。手を動かすたび、形が変わる。素晴らしいです」
サイネが少し眉を上げた。
「褒めてくれるなら、手は止めさせないで」
サイネは上着を持ち上げ、直したばかりの袖へ腕を通す真似をした。
「元の縫い目はきれいだったよ。でも、これを着る子はもう肩が入らない。残して飾っておいても、明日着て出られないだろ」
「せっかくの形を、切ってしまうのですか」
「伸びた肩に合わせたの。来年また伸びたら、その時また直す」
「……来年も、変わるのですね」
「子どもだもの。変わらなきゃ困るよ」
ミロが袖ではなく、布を押さえるサイネの指を見た。ハトはさっきまで彼女に自分のマントを合わせてもらっていた。同じ手を見ているのに、男が何を惜しんでいるのか、急に分からなくなる。
「だからこそ、失われるのが惜しい。どうか、私にその手を守らせてください」
白い外套の袖口から、淡い光が漏れた。
ハトはとっさにサイネとミロの間へ入る。何が起こるか分からない。ただ、昨日、皿を元に戻せないと言った時のあの目が、今は彼女を見ていた。
「ちょっと待て。何する気だ」
「この方が、今ここで生きている形を、残します。変わる痛みから解き放つのです」
「本人に聞けよ!」
サイネは縫いかけの布を机へ置き、片手でハトの肩を引いた。もう片方の指には針が残る。職人の力は強い。
「ハト、外へ。店の前に人がいる」
「あんたも来い!」
「布と鋏は置ける。すぐ行く」
その一拍を、ミロは待たなかった。
「素晴らしいです。あなたは保存対象ですね」
カッ、と店の中が白くなった。
ハトはサイネへ手を伸ばした。指先が黄色い前掛けをかすめる。サイネの輪郭に琥珀色の光が走った。髪も前掛けも、そこに立っていた身体ごと、光の中心へ縮んでいく。
サイネの指から針が落ちた。口が何かを言いかけた形も消える。机の上に残ったのは、親指ほどの琥珀色の宝石だった。表面を傾けると、藍色の細い筋が一つ光る。
宝石が机から落ち、床を跳ねた。
カラン、カラン。
「……サイネ?」
ハトは膝をつき、宝石を拾った。温度は石畳と同じだった。握れば隠れる大きさなのに、さっきまでそこにいた人間一人だと、ハトは見ていた。砕けば戻るのか、それとも――分からない。
「戻せ。今すぐ」
「この方は傷みません。どうか安心を」
「それ、助けたって言わねえよ」
ミロはハトの怒鳴り声に首を傾げた。
ハトは琥珀色の石を拳の中へ隠した。ミロが一歩近づく。ハトは店の鋏を拾おうとしたが、柄を握る前に足元へ細い光が走った。ハトは手を引っ込める。店の外で魔物たちが一斉に鳴いた。
針山が机の端から落ち、一本の針が床を転がった。サイネが使っていた針だ。ハトは拾いかけたが、光がまだ床を走っている。伸ばした手を引くしかなかった。
ミロの目は琥珀色の石に向いていた。サイネの声はもう聞こえない。
ハトは棚の陰へ転がり、宝石を包んだ拳を胸へ押しつける。剣も、まともな加護も、今ここにはない。持っていても、この一歩を止められたか分からなかった。
「ハルトさん!」
通りからナユエの声がした。騒ぎを聞いて当番を抜けてきたのか、紺のジャージのまま扉へ駆け寄る。白い髪リボンが揺れた。
「来るな! こいつ――」
ナユエはミロを見た。足が止まる。
人を見間違えた時の顔ではない。もっと根の深いものを、目の前に見つけてしまった顔だった。
「……ハルトさん。その人から離れて」
「知ってんのか」
ナユエはハトの手の中を見た。琥珀色の石を見て、サイネが立っていたはずの机へ目を戻す。いつものように勢いで魔法名を叫ぶことも、失敗をごまかす笑顔もなかった。
「その人、人間じゃありません」
ミロは初めてナユエへ目を向けた。
「あなたには、見えるんですね」
ハトは結晶を抱え直した。さっき、サイネが隠してくれた肖像入りのマントが背で揺れる。布の下の王は、もう見えない。
縫いかけの外套と、落ちた針が、そのまま残っていた。




